夢見る覚悟
「……成ったか」
グラン帝国皇帝ベルント・イムルーク・グラン。
彼は病魔に侵された身体を起こし、窓の外を眺めた。
繫栄を極めた帝都が一望できる。
あれほど国の未来を揺るがす大事が起こったにもかかわらず、民の暮らしには微塵の影響もなく。
賢しき息子ラインホルトは最善を尽くした。
勇ましき息子デニスは絆を紡ぎ、兄の最善を凌駕した。
「人の神髄は……かくも気高く。此度の渦の根源はペートルス。だが、その潮流を変えたのは……運命に呪われた少女か」
「……失礼いたします」
「入れ」
青ざめた顔で宰相……スクロープ侯爵が入室する。
彼は病床に早足で近寄り、真っ先に平身低頭した。
「申し訳ございません、陛下。今回の騒動……どのように責を取れば良いか」
「責だと? 何を言っておる」
皇帝の言葉にスクロープ侯爵は顔を上げた。
いくら籠もりきりだとはいえ、この騒動を知らぬわけがない。
騎士団は機能不全に陥り、侵入者を容易く許し、挙句の果てには重鎮のルートラ公を守りきれず。
このままでは皇帝派と公爵派の戦争に発展しかねない。
「実に有意義な諍いであった。此度の騒乱は、国の未来を支える柱たちを大きく成長させたであろう」
「しかし……」
「人の歴史はすなわち争いの歴史。相克なくして平和の価値を知ることはできず。あぁ……余が死ぬ前に息子らの成長を見届けられた。ペートルスが呪いから解放される瞬間にもまた立ち会えた。これを僥倖と呼ばずなんと呼ぶ」
スクロープ侯爵は知っていた。
眼前の皇帝ベルントは徹底的に国を俯瞰して見る人間だ。
ルートラ公と同じく、目的のために淡々と、そして無遠慮に人生を捧げる者。
ひとつ違う点があるとすれば……ルートラ公は不老不死の禁術に、ベルントはグラン帝国の繁栄のために心血を注いできたということだ。
「ルートラ公が凶刃に倒れました。そして子息ペートルス・ウィガナックもどうなったのか……行方が掴めません。公爵派は御旗を亡くし、混乱の最中にあります。ここは陛下のご意向を確認したく……」
「不要。舵を取るのは余の役目ではない」
突き放すような皇帝の返答。
スクロープ侯爵とて、この返答はわかりきっていた。
それでも今ばかりは最高決定権を持つ者の判断を仰がねば。
「陛下、どうかご下命を」
「勅令ならばすでに出した。此度の責はすべて死したヴァルターに取らせよ……とな」
「……は」
スクロープ侯爵は困惑混じりの声を漏らした。
否、そのような話は聞いていない。
皇帝から直々に勅令があろうものなら、すでに耳に入っているはずだ。
彼の困惑をよそに皇帝は二の句を継ぐ。
「先刻、マインラートが顔を見せた」
「あの愚息が……陛下にとんだ無礼を……」
「彼には今後の国がどう在るべきかを語ってもらい、余はその意志を認めた。ゆえに問題はない」
皇帝は疲弊した様子で寝台に身を沈めた。
病床に伏せるだけの日々、籠もりきりの日々。
それでもなお、いついかなる時も寝台からは帝都が一望できるようになっていた。
「宰相よ。人の世は移り変わっている」
「おっしゃる通りでございます」
「魔法科学の発展、他国の干渉による価値観の変容。民草は気づいていない、貴族らも気づいていない。だが……お主の息子だけは気づいていた」
まさかマインラートが皇帝に何かを吹き込んだのか。
スクロープ侯爵の背に冷や汗が伝う。
だが、違う。
マインラートの語った理想が、皇帝の諦めた理想と重なっていたのだ。
「余は若かりしころ、変えようとしたのだ。このグラン帝国に根付く特権、階級格差、苦しむ民。だが……余では至らなかった」
それはまだ宰相も知らない、何十年も昔のこと。
想起する皇帝は瞼を閉じる。
「国の未来のために、この国の体制は変えねばならん。とうの昔から気づいておったが……余の力では何も変えることができず。止水はやはり腐敗していく」
「私には……わかりかねます」
「それで良い。とうに我が意志は引き継がれていた」
『帝国』でなくとも構わない。
人が幸福に、無駄に失われる命がないように。
安寧の明日を築くこと。
それが皇帝の一途な願いだ。
「マインラートは賢しい子です。私よりも頭が切れる、度胸がある。しかし……あの子には現実と向き合ってきた経験が足りない。腐敗した世界を変えるのは容易いことではありません」
「彼が生きているうちに成し得るかはわからぬ。余が生きているうちにも成し得なかった。だが、進まねば明日は変わらない」
スクロープ侯爵は理想論だと反論したかった。
だが皇帝の言葉を否定することなど許されない。
もしも自分が仕え続けてきた皇帝が諦めた夢を、息子が追っているのなら……。
「陛下のご意志はしかと拝聴いたしました。私もまだ、息子には負けられません。頭の固い大人ではありますが、若人よりも経験は積んでおりますゆえ」
「ふっ……そうか。やはり帝国の明日は、悪くないようだ。ヴァルター……余の方が長く生きることになりそうだな」
それきり皇帝は沈黙し、再び眠りについた。