終わる呪い
帝都エティス、皇城の貴賓室にて。
一人の老人が筆を走らせていた。
描かれるは複雑怪奇な魔法陣。
「もう少し……もう少しで、不老不死の禁術の深奥に近づく」
孫の処刑など些事。
彼……ルートラ公ヴァルターにとっては、皇城で巻き起こった騒乱など眼中にない。
ペートルスが連れ去られたことすらも知らなかった。
死にたくない。
老いと衰弱に追われるヴァルターは、何よりも死から逃れることを優先している。
不老不死の禁術さえ完成すれば――あとはどうでもいい。
どれだけの権力を持てど、富を築けど、逃れ得ぬ末期。
人を縛る『死』から逃れてこそ、真なる権力者と言えよう。
「儂は死なん。ゆえに……」
おもむろに筆を置き、机に立てかけた杖を手に取る。
腐っても帝国の政を牛耳ってきた支配者。
そしてペートルスの祖父だ。
己に忍び寄る魔の手は……容赦なく払いのける。
「死を近づけるな、痴れ者が」
杖先から迸った緋色の閃光。
暗闇を駆け抜けた鋭利な光は、躊躇なく城の天井を穿ち抜いた。
瞬間、舞った黒き影。
闇を縫って飛んだ鈍色の短刀。
刃先はヴァルターの周囲に展開された障壁に撃墜される。
「ご年配の割には良い動きをしますね、公爵閣下」
「貴様……ミクラーシュか。飼い犬に手を嚙まれるとはこのことよ。エレオノーラ・アイラリティルの始末にしくじってどこぞへ姿を消したようだが……やはり徹底的に探して殺しておくべきだったな」
「実はあの後ペートルス卿に拾われたのです。ええ、これもまた……彼の反乱の続きと言えましょう」
目にも止まらぬ速さで足を運ぶミクラーシュ。
一流の殺し屋なれど、正面切っての戦いは確実な勝利を逃す。
ましてや相手は恐るべき魔術師として知られ、邪術師の顔も持つヴァルターだ。
油断はできない。
足元から影の刃を伸ばす。
ヴァルターの背後に回り込んだ影の刃は、挟み撃ちする形で迫った。
「戦は終わったのだ。あの愚か者の負けという形でな」
杖にてミクラーシュの刃を弾き、結界にて背後の影刃を弾く。
脅威はヴァルターの膨大な魔力。
体は衰えようが、魔力は蓄積され続ける。
あらゆる攻撃を無効化する結界は、まさしく彼の死への恐怖心を表しているかのようだった。
杖を振り抜くと同時、正面を駆けた閃光。
得体の知れない紅き光をミクラーシュは紙一重で躱す。
「では、私が主に代わって結末を覆すも一興」
命をつなぎ留めてくれたペートルスには恩がある。
たとえペートルスが果てようとも、彼の意志を継ぎ。
ミクラーシュは『任務』ではなく『使命』を果たす。
「十法――《魔梳之印》」
影の波が渦巻く。
ヴァルターは悪寒を覚え、すかさず結界の強度を引き上げた。
だが、削られる。
どれだけ守りを堅くしても紙のように結界が蝕まれていく。
見覚えはある。
そして似通った術を知っている。
ヴァルターは己の知識を頼りに、己の魔力を削っていく影の波を見定めた。
己を囲む結界に邪気を宿す。
生地の隙間に樹脂を塗り込む防水加工のように。
魔力で作られた結界に邪気を編み込み、ミクラーシュの特異な攻撃を弾く。
「っ……!?」
「温い」
そして紅き閃光がミクラーシュの胸を貫いた。
血か、緋色の閃光か。
見分けのつかない美しき真紅が舞う。
「覚悟ーーッ!」
刹那。
ヴァルターの頭上から影が降り注ぐ。
敵を仕留めた瞬間、人には最も大きな隙が生じる。
息を潜めて好機を窺っていたペイルラギ。
彼は渾身の一撃を繰り出した。
いまだかつてない神速、精緻なる技。
ペイルラギの暗器は確実にヴァルターの首を捉えた。
……はずだった。
「浅いな。ミクラーシュと比して、根本の技術が劣る」
刃先。
ペイルラギの刃先に、虫のように小さな結界が接着している。
「な……!」
ピンポイントで防いだのだ。
完全な不意打ち、一流の殺し屋の神髄を。
自分をも上回る神業。
奇跡的な防御を見せつけられたペイルラギは、刮目してわずかに静止した。
そして、その間隙を逃すヴァルターではない。
「ペイルラギッ!」
「ぬうぅ!?」
半身が引き裂かれる。
死の間合いに入った獲物は逃れられない。
せめて最期に一撃を。
ペイルラギが放った暗器は、再びヴァルターに容易く弾かれた。
「まったく……馬鹿な弟子です……」
胸を抑えてミクラーシュは飛び退いた。
あの負傷、もう命は助かるまい。
早々に決着をつけ、緊急の治癒魔術を受ければ一命は取り留めるかもしれないが……ヴァルターを相手に短期決戦は不可能だろう。
そしてヴァルターは手負いのミクラーシュを前に、油断なく周囲の気を探っていた。
(顔を見たことはないが、ミクラーシュには二名の弟子があった。一人は始末した、ならばもう一人は……)
「――そこか」
もう一匹、鼠が潜んでいる。
殺意にて殺意を探り、気配を視た。
窓辺に潜む敵影に歪曲する閃光が迸る。
藪を突けば蛇が出る。
闇を破れば黒き鳥が飛び出す。
「俺をお呼びか、公爵様!」
宙を舞って飛び出した男、コルラード・アスオッディム。
彼は不敵に笑って毒の霧を巻き上げた。
視線が交差し、コルラードは一瞬で悟る。
この老人は己の師、サンロックの賢者と同等……あるいはそれ以上に手強い。
純粋な魔術の腕ならばアロルドに軍配が上がるが、その差を覆すほどの狡猾さが垣間見えた。
ならば、こちらも欺いて殺すのみ。
「お前で最後だ」
炙り出した男を殺せばミクラーシュ一門は破滅。
ヴァルターはコルラードを主に警戒しつつ、背後の瀕死のミクラーシュにも意識を向ける。
放射状に伸びた毒の霧。
そして霧に紛れて飛来する短刀。
「…………」
結界を展開。
ヴァルターの魔力は無尽蔵。
どれだけ攻撃を防いでも魔力が尽きることはない。
死なないために、生き延びるために。
とかく彼は守る術を研究してきたのだから。
命を蝕む毒になど、向けられる殺意の刃になど……屈するはずもなく。
コルラードの攻撃はことごとく弾かれる。
(被弾する前提で突っ込んでくる師匠とはまた違った……徹底的な防御だな。しかも老人なのに反射神経は半端ない。なるほど、こりゃ刺客の天敵だ)
内心で苦笑しつつも、コルラードは焦りを感じていた。
この恐るべき魔術師を落とすには。
他二名はすでに重症……勝利は自分の双肩にかかっている。
それはそれとして。
「なあ爺さん。あんたに聞きたいことがあるんだけどさ」
「……」
答えずヴァルターは杖を薙いだ。
コルラードの頭上を駆け抜ける閃光。
壁が破壊され、光石が埋め込まれた照明が落ちる。
「ペートルス様に邪器を植え付けた理由。教えてくれよ」
どうしても聞かなければならなかった。
主の無念の理由を知る必要があった。
何故ペートルスは苦しまなければならなかったのか。
ヴァルターにもやむにやまれぬ事情があったのではないか。
いかなる事情があったとしても許されることではないが、せめてこの老人が死に至る前に。
聞いておかなくては。
ヴァルターは攻撃の手を止めず。
しかし淡々と口を開いた。
「邪器を使えば不死に至れるのではないかと考えたのだ。だが実験は挫折した。それだけだ」
「へぇ……そうか。そりゃ、あんたにとっては大事な理由だな」
わかりきっていたことだ。
自明の返答なのに、コルラードはどうしても怒りが収まらなかった。
言葉は軽薄に、されど憤怒は燃え上がり。
この老獪の欲望で、ペートルスとノーラは人生を歪められたのだ。
たった十六年の寿命を定められてしまった。
「――死ねよ」
大気が震える。
わずかに吸い込んだだけでも呼吸を忘れる毒気が立つ。
己の怒りによって沸き立つ魔力をすべて毒に変え、コルラードは仇敵を睨んだ。
だが、どれだけの圧を受けてもヴァルターは退かず。
相手に怯えて後退るようでは権威ある公爵の誇りは守れない。
そして、コルラードの『死』という言葉は。
ヴァルターの神経をひどく逆撫でした。
「儂は死なん。儂に……このヴァルター・イムルーク・グランにだけは! 死ねなどと言ってくれるな、痴れ者がッ!」
ああ、狙い通り。
コルラードはヴァルターの本質に触れた。
落ち着きを失わせることに成功した。
とてつもない魔力を帯びた閃光が毒霧を薙ぐ。
同時、息も絶え絶えのミクラーシュが動いた。
「さて……最後の、仕事です……」
落下した照明に駆け寄り、魔力を宿す。
ミクラーシュの魔力を受けたオレガリオ光石が眩く輝き――なおもミクラーシュは魔力を注入し続ける。
「煩わしい……!」
光が爆発。
過剰な魔力を注ぎ込まれた光石は、夜闇を食い破る光を放つ。
ヴァルターの視界が眩んだ。
同時にミクラーシュは倒れる。
満身創痍に、ほぼすべての魔力を使い果たし。
コルラードの撒いた毒霧に体を沈めた。
「ルートラ公……あんたさ、呪われてるんだよ」
当意即妙、以心伝心。
闇の世界に生きる者として通じ合うものがあった。
ゆえにコルラードはすぐに適応し、ヴァルターの死角へと回り込めた。
突き出された毒の刃。
寸分たがわず急所を突く軌道。
「儂が呪われているだと? 世迷言を」
防がれた。
やはり手練れ、数々の死線を乗り越えてきた猛者。
鍔競り合う黒杖と毒刃。
コルラードはヴァルターの皺だらけの顔を正面から見て、やはり笑った。
「生の呪いさ。誰よりも、何よりも、死を恐れている。それはきっと……あんたが生に呪われているからなんだ」
「そうか。ならば、儂は一生呪われていても構わん。死ぬつもりなど欠片もない」
コルラードの背後に屈折した魔力が舞う。
背後、不気味な紅い光。
鋭利な閃光が彼の真後ろに迫っていた。
「さらばだ、死の運び手どもよ」
ヴァルターが杖を弾き、コルラードを押し出した瞬間。
「あああぁーッ!」
息を潜めていたイトゥカが飛び出し。
――ヴァルターの首を掻っ切った。