飛翔、憂いを裂いて
羽ばたく空の支配者。
天竜テモックに跨っていたのは、一人の巨漢。
ペートルス・ウィガナックの右腕イニゴである。
「どけやぁあああっ!」
躊躇なくイニゴとテモックは突っ込んできた。
迫る巨体に兵士たちは慌てて退避。
床の石を砕き、転がり込んだ救援はまっすぐにセリノのもとへ……正しくはセリノが抱えるペートルスのもとへ向かう。
「曲者が……! 追い払え!」
ラインホルトは即座に指令を出す。
同時、控えていた魔術師たちがテモックに向けて魔術を放った。
しかし相手は竜種最上位の天竜。
そしてペートルスとともに戦場を駆け抜けた猛竜。
ひとつの咆哮で魔力障壁を展開し、あらゆる魔術を弾き返す。
テモックは主を守るように翼を広げ、ラインホルトたちに威圧するような眼差しを向けた。
「ここで救援が来てくれましたか……! やはりエンカルナさんは正しかった!」
「デニス殿下ァ! ペートルス様は俺が……いいや、このテモックが預かりますわ! そして、エレオノーラ様!」
「は、はいっ!?」
イニゴはテモックの背から飛び降り、大股でノーラに歩み寄る。
「……ペートルス様を、頼みますわ。テモックの背に乗せられるのは二人が限界。てなわけで……」
すぐにノーラは意図を察した。
ペートルスを連れて、テモックに乗って離脱しろと。
強く主を慕うイニゴに頼まれている。
ペートルスを救う鍵を持つのはノーラだけ。
だから、断腸の思いでイニゴは頼み込んだ。
そしてノーラもまた彼の想いを蔑ろにするほど無粋ではない。
しかとイニゴを見上げ、視線を合わせてうなずいた。
「わたしがペートルス様をお連れします。あとは……お任せしても?」
「任せてくだせぇ! 必ず……ええ、必ずまたペートルス様に会うんです。俺たちの希望、全部託しますわ!」
「大役ですね……はい、大船に乗ったつもりでいてください!」
テモックは背を低くしてセリノに視線を向けた。
セリノはペートルスを竜の背に託す。
「私は常に殿下のおそばに。そしてペートルス様のおそばに在るべき方もまた、理解しています」
剣を抜き、セリノはデニスの前に立つ。
ここが正念場だ。
主はなんとしても守り通す。
しかしデニスはセリノの剣に手をかざし、彼を制止した。
「セリノ。私は争いを起こす気はないよ。ノーラさん……きっとあなたの選択は、この上なく重いものとなるでしょう。それでも、ペートルスのことを思い出してください。彼ならきっと……あなたがどんな選択をしても、笑って許してくれるから」
デニスが抱くは『責任を取る覚悟』。
この騒動の責任も、ペートルスが歩む未来の責任も。
自分が取ると決めたのだ。
理屈だけでは語りきれない絆に応えるために。
ノーラはテモックの背にまたがり、しっかりとペートルスを抱きかかえた。
初めて乗った時は逆だった。
ノーラがペートルスに抱えられて動揺していたのに。
今、腕の中の彼は身じろぎひとつしない。
「――行ってきます。ペートルス様を迎えに」
「はい、行ってらっしゃい。またお会いしましょう」
テモックが床を蹴り、翼をはためかせる。
ラインホルトはなおも追撃を諦めず。
「っ……逃がすな! 竜騎士団に連携を取り、地の果てまで追いかけろ!」
「無駄でさぁ、殿下。テモックの飛翔にはどんな竜だって追いつけねぇ」
イニゴの言葉通り。
すでにテモックは空の彼方へ駆けていた。
一瞬のうちに遠くなり、豆粒のように小さくなり。
「デニス……この始末、どうつけてくれる?」
「始末のつけ方ですか。簡単ですよ、兄上」
デニスは恥ずかしそうに笑い、兄に手を差し伸べた。
「どちらも間違っていた、どちらも正しかった。だから、私たち二人で……第一皇子派と第二王子派で仲よく騒動を鎮める。これではいけませんか?」
◇◇◇◇
「無様ですこと、お父様」
地面に伏す父エリオドロを見下ろし、バレンシアは嘆息した。
彼女は剣を父のそばに突き立てる。
「……起きているのでしょう? 狸寝入りはおやめなさい」
「ふはは……バレていたか。いやあ、娘に恥ずかしい姿を晒してしまったな」
エリオドロは瞼を開いて起き上がった。
全身に痛みが走る。
フリッツとアリアドナ、そしてヴェルナーに敗れた。
三対一の状況とはいえ、騎士団長が子どもに敗れるというのは面目丸つぶれである。
「どうなった……状況は」
「存じ上げません。ただ……先程、ペートルス卿の愛竜が城より飛び立つのを見ました。アレが何を意味するのか、わたくしにはわかりかねますが。きっとお父様にとっては凶報でしょうね」
「ああ、そうか。まったく読めんものだな。我々が完全に勝利すると思っていたのだが」
「あら、そう? わたくしはどちらにも勝機があると思っていました。そこでお父様が油断して負けただけですわ」
「耳が痛い。ついでに全身が痛い。ふはは……だが、実に心地よい闘いであった」
全身に走る痛みを抑え、エリオドロは立ち上がった。
そばに眠る愛竜をそっと撫でる。
「どちらへ?」
「指揮に戻らねば。あの化け物はどうなっただろうか」
「ああ、エルメンヒルデのことですね。彼女ならもう飽きて帰っているかもしれませんわね」
「なんだ……やはりそちらの手勢だったか。彼女ともひとつ剣を交えてみたいものよな」
死ぬつもりか。
バレンシアは内心で思いながらも、父の背を黙って見つめていた。
立場上、ノーラたちに表立って加勢することはできなかったが……どうやら順調に事は運んだらしい。
「さて、学園に戻ろうかしら」
◇◇◇◇
「な、マインラート。俺は師匠を介抱するから……」
「はぁ? ここまで来て情に絆されんのかよ」
コルラードは気まずそうに頬をかいた。
「いやいや、最初から俺は義理と人情でしか動いてないって。余裕がなさそうなら俺も協力するけど……ほら。なんかイケそうだろ?」
コルラードが指さした先。
遥かなる天に飛ぶ白亜の竜があった。
そして背にまたがる姫と貴公子の姿もわずかに見えて。
「ったく……『後始末』はどうするんだよ。まだ戦いは終わってねえぞ。そうだ、まだ終わってねえんだ」
「その件は……たしかにそうか。師匠の面倒も見てやりたいけど、そっちが優先だな。マインラート、あんたはどうする?」
「俺は最後の砦さ。もしも暗部の連中がしくじれば……そのときは俺が奴を潰す。だが、そうならないことを祈るよ」
戦いは終わっていない。
たとえペートルスを無事に救出できたとしても。
彼を邪器から解き放つことができたとしても。
悪意を除かぬ限り、帝国は惨禍に呑まれるだろう。
「さあ、行こうか」
「おう! ここまで来たんだ、最後は成功で飾ろうぜ!」
とは言うものの。
コルラードの心臓は畏怖に高鳴っていた。
この皇城を包む重苦しい空気……どう打破したものか。