卒業式
ニルフック学園、卒業式。
会場となる大広間に入ったエレオノーラ。
彼女の鼓動は高鳴っていた。
「あら、おはようノーラ。綺麗じゃない!」
バレンシアはエレオノーラを見て息を呑む。
今日はお世話になった先輩たちの晴れ舞台。
レオカディアやイアリズ伯爵家の侍女に協力してもらい、気合を入れた装いをしてきた。
「どうもどうも。そういうバレンシアも綺麗だよ」
装いは昨年の文化祭を参考に。
黒を基調にしたレースのドレスに、紅いコサージュ。
じっくりと時間をかけて髪を巻き、メイクを仕上げてきた。
大好きな人のためにも……綺麗な身だしなみは欠かせない。
「今日は卒業生の親御さんがいっぱい来てるから、なんか落ち着かないね」
「そうね……特にあなたは見られているもの」
心なしか視線を感じていたのは、エレオノーラの勘違いではなかったようだ。
中には『あれが噂の……』と聞こえる声で囁く人もいて。
渦中の真っただ中にいたエレオノーラは良くも悪くも有名人になってしまっている。
『呪われ姫』の正体だとか、宗教派の手先だとか。
虚実入り混じった噂が流布されていた。
いまさら後悔も恥じ入りもしない。
ただ胸を張って自分が為したことを誇ればいい。
「おーい、ノーラ!」
人の波をかき分けて、コルラードが走ってきた。
誰かを探し回っているらしい。
「コルラードさん、おはよ」
「おはよう! いきなりで悪いんだけど、ペートルス様見なかったか?」
「ペートルス? そういえば一足先に学園に行ってるって言ってたけど……まだ見てないや」
「そっか。話したいことがあったんだけど……まあいいか。今すぐに話さなきゃいけないことでもないしな」
本来、コルラードはこの一年で帰国するつもりだった。
ペートルスの反乱という最終目的を遂げて、再び『凶鳥』から『サンロックの賢者の弟子』に戻る。
そう決意していたのに、思わぬ形で結果が覆されてしまったから。
師匠アロルドのためにも、もっとニルフック学園で学んでいきたい。
「俺、今年で東の大陸に帰るつもりだったんだけどさ……せっかくだし、あと二年学ぶことにするよ。だからノーラにバレンシア、これからもよろしくな!」
「まったく……調子がいいわね。でも心強いわ」
「うん! よろしくね、コルラードさん!」
友との別れは必ず訪れる。
それでも別れを先延ばしにできたことは、きっと大きな意味がある。
「おーい、お前らー。そろそろ式が始まるぞー」
担任教師の呼びかけに顔を上げる。
気づけば式がまもなく始まる時刻だ。
きっと最高の日になるだろう。
エレオノーラは予感を胸に抱き、開式を待った。
◇◇◇◇
「……それでは、卒業生代表ペートルス・ウィガナックより答辞をいただきます」
壇上に貴公子が上がる。
誰もが固唾を呑んで、彼の一挙手一投足を見守っていた。
一度は訃報も流れた反乱の指導者。
悪しきルートラ公に利用された悲劇の公子。
ありとあらゆる噂が交錯する渦中の人物だ。
だが、学園の生徒は誰もが知っている。
ペートルスは卒業生を代表するに相応しい器だと。
「…………」
エレオノーラは感動に満ちた想いで彼を見上げる。
在校生の席に座るフリッツは尊敬の眼差しを、エルメンヒルデは常変わらぬ笑顔を送っていた。
――そしてマインラートは。
「ふあぁ……」
大きく欠伸をしていた。
旧友だからこそ知る、ペートルスの性質。
どうせこの男は人前では取り繕った話しかしないのだ、と。
マインラートは眠気混じりに彼の登壇を眺めていた。
「ひとつ、皆さまに伝えなければならないことがあります。私事ですが、どうか聞いていただきたい」
ペートルスは開口一番、言い放った。
彼のカリスマに満ちた声色に誰もが聞き入る。
「――僕は嘘を吐いていました」
「……?」
瞬間、マインラートは欠伸していた口を閉ざす。
何かがおかしい。
いつもの気取った調子ではない。
「今まで標榜してきた理想。国のためだとか、学園のためだとか。誰かを助けるためだとか、誇りのためだとか。正直、そんなことはどうでもよかった」
会場がざわつく。
想定とはまったく異なる切り出しに、誰もが動揺を見せた。
……ただ一人、エレオノーラを除いては。
「取り繕うのは嫌いでした。本当なら、もっと正直に生きたかった。この学園で出会った皆と、建前を抜きにして心の底から笑い合いたかった。……けれど、無理して過ごしていたわけでもないのです」
ペートルスはクラスNの生徒の顔を、一人ひとり見渡した。
そこには来ないと思われたヴェルナーの姿もある。
「たしかに楽しいと、大事にしたいと思える時間があった。このかけがえのない時間を……ずっと忘れずにいたいと思ったことがありました。だから僕が僕のままでいられるように、引き留めてくれた人には心の底から感謝しています」
最後にノーラに視線を送り、ペートルスは前を見据えた。
すべての真実を知る者は少ない。
それでも彼の言葉には深い想いが乗せられていて、皆がそれぞれの解釈を心中に思い浮かべる。
「……これからは正直に生きていきます。きっと皆さんも、貴族社会の中で息苦しさを感じている人もいるでしょう。だからこそ、僕が言葉を送りたい。きっと……あなたを見てくれている人は、すぐそばにいると。だから素直に本音を吐いて、支えてもらってもいいのだと。僕にはできなかったことです」
孤独に生きてきたからこそ。
彼の言葉には重みがある、責がある。
「卒業生の代表としては相応しくない言葉かもしれません。しかし、僕はここで立派な人間を演じることはできなかった。皆さんには自分の意志で明日を掴み取ってほしいから。ゆえに、端的に言わせてもらいます」
ペートルスは息を吸い込んだ。
もう音を司る力は失った。
ルートラ公の孫という立場も失った。
完璧な人間という誇りも失った。
だから彼は言い放つ。
最も大切で、愛する人に倣って。
「――僕たちを阻む理想など、ぶっ壊してしまえ!」
歓声が上がる。
大歓声だ。
真っ先に立ち上がって喝采を送ったマインラートに続き、生徒たちが次々と。
外部からの観覧者の中には困惑を見せる者もいた。
しかしペートルスを仰ぎ見てきた生徒たちにとっては、何よりも心打たれる言葉だったのだ。
己を枷から解き放て、と。
◇◇◇◇
式後、卒業パーティーを控えた夕刻。
クラスNの教室にて夕陽を眺める男が一人。
ヴェルナー・ノーセナックは最後に訪れることになるであろう、クラスNの景色を瞳に焼きつけていた。
本来、彼はここに二度と訪れないはずだった。
学園長アルセニオを弑逆した罪人だ。
学園に踏み入ることなど許されるはずもない……そのはずだったのに。
なぜかアルセニオの死もヴァルターの謀略ということで片づけられていた。
おそらくペートルスかラインホルト、あるいはデニス辺りが細工をしたのだろう。
「……驚かされた。まさかお前があのような啖呵を切るとは」
背後でそっと開いた扉にヴェルナーは語りかけた。
振り返らずとも後ろの人間が誰なのかわかる。
「どうせここには戻らないんだ。最後くらい本音を吐いてしまえ……とね。それに、もう気取って振る舞う必要もないのだから」
「後先を気にかける必要がないのは、俺もお前も同じか。やはり似通った獣だったらしい」
振り返る。
ヴェルナーの視線の先には、清々しい表情を浮かべるペートルスの姿があった。
「ヴェルナー。今の君となら楽しい勝負ができそうなんだ。ひとつ斬り結んでみるかい?」
「悪くない。だが……今は祝いの美酒に酔っておけ。邪器の力を失ったばかりのお前と打ち合えば、大怪我させかねん。せっかくの祝いの席が台無しになるのは御免だ」
「なるほど、道理だ。では勝負はまた今度……約束だよ」
鐘が鳴る。
まもなく卒業パーティーの時間だ。
ペートルスは踵を返し、クラスNを去った。