月日とともに
何度も何度も、身だしなみを確認するエリヒオ。
ネクタイが曲がっていないか、裾はほつれていないか、髪は乱れていないか。
馬車の中でしきりに鏡を見て確かめていた。
「……埃が肩についている」
そんな彼の後ろから。
無骨な指先が伸び、肩の埃を払い落とした。
義兄ヴェルナーを見上げ、エリヒオは眉間にしわを寄せる。
「あ、後で落とす予定だったんだ。とっくに気づいていたさ」
「そうか」
「だがまあ……指摘してくれた点については礼を言おう。よくやった」
素直ではない弟の態度に、ヴェルナーは特に反応しなかった。
いつものことだ。
これが兄のみに向けられた態度であれば構わないのだが……他の者にも向くとなれば話は別だ。
「いいか、エリヒオ。これから会うのは名高き騎士の家系、ネドログ伯爵家だ。決して粗相がないようにな」
「ふん、わかってる。昔みたいに癇癪を起こす僕じゃないさ」
次期テュディス公爵として。
エリヒオはヴェルナーの補佐のもと、各地を巡って経験を積んでいた。
まだまだ未熟なエリヒオだが、ヴェルナーとテュディス公はじっくりと彼を育成するつもりだ。
身だしなみを確認したエリヒオとヴェルナーは馬車を降りる。
ネドログ伯爵家の前では、対談の相手となる伯爵……ランドルフ・テュルワが立っていた。
隣にはネドログ伯爵夫人ヘルミーネの姿もある。
エリヒオはにこやかな笑みを張りつけ、ぎこちなく一礼した。
「ごきげんよう、ネドログ伯爵夫妻。テュディス公爵令息のエリヒオ・ノーセナックです」
「お久しぶりです、テュディス公爵令息。前回にお会いしたのは一年ほど前でしょうか。また一段と逞しくなられたご様子で」
ランドルフは心にもない世辞を述べて握手を交わした。
しかしエリヒオは空言にも気分を高揚させ、さらに笑みを濃く浮かべる。
「いえいえ! ネドログ伯爵も相変わらず勇ましい。さすがは騎士の家系、ロドゥラグ騎士学校出身の御仁ですね!」
「身に余るお言葉です。さあ、中へどうぞ」
屋敷の中へ入り、応接間へ。
エリヒオとネドログ伯爵夫妻が向かい合う形で座り、ヴェルナーはその後ろに立つ。
あくまでヴェルナーはエリヒオの補佐という立場を取り、テュディス公爵家の人間としては振る舞うつもりはなかった。
使用人が紅茶と茶菓子を置く。
紅茶から立ち昇る煙を眺めつつ、ランドルフは切り出した。
「まずは軽い世間話でもしましょうか。テュディス公爵令息は学園を卒業後、いかがお過ごしでしょうか」
「今は経験を積むため、こうして色々な家の方と関係を築いています。いやはや、貴族の付き合いというのは大変ですねぇ」
ニルフック学園では悪評高かったエリヒオ。
今も完全に悪評が拭えたわけではないが、彼の努力を認める者も増えつつある。
「それで、ネドログ伯爵家はどうです? 何かお困りごとなどありませんか? 困ったことがあれば、テュディス公爵家が惜しみなく助力しますよ!」
「ふむ……経営に産業、人材の育成。特に困ったことはありませんね。ですがお気持ちは嬉しく思います。今後とも助け合って参りましょう」
「ええ、ぜひ! グラン帝国のために協力していきましょう!」
美辞麗句の並べられた会話。
ヴェルナーは無心で、ヘルミーネは退屈そうに二人の会話を聞いていた。
貴族にとっては大事な対談だ。
退屈だが邪魔をするわけにはいかない。
そういえば……とランドルフは顔を上げてヴェルナーを見た。
「そうだ。話は変わるのですが、ヴェルナー卿。お手紙は確認されていますか?」
「……手紙?」
「はい。妻の姉、エレオノーラからヴェルナー卿に手紙を送ったらしいのですが……一か月近く返事がないと」
「最近はもっぱらエリヒオの付き添いで外出していたからな。手紙は確認していない。一報賜り感謝する」
エレオノーラ。
その名を聞いた瞬間、エリヒオの眉が上がる。
「あの青い女か……ヴェルナー、まだあの女と付き合ってるのか? 暴言が移るぞ」
これは失言だ。
ヴェルナーはすかさずエリヒオの言を諫めようとしたが……彼よりも先に口を開いたのはヘルミーネだった。
「なんですって? 今、お姉様を馬鹿にしたわ……しましたね?」
「ああ、いえ……事実を申しただけですので。実際、彼女はいささか礼節に欠けているでしょう? 僕が言うのもおかしな話ですが」
「そんなことないわよ! あの良さがわからないなんて、目が節穴じゃないの?」
「なっ……!?」
まずい。
ランドルフはヴェルナーと視線を合わせた後、慌てて立ち上がる。
事態は一触即発。
ここは早急な対処が必要だ。
「ヘルミーネ。お前が姉を好きなのはわかったから、少し静かにしていてくれ。無礼だぞ」
「嫌よ! このまま黙っていることなんてできないわ!」
制止するランドルフの手を払い、ヘルミーネは身を乗り出す。
「ぼ、僕は事実を言っただけだろうが! 第一、あの青い女は僕に対してとんでもない暴言を吐いたんだぞ? 『身分を振りかざすことしかできないヒスとうもろこし野郎』って……今でも覚えてるんだからな!?」
「そんなの、あなたに原因があるからに決まってるじゃない! お姉様は普通の人には暴言を吐かないもの!」
「はぁ!? お、お前っ……無礼だぞ!」
「少し黙れ。エリヒオ、癇癪を起こさないと言ったのを忘れたか?」
そのとき。
鋭く刺すような剣気がエリヒオの後方で発された。
ヴェルナーの気配に、エリヒオは背中に冷や汗をかいて振り返った。
露骨な苛立ちを湛えて佇む兄。
これ以上怒らせると本当にまずいことになる。
エリヒオの癇癪など、ヴェルナーの怒りに比べればかわいいものだ。
「こ、こほん。いえ……すみません、夫人。姉君を悪く言うつもりはなくてですね……ええ、昔の記憶を思い出して心にもないことを言ってしまったのです。申し訳ございません」
「……別に、そこまで怒っていませんが」
「僕が全面的に悪いです。今やエレオノーラ様……『呪われ姫』も帝国の偉人。僕のような者が侮蔑するなど許されません」
本音で言えば、まだエリヒオはエレオノーラが気に食わない。
貴族のくせに言葉づかいが荒いし、率直にものを言ってくる態度が怖い。
それでも成し遂げた偉業は認めなければならないだろう。
「せっかくですから……夫人の感じるエレオノーラ様の良さ、僕に教えていただけませんか?」
「……! ええ、もちろんですわ!」
ヘルミーネは笑顔を咲かせて話し始めた。
どうやら丸く収まったらしい。
ヴェルナーとランドルフは安堵しつつ、ヘルミーネの語りに耳を傾けた。