聖歌
「――君に残された時間について。自覚はしているだろうか」
イクジィマナフの問いに対して、ノーラはすぐに了見を悟った。
「はい。イクジィマナフさんからいただいた本を読んでわかったんです。わたしが邪眼に関する記憶を思い出すきっかけになった本……」
寿命の短い主人公が親の仇を探して放浪する物語。
旅の最中で、主人公が持つ特殊な力が……邪悪なる力が埋め込まれた腕に由来するものだと判明する。
そう、邪器だ。
「邪器を埋め込まれた者は、十六年で死に至る。主人公が短命な理由です。わたしもたぶん……」
「そうか。自覚していたのならば構わない」
自分が邪器を埋め込まれたのは七歳のころ。
ゆえに二十三歳には死に至るのだろう。
あと六年と聞けば、短いような長いような。
あまり実感が湧かないが、確実に死は迫ってきている。
だが、今はどうでも良かった。
自分の命に固執することがないノーラにとって、己の寿命など些事。
生に一貫した諦観を抱く彼女にとっては、とっくのとうに受け入れられていた事実だった。
だが、彼女を取り巻く人にとっては違う。
隣のエルメンヒルデは狼狽した声で尋ねた。
「ど、どういうこと……? ノーラちゃん、それって……」
「そのままの意味だよ。邪眼が移植されたのが七歳だから、わたしは二十三歳に死ぬだろうってこと。まあ……今考えても仕方ないよ。あと六年も先のことだし」
「し、仕方なくないよ! そんなに早く死ぬなんて……嫌じゃないの!?」
エルメンヒルデからすれば、六年など一瞬にして過ぎ去る月日だ。
今すぐにノーラが死ぬと言われているのと同義で。
到底納得できたものではない。
「大げさだな、エルンは。そこまで悲観しなくても」
「でも……!」
ノーラの諦めたような態度に、エルメンヒルデは口を結んだ。
人の死生観に関して、エルメンヒルデはそこまで造詣が深いわけではない。
それでもノーラの自覚が異常なことは感じ取れる。
だが、どう言葉を返せばいいのかわからない。
エルメンヒルデはなんとも言えぬやるせなさを抱えて、押し黙ることしかできなかったのだ。
「……はたして君の諦観がどのように他者の目に映るのか。ペートルス・ウィガナックを例に挙げれば自覚できるかもしれないね」
イクジィマナフは二人の言い合いを眺め、ひとつ助け舟を出した。
思いがけない人物の名が聞こえてノーラは顔を上げる。
「ペートルス様を? 何か関係あるんですか?」
「ペートルス・ウィガナックは邪器をルートラ公から植え付けられている。彼はわずか三歳のころ、左耳に邪器を移植された。つまり……今年で死に至るはずなのさ」
「……!」
思わず息を呑む。
いきなり飛び出した衝撃の事実に、頭の中が真っ白になって。
けれど冷静に考えればあり得ないことではないのだ。
この邪眼を移植されたのがルートラ公の命によるものならば……ペートルスにも邪器が移植されていても不思議ではない。
あの冷酷非情なルートラ公は、孫すらも実験台にしかねない。
「そ、そんな……ペートルス様は今年で死んでしまうから、反乱を起こしたってことですか?」
「それは当人のみが知るところだろう。だが、彼がルートラ公に勝利したとしても……一年以内には死んでいたということだ。勝利も敗北も、ペートルス・ウィガナックには同じ過程。結末は死に他ならなかったのだよ」
「じゃあ……わたしたちがペートルス様の処刑を阻止できたとしても……」
「ああ。何かしらの処置を施さない限り、一年以内に死に至る」
仮に反乱が起こらなかったとしても。
ノーラが学園を卒業する前に、ペートルスは死んでしまっていた。
そうなったらきっとノーラは耐えられない。
彼を喪うと想像しただけでも血の気が引いて、吐き気がする。
それほどまでにペートルスを心の拠り所としていたのだと……今になって自覚した。
「あぁ……そっか」
ノーラの胸中、腑に落ちるものがあった。
きっとエルメンヒルデも、今の自分のように絶望したのだ。
「……ごめん、エルン。わたし、無責任なこと言ったね」
「ううん。わかってくれればいいよ。でも……もう少しだけ、ノーラちゃんには自分のことを大事に扱ってほしいな」
こくりとノーラがうなずくと、エルメンヒルデは安堵した表情を見せる。
時に自分の命は、自分が思っている以上に重いことがある。
今まで『呪われ姫』として邪険に扱われていたノーラにはその摂理が理解できなかったのだ。
しかし今なら理解できる。
大切な人を見つけたノーラになら。
「――さあ、ここからが本題だ。神らしく託宣をしようじゃないか」
イクジィマナフの言葉を受け、ノーラは居住まいを正す。
「君たちの目的はペートルス・ウィガナックの救出。その目的には彼を目覚めさせること、そして十六年の寿命から解放することも含まれる。私はその術を知っている」
希望に満ちた神託。
二人はペートルスを救う術があると聞き、瞳を輝かせた。
しかしイクジィマナフは『簡単なことではないがね』と苦笑まじりに言う。
「ということは……! ペートルス先輩の寿命の枷を外せるのなら、ノーラちゃんも!」
「……理論的には不可能ではないが、実質的には不可能だ。これはエレオノーラの天稟に依拠するがゆえに、自身には適用しかねる術である」
「な、なんでもいいです。ペートルス様を助けられるのなら……その手段を、教えてください!」
頭を下げてノーラは頼み込んだ。
がむしゃらに、一途に。
ペートルスを救う手立てを求めて。
「いいだろう。では……歌を教えよう」
「歌?」
「グラン帝国の前身、シュロイリス正教国に伝わっていた聖なる歌。かつてサーグリティア邪教国の王女マリレーナが吟じた聖歌。そして……巫女長たる君の母に継承されていた、もっとも懐かしき聖歌だとも」
目前に差し出された楽譜。
楽譜に視線を落とすと、ノーラの頭に音色が流れ込む。
いつか聞いた音の波、美しき透明な振動。
そうだ、この歌詞は……
「……お母様がよく歌っていた」
一番の歌詞しか覚えていないけれど。
この旋律は何よりも馴染み深い。
楽譜には二番目以降の歌詞もしかと書かれていた。
目を通せば通すほど、幼き日に聴いた音の波が記憶を刺激する。
「これが、聖なる歌だった……?」
「そうだ。この聖歌こそが邪を祓う。ペートルス・ウィガナックの邪器をこの聖歌によって浄化することで、彼は目覚める。彼が昏睡状態に陥っている理由は、ルートラ公が邪器を機能不全にさせたからだ。元凶たる左耳の邪器を浄化すれば……建国神話のクーロ王子のごとく、彼を蝕む邪から救ってやれるだろう」
邪器の浄化。
それこそがペートルスを目覚めさせ、短い寿命から救う手立てだ。
そして、ノーラは聖歌を用いることで彼の邪器を浄化させてやることができる。
「これは……ノーラちゃんじゃないと、できないんですか?」
「ああ。幻属性の適正だけではない。聖歌の力を引き出すこともまた、エウフェミア・アイラリティルが巫女長に選ばれた所以。エレオノーラはその力を継承している」
「……わたし、やります。ペートルス様を救って、聖歌で目覚めさせて。全部、全部……取り戻してみせますから!」
光明が見えた。
ペートルスの処刑を防ぐという結果を得ることができれば、後は自分の手で。
険しい道程だが、すべての救済を成し得るのだ。
意気込むノーラとは裏腹に。
イクジィマナフは相も変わらず淡々と、それでいてどこか険しい表情を浮かべていた。
「……取り戻す、とはいくまいよ。邪器を浄化することすなわち、彼の人格を消すことと同義なのだから」