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呪われ姫の絶唱  作者: 朝露ココア
第12章 呪われ公の絶息
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情動、止められず

響く刃音。

鋭く振るわれたペートルスの剣が、ルートラ公爵家の衛兵の剣を叩き落とす。


「ま、参りましたっ……!」


衛兵は力なく平服する。

目の前に立つのはたった九歳の子どもだ。

それなのにまるで歯が立たない。


勝利を収めたペートルスはにこやかに衛兵に手を差し伸べる。


「ありがとうございました。僕もたいへん学ばせていただきました」


謙遜するペートルスはある意味で慇懃無礼にも見えた。

大差をつけての勝利、彼が学ぶべきところなどひとつもない。


訓練の様子を見ていたアベルが拍手しながら歩いてくる。


「すばらしい! ペートルス、成長したじゃないか! もう君は一人前の剣士だよ」


「お父様が教えてくださったおかげです。ルートラ公爵令息として、弱き姿は見せられません」


「私のおかげではないよ。ペートルスが努力したからこそ、今の実力があるんだ」


言いながらアベルは視線をめぐらせる。

ペートルスが運んだ足の跡、衛兵が受けた攻撃の箇所、そしてペートルスが持つ剣の摩耗具合。


――息子の戦い方は正道ではない。

この剣筋は……そう、まるで『何も見えていない』ようだ。

視覚を頼りにせず、他の感覚だけで戦っている。

熟練者のアベルにはすぐにわかった。


そして、その異常な感覚こそがペートルスを強者たらしめる所以である。


「……さ、疲れただろう。ペートルス、ゆっくり休むといい」


「はい、失礼いたします」


ペートルスは少しだけ心浮いて訓練場を後にした。

この力は望んで手にしたものではないが、それでも親に褒められるのは嬉しかった。

すべてが暗澹たる世界に沈められた彼にとって、両親や妹と過ごす時間が唯一の救いだったから。


だが、彼の愉快は長くは続かなかった。

屋敷に戻ると、使用人がそそくさと近寄ってくる。


「恐れ入ります。尊翁様がお呼びです」


「……ありがとうございます」


ペートルスの表情に影が射す。

しかし彼はすぐに笑顔を引き戻し、使用人に礼をした。


重い体を引きずり、彼は祖父の私室へ向かう。

通い慣れた離宮へ。

こちらは本邸と比べて空気が淀んでいるような気がした。


「失礼いたします」


「……来たか。具合はどうだ」


ヴァルターは具合を問うた。

だが、これは孫に対する気遣いではない。


「左耳は問題なく動いています。数多の音を聞き分け、視覚に頼らずに動けるほどになりました。また、音を操る力も増大しているように感じます」


「ふむ……やはり邪器は年齢の増加とともに力を増すか。惜しむらくは年数が限られることだが……仕方あるまい」


――邪器。

その名の通り、邪気によって作られた器官。

ヴァルターはその研究に熱意を注いでいた。


そして不幸にも孫となったペートルスは、彼の実験台にされていた。

齢三歳、物心ついたばかりのころに……左耳に植え付けられたのだ。

誰も、両親すらも真実は知らない。


きっと両親に告白すれば、彼らはペートルスを守るためにヴァルターを糾弾するだろう。

しかし、その結果として犠牲になるのが両親であると……賢いペートルスは悟っていたから。

己の邪は胸に秘めておく。


「邪器の移植から六年。経過は引き続き観察するとしよう」


今、こうしている間にも。

ペートルスの左耳にはあらゆる音が響いていた。

風の轟音、虫の咆哮、鳥の絶叫。

普通の人間であれば気にしないようなささやかな音すらも、どこまでも増幅して聞こえていた。


彼にとってはすべてがノイズ。

綺麗な音楽も、淑女の美声も、涼やかな葉擦れの音も。

爆音、轟音、鳴動。

鋭すぎる聴覚がペートルスの生涯を苛んでいる。


だが、もう慣れたこと。

六年も抱え続けた感覚は、とうに彼の力を補強する武器となり得た。

……それでもまだ、耳鳴りは止まないが。


「時に……ペートルスよ。この前の夜会、妙なことはなかったか」


「妙なこと……ですか? 特に問題はなかったかと思いますが」


「シュログリ教の元巫女長……イアリズ伯爵夫人、エウフェミアと言ったか。その者と交流した覚えは?」


祖父の問いにペートルスは記憶をたどって答えた。


「はい。お父様とイアリズ伯爵夫妻が話していた際、僕も多少の会話はいたしました。当たり障りのない社交でしたが……」


「……そうか。もうよい、下がれ」


「承知しました。それでは失礼いたします」


いつも祖父の問いは要領を得ない。

こう見えて何十年と帝国の政に携わってきた重鎮だ。

自分の浅慮では見えていない領域にあるのだろう……とペートルスは気を引き締めた。

この老人の前で油断は許されない。


孫が去った後、重い腰を上げたヴァルター。

彼は引き出しから黒い紙を取り出し、筆を走らせる。


「まさか一見してペートルスの器が見破られるとは……相変わらず厄介な手合いだな、シュログリ教の者は。……これをノイス伯爵家、トマサのもとへ」


窓辺から黒き紙鳩が飛び立つ。

帝国の闇を縫い、不吉は高く高く。


 ◇◇◇◇


イアリズ伯爵家の周辺には、空を埋め尽くすほどの白き紙鳩が飛んでいた。

――戦が始まった。

これは急事に他ならず、なればこそ周辺諸侯との連携が必要だ。


進軍を開始したペートルスがどのような被害を振り撒くか。

軍師たちと協議し、アスドルバルは必死に対応を協議していた。


ひとまずは周辺諸侯とともに防衛に努め、趨勢を見守る。

ペートルスの狙いが不明な以上、下手に動くことはできない。

協議を終えて疲れた表情の父にノーラはそっと話しかけた。


「おつかれさまです、お父様」


「エレオノーラ……すまんな。祝いの席だというのに、こんなことになってしまって」


「いえ、お父様のせいではありませんよ。ええと……わたし、明日は学園に戻ろうかと思うのですが」


「何を言っているのだ。こんな状況になれば、ニルフック学園も臨時休校になる。ほとんどの生徒にも実家から帰還命令が出ているだろう」


学園長なき今、ニルフック学園は混迷にある。

そんな状況下で起こった戦争。

もはや学園はまともに機能しておらず、授業など呑気にしている場合ではない。


三大派閥のうち、ひとつで内乱が起きた。

帝国のパワーバランスは大きく変わろうとしており、便乗して勢力の拡大を目論む貴族、派閥を鞍替えしようとする貴族もいる。

まだ反乱が起きて一日と経っていないが、それほどまでにペートルスが起こした反乱は衝撃的なものだったのだ。


「とにかくお前も安静にしていなさい。あまり自覚がないようだが、お前も伯爵令嬢の一人なのだからな。このような緊急時には静かに過ごしているように」


アスドルバルは短く言い残し、忙しなく執務室へ向かっていった。

彼は領地を守るために奔走している。

ノーラはもっと相談したいことがあったが、邪魔をするのも申し訳ない。


待機を命じられたのは、父が自分を大切に思っているからこそだ。

それは頭では理解しているのだが……。


「このまま大人しくしてるなんて、わたしらしくないよなぁ……」


なんでもいい、不安を紛らわすために何かしたい。

ペートルスが無事であってほしいというノーラの切望が止まらなかった。


今ごろクラスNの人たちはどうしているのだろう。

バレンシアは、コルラードは、生徒会の人たちは。

今は学生ではなく、貴族の子として過ごしているのだろうか。


「……あぁもう、うぜぇな」


煩悶を振り払いたい。

ノーラは先のパーティーで飲みかけたワインを口にした。

渋みのある味に顔をしかめると、ヘルミーネが覗き込んだ。


「お姉様。変な顔してどうしたの?」


「……ワインが思ってたより渋かったんだよ」


「あらそう。ペートルス様が心配でしかめ面していたのかと思ったわ」


「ま、それもあるけどな。……心配だよ、本当に」


ルートラ公爵が悪人だと判明した直後に、孫のペートルスが謀反を起こした。

これは偶然か必然か。


ペートルスが無為な争いを起こす人ではないと、ノーラは知っていた。

これほど大規模な戦であればずっと前から準備を進めていたのだろう。

もしかしたら、ノーラと出会うよりも前から。


「お姉様ってペートルス様の愛人なんでしょ?」


「はぁ? まだその頭おかしい勘違いしてたのかよ。わたしはそんなんじゃないって。ただあの方と偶然出会って……すごくお世話になって、絆を深めて。一緒にお買い物したり、飛竜に乗ってお出かけしたり、勉強を教えてもらったり……いつか恩返しできたら、いいなって……」


話しているうちに、ノーラは違和感を覚えた。

胸の奥が痛い。

ペートルスとの記憶を語れば語るほど、締め付けられる。


やがて彼女は口を閉ざした。

これ以上は話せそうにない。


「ごめん。ペートルス様はわたしの保護者みたいなもんだよ」


「……まったく」


目の前でヘルミーネが呆れたようにかぶりを振った。

ヘルミーネはノーラに歩み寄ると、ぐいと手を引く。


「話せば話すほど苦しくなるなら、それは恋でしょう? お姉様はペートルス様が好きなのよ。だから、あの方が危険に晒されていて心配でたまらない。これだから恋心を知らない元引き籠りは困るのよね」


「っ……」


「片想いなら追いかけなさい。両想いなら追いかけてほしいはずよ。どちらにせよ、お姉様がここで悩んでいる暇はないの。わかった?」


自分がペートルスに恋をしているなど。

今まで考えたこともないし、そもそもノーラは恋心というものを知らない。

だからヘルミーネの言っていることが正しいのか、間違いなのかなんて判断できない。



だが。


「妹の言葉なら信じてみるよ。ヘルミーネ……頼みがある」


「なんでも言いなさい。今まで迷惑かけたお詫びにね」


「わたし、脱走するから。上手いことお父様を騙しててくれない?」


「おっけー。ランドルフ様と一緒にどうにかするわ。ほら、行った行った!」


ヘルミーネに背を押され、ノーラは足を踏みだす。

母譲りの幻影をその身に纏い、衛兵の目を欺いて。

無計画に、衝動的に。

式神を宿した楽器を担いで。


もう誰かに連れ出してもらう必要はない。

自分の意志で、イアリズ伯爵家を飛び出した。

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