希望の運び手
一人の少年が寝台の上で眠っていた。
死んだように、安らかに。
身じろぎひとつせず、寝言ひとつ立てず。
ペートルス・ウィガナックは死んでいる。
そう形容しても過言ではないほど、彼は死に近い状態にあった。
「……第一皇子からの勅令だ。ペートルスを処刑する」
孫の顔を見下ろし、ヴァルターは淡々と宣告した。
ペートルスが反乱を起こしたのは、実を言うと彼にとっても想定外の事態だった。
今まで反抗的な素振りなど一度も見せなかったし、情報もつかめなかった。
だからこそ……今、こうして安堵している。
己の首を狙った不届き者を誅することができて。
念には念を入れ、ペートルスの邪器に細工を施しておかなければ……むしろ処刑されるのはヴァルターになっていただろう。
獅子身中の虫はかろうじて退けられた。
「さて……早々に不老不死の研究に戻らねば」
死への恐怖。
ヴァルターを支配する恐怖という呪いは、絶えず脈動する。
◇◇◇◇
ノーラが教室を飛び出そうとすると、フリッツが慌てて前に立った。
「お待ちください。どちらへ?」
「決まっているじゃないですか……ペートルス様のもとに行くんです! わたしは、わたしは……」
ノエリアからその言葉を聞いた。
それでもなお黙って座っていられるほど、ノーラは思慮分別のある性格ではなかった。
「無理に決まっているでしょう。ピルット嬢が一人でルートラ公爵家へ向かったとして、ペートルス卿を助けられるのですか? ルートラ公を説き伏せられるのですか?」
「それは……わからない、けど!」
「すでに勝負は決したのです。ここは大人しく諦めた方が……」
「そんなこと、できるわけねぇだろうが!」
ノーラの怒声にフリッツは口を閉ざした。
焦燥と激情に支配されたノーラは、とうに冷静に思考することなど放棄している。
「フリッツ様は悔しくないんですか!? ペートルス様を助けたいって、そう思わないのかよ!? 少なくともわたしは……このままペートルス様とお別れなんて、絶対にしたくありません!」
「私も同じですよ。ペートルス卿は私の恩人です。セヌール伯爵家を背負う私を理解し、何度も何度も救いの手を差し伸べてくれた。ルートラ公が兄を殺したことを負い目に感じて、ずっと私に寄り添ってくれた。その度に……私はあのお方を助けたいと思った。傀儡のように生きるあの方を、救いたいと思ってしまったんです。……傲慢な考えですがね」
「だったらどうして……」
「何も私はペートルス卿を救うことを諦めたわけではありません。無策で挑むよりも、策を練って挑んだ方が勝率は上がる……それだけのことです」
フリッツの瞳には光が宿っていた。
まだ諦めていない。
彼もまた自分と同じ意志を抱いているのだと……悟った瞬間、ノーラは自身の短慮に恥じ入った。
二人の会話を静観していたノエリア。
彼女は呆れたようにため息を吐いた。
「無謀ですこと。本当にできるとお考えで?」
「――できますよ。必ず」
新たに降り注いだ声。
強い決意を秘めた声を聞き、ノーラは教室の入り口を見た。
「デニス殿下に……セリノさんも!」
「こんにちは、ノーラさん。やはりこの教室に来て正解でした。誰かがいるのではないかと思っていたのです」
「セリノ・ウラムナム、参上いたしました。殿下が急に城を飛び出したときは驚きましたが……どこまでも随身する所存でございます」
唐突に現れた皇子に一同は驚きを隠せない。
帝国の内情が乱れている今、デニスは城にいるべきだ。
こんな無人の学園で油を売っている場合ではないはずだが……さしものノエリアも驚きを隠せない。
「殿下……どうしてこちらに?」
「ペートルスに対し、兄ラインホルトから処刑命令が出ました。今回の一件はペートルスがすべての責を負い、償うという形で収束させたいようです。ですが……私は兄の思惑通りにはさせません」
「それはつまり……殿下、自分のおっしゃることの意味がわかっていらして? ラインホルト殿下と明確に敵対する姿勢を示す、ということですわよ?」
「元より内々で派閥争いはしていました。それが少し露呈するだけのことですよ。今回の一件はペートルスを助けるか否か、だけの話ですから政情にはさほど影響はありません。それに……私はペートルスを見殺しになどしたくありません。彼は私の憧れで、これからも追い続けたい親友だ」
デニスは熟考した。
ペートルスが反乱を起こした報を聞いてから、この結末すらも見据えて策を巡らせ続けていたのだ。
あらゆるリスクを勘案した上で兄の意向に逆らう。
それが彼の決意だ。
フリッツは俯いて考え込む。
「デニス殿下にご協力いただけるのならば……もしかしたら。いえ、それでもルートラ公とラインホルト殿下を相手にするのは……」
まだ天秤は傾かない。
運命を覆し、ペートルスの命を救うには至らない。
公爵派の内乱が収束し、それが火種となって。
今や皇帝派をも巻き込んだ闘争に発展しつつある。
ならば何を置けば天秤が傾くのか。
それは他ならぬ、三大勢力の最後の一角。
ノーラは意を決してデニスたちに提案した。
「宗教派に協力を仰ぎましょう。わたしが交渉の席に立ちます」