軍靴、高らかに響く
十五年前。
ルートラ公爵夫人ミゲラは幼子を抱きかかえて必死にあやしていた。
ミゲラの腕の中には、泣きじゃくる三歳の実子ペートルスがあった。
彼は覚えたての言葉を操り、必死に苦悶を訴えている。
「やだ、やだ! やだ!」
「大丈夫よー、ペートルス? お母さんがいるからねー?」
笑顔でミゲラは語りかけるも、ペートルスは依然として泣き続ける。
先程から何をしても泣き止まない。
いつもは笑顔と元気に満ちた子なのに、いったいどうしたのだろう。
「ミゲラ、大丈夫かい?」
困った妻を心配し、政務の手を止めてルートラ公爵アベルがやってきた。
アベルは泣きわめくペートルスの頭を撫でて落ち着かせようとする。
「やだ、やだっ!」
「あなた……ペートルスがずっと泣き止まなくて。どうして泣いているのかもわからないし、困ったわ……」
「まだ言葉を覚えたばかりだからね。やだ、としか言えないが……この子がここまで泣き止まないのは珍しい。どうしたものか」
夫妻は困り果てた。
赤子幼子が泣くのは当然のこと。
しかし、これはあまりにも常軌を逸している。
数時間、体が干からびてしまうほどに涙を流し続けていた。
「お腹も空いてない、おしめも取り替えた、けがもしていない。色々とやってみたのだけれど……駄目みたいねー」
「……どうした」
二人が解決策を考えていると、アベルの父がやってきた。
ペートルスの祖父、前ルートラ公爵ヴァルター。
彼は泣きわめくペートルスを一瞥し、眉をひそめる。
「お父様……ペートルスが泣き止まないんだ。おっ、と……ほら、大丈夫だぞ」
ますますペートルスの泣き声が大きくなる。
彼はヴァルターが近づいた瞬間、魔物でも見たかのように叫び出した。
「ご、ごめんなさいお義父様……すぐにお医者さんに診せてみるわ」
「子ども特有の現象だろう。心配せずとも、やがて収まる。とにかく、親がそばにいて安心させてやるがよい」
ヴァルターは特に怒りを見せることもなく去っていく。
彼はあのように言ったが、親としては医者に診せなければ心配だった。
ここまで泣き続けると喉が枯れたり、水分が不足したりするだろう。
アベルはミゲラの腕の中にいるペートルスを預ろうと手を伸ばした。
「ミゲラ、一緒に医務室まで行こうか」
「いいのよ。あなたは政務で忙しいでしょうから、私たちだけで行ってくるわ」
「そうか……すまないね。また様子を確認しにくるよ」
「お仕事がんばってねー。さ、行くわよペートルス。大丈夫よ、お母さんがついてるからねー」
◇◇◇◇
「…………僕はもう、一人でも大丈夫ですから」
真紅の眼が開かれる。
ペートルスの視線の先には、大規模な軍があった。
称して『反ルートラ公連合軍』。
グラン帝国内における反公爵派の連合軍、侵略に脅かされるナバ連邦の支援、イニゴが従えていた元山賊たちや、ミクラーシュら刺客をはじめとする第三勢力。
規模は一国家の戦力に迫り、士気はこの上なく高く。
ペートルスが己の生涯を費やして備えてきた戦力である。
「ペートルス様、準備完了です。いつでも進軍できますぜ」
イニゴが大柄な体を揺らして報告してくる。
全身を甲冑に包んだ今の彼は、さながら白銀の熊だ。
「そうか。君の麾下にある軍も動きだしたようだね」
「はははっ! ま、元山賊ばかりの有象無象の軍ですがね。ペートルス様に命を救っていただいたご恩、俺たちゃ全員忘れていません。どこまでもお供しますぜ」
「…………」
ペートルスは虚しそうに笑った。
口を開かぬ主に対し、イニゴが小首を傾げて尋ねる。
「ペートルス様?」
「……いや、なんでもない。指令を出す」
テモックの背にまたがる。
今日ばかりはテモックも威風堂々と鎧を身につけていた。
光輝く天竜が軍の頭上を飛ぶ。
兵たちはみな歓声を上げてテモックにまたがるペートルスを迎えた。
『全軍傾聴』
兵士たちの鼓膜にペートルスの声が届く。
音を操り、全ての兵士が明確に聞こえるように号令を届ける。
彼自身は声を張り上げず話しているのに、まるで目の前にいるかのようだ。
『我らはこれより、ルートラ公爵家に向けて進軍を開始する! 敵はルートラ公爵ヴァルター・イムルーク・グラン……私の祖父だ。だが、祖父を斬ることに躊躇はない。帝国の、世界の未来のために……革命の剣を掲げよ!』
大歓声が巻き起こる。
数千に迫る兵士は喜々として剣を掲げ、ペートルスの号令に呼応した。
暗殺では意味がない。
大勢の目前で、戦の最中でペートルスがヴァルターを下してこそ、反逆の成功を意味する。
帝国に巣食う腫瘍……ルートラ公爵を打倒するため。
大義は充分だ、戦を起こすための道理は通っている。
表向きに大義があればそれで構わなかった。
本当はこれが復讐のための戦いでも。
大義がある以上は、正しき戦いとなるのだから。
正しき血が流れ、正しき者が時代の勝者となるのだから。
『――進軍を開始する!』
ペートルスが告げると同時、軍靴の音が大地に轟いた。