神託
「邪器を浄化することすなわち、彼の人格を消すことと同義なのだから」
「……どういう、ことですか?」
「そのままの意味だよ。邪器は記憶と密接に結びつく。邪器という優れすぎた感覚器官で得た情報は、深く記憶に根差している。とりわけペートルス・ウィガナックは物心ついたばかりのころから、その器官に慣らされてきた。邪器を浄化するということは、彼が三歳のころから蓄積してきた記憶領域を破壊することと同義。わかるかね?」
「わかんない……わかりたくない、です……」
ノーラは現実を受け入れがたい思いでかぶりを振る。
せっかく光明が見えたのに、ペートルスの記憶が消えてしまうなんて。
イクジィマナフの言葉に、エルメンヒルデは釈然としない様子だった。
彼女は頭をとんとんと叩いて首を傾げる。
「ヒトの記憶って、脳にあるんですよね? どうして左耳の器官を切除すると、記憶も消えちゃうんですか?」
「記憶の拠り所は魂だ。君のような式神であれば、どれだけ肉体が破壊されても魂が無事なら記憶を保持できる。しかし、人間は魂を宿す箇所と脳……どちらかが欠ければ記憶を保持できなくなる」
「ほぇー……さすが神様、色々と知ってますねぇ。じゃあ、ペートルス先輩が魂を宿す箇所は左耳ってことですか?」
「一般的な人間は脳に魂を宿すが、邪器を持つような特殊な人間は異なる。邪気と神気は魂を惹きつける性質を持つからね。たとえばエレオノーラ・アイラリティルも、右目を浄化されれば魂が虚ろとなり、正常な人格を保てなくなるだろう」
ジレンマだ。
ペートルスの邪器を浄化しなければ、寿命ですぐに死んでしまう。
けれど浄化すれば記憶が消えてしまう。
どちらを取っても残るのは苦い味で。
いったいどうしたらいいのだろう。
苦悶の表情を浮かべるノーラを一瞥し、イクジィマナフはカウンターに置かれている飲み物を魔法で温め直した。
「これらの情報を与えたうえで、自分で未来を決めろ……などと神託をするのは、さすがに無理があるだろうか」
「…………わたしは」
胸を張って『任せてください』と豪語したかった。
本当なら誰よりも強く、一途に、ペートルスを想っていたかった。
それでも突きつけられた条件に対して、ノーラは迷いなく胸を張ることができない。
「……話は以上だ。疑問点はあるかね?」
イクジィマナフの話を聞き終え、煮えきらない思いでうなずいた。
正直、聞きたいことばかりだ。
吐き出したい不安ばかりだ。
ノーラの心情を汲んだのだろう。
エルメンヒルデが考える時間を稼ぐため、イクジィマナフに適当に尋ねた。
「神様ならなんとかできないんですか? ……って、無礼ですかねぇ……あはははは」
「本意ないが、私は君たちの神でも、シュログリ教の神でもない。あくまで焔神の知己というだけで、人に寄り添う役儀にあらず。……彼ならば意地でも助けようとしただろうがね。アレはまさしく主神と崇拝されるに相応しい神だったよ」
人の道は人の手で切り開く。
己が未来は己の手でつかみ取る。
そこへ至るための助言はすれど、直接的に手を貸すことはない。
それがイクジィマナフという神の生態だった。
「あの……質問です。もしもわたしがペートルス様の記憶を消してでも、あの方の邪器を浄化するとしたら……そのときはただ聖歌を歌えばいいんでしょうか? それとも何か特別な儀式が必要だったり?」
「良い質問だ。聖歌はただ歌うのみではなく、そこに旋律を乗せることで真価を発揮する。先程の楽譜に旋律も記載してある。唱う者はエレオノーラに限られるが、奏者は誰でも構わない」
さすがに自分ひとりで歌って奏でるのは不可能だ。
そういえばペートルスが自分の歌に旋律をつけてくれたことがある。
楽譜を見れば、あの旋律が自然と思い出された。
「……わかりました。答えはちゃんと決めます」
「いいの、ノーラちゃん?」
エルメンヒルデは心配そうにノーラの顔を見た。
ペートルスの記憶を代償に目覚めさせるか、あるいはこのまま寿命の楔に縛られてこの世を去るか。
いっそこのまま逝去した方が彼にとっては楽かもしれない。
どちらにせよ、罪人の汚名を着せられて処刑される――なんて未来は、ノーラは認めないが。
「わたしだけがペートルス様の未来を決めるわけじゃないよ。みんなの尊敬するあの人だから……ちゃんと話し合おう。笑って未来を迎えられるように」
ノーラの言葉を聞き届けたイクジィマナフは瞳を閉じた。
「己が足で立ち、幸福な未来を迎えよ。何ひとつ切り捨てることなく、望んだ結末へ至れ――これを神託とし、結びとしよう。君たちのことをいつまでも見守っているよ」
瞬間、二人は山の中腹に立っていた。
蜃気楼のように消えた神を後に、決意を抱えて帰路に就く。
◇◇◇◇
「そうですか。無事に神託を賜ったようですね」
報告を受けた教皇は柔らかく笑った。
やはり神は神、導を与えるものだ。
ペートルスを救う光明も見えた、それと同時に複数の問題も垣間見た。
「完全な解答を残すのではなく、人の選択に未来を委ねられましたか。しかし神より御言葉を賜った以上、シュログリ教皇として蔑ろにするわけにはいきません」
「……では」
ノーラの期待を込めた視線に、教皇は鷹揚にうなずく。
「宗教派は第二皇子デニスを支持します。……とはいえ、直接的に手を貸すことはできません。戦力の供与は不可能。あくまで後方支援、立場の表明に留まります。ペートルスの反乱から、さらに大きく戦火を広げることは避けねばなりませんからね」
「あ、ありがとうございます! 期待に応えられるようにがんばります!」
「まあ……何かとルートラ公爵は宗教派に攻撃を仕掛けてきていましたから。痛い目にあってもらう良い機会でしょう。……さて、エレオノーラ。私は巫女長と少し話がありますので、先に出ていてください」
「承知しました。では失礼します……!」
ノーラが去ったことを確認し、教皇は疲労の濃いため息を吐いた。
彼は重い身体を椅子に沈めて天を仰ぐ。
「私も最後の大仕事をするときが来たようです。まったく、私にルートラ公に……この国は老獪が蔓延って辟易しますね。いつ逝ってもおかしくない老境、死ぬ前にシュログリ教の障害はできるだけ取り除いておかねば」
「笑えない冗談です」
「いえ、冗談ではありませんよ? 私は本気でシュログリ教の未来を憂いている。あなたもそうでしょう、巫女長?」
「左様でございます」
エルメンヒルデは淡々と答えた。
シュログリ教のためならば命をも捧げる所存だ。
それが主の遺志なのだから。
「では、エルメンヒルデ。いえ……エルメンヒルデらしい誰か。あなたが何者なのか存じ上げませんが、私はあなたを信頼しています」
「…………」
エルメンヒルデは、教皇にも身の上を話したことがない。
それでも正体はとうに見透かされていたようだ。
いつから自分が人間ではなくなったことに気づいていたのだろう。
いつから『彼女』と入れ替わったことに気づいていたのだろう。
「エレオノーラたちに戦力を貸せない代わりに、あなたを貸しましょう。シュログリ教のためではなく、自分の意志で動きなさい。今このときだけは、あなたから巫女長の任を解きます」
「……諾了」
踵を返したエルメンヒルデ。
彼女は迷いひとつ見せることなく、ノーラの後を追った。