姉妹
法廷の外に出ると、天を衝く皇城が視界に入った。
この裁判所は皇城の中に位置しており、貴族間の重大な裁判などで使われる。
改めて今回の一件の深刻さをノーラは感じ取った。
風が冷たい。
裁判での疲れを振り払うように、大きく伸びをしてノーラは妹の姿を探す。
「馬鹿と煙は高いところが好き」
尖塔に備え付けられた階段を上る。
すると、予想通りそこにはヘルミーネの姿があった。
彼女は頬杖をつき、ぼんやりと帝都の景色を眺めている。
ノーラはその隣に立って同じ景色を見た。
「帝都はおっきいね。ヘルミーネは夜会とかで何回も帝都に来てるんでしょ?」
「……なに、急に。ついてこいなんて言ってないんだけど」
「わたしも気分転換したくなったんでね。あの法廷、なんか息苦しいんだよ。ラインホルト殿下もいるし」
ラインホルト皇子はいつも険しい表情をしている。
文化祭で劇を見ていたときも、裁判を傍聴しているときも威圧感があった。
……まあ、あの皇子が怖いというのは建前で、本当はヘルミーネについてきたのだが。
「お父様を一人にしないでよね。あの人、意外と臆病なんだから」
「知ってるよ。ヘルミーネの方がお父様のことよく見てきたもんね」
実子のノーラよりも、養子のヘルミーネの方が長い時間を父と過ごしてきた。
ノーラはただその事実を述べただけだ。
しかしヘルミーネの顔には憂愁の影が射す。
「なにそれ、嫌味のつもり? 私とお母様のせいで、家族と過ごす時間が奪われたって……そう言いたいわけ?」
自覚があった。
自分は本来、イアリズ伯爵家に連なるべきではなかった人間だと……ヘルミーネはとうに気づいていた。
どうせ政略結婚の末に授かった立場で、どうせトマサの道具のひとつで。
ただ義姉と義父の良好な関係を奪っただけの侵略者に過ぎないのだと。
自覚を抱いているからこそ、なお腹立たしい。
アスドルバルの慈愛が、ノーラの接触が、自分の傲慢さが。
何にも苛立ちを覚えて、周囲のすべてに嚙みついてしまいたくなる。
「なんでそう卑屈に考えるかなぁ。誰も嫌味なんて言ってないだろ」
「でも……実際、内心ではそう思ってるでしょう。私とお母様が来なければ、いまごろお姉様は普通の人生を送れてた。その右目も普通のままで、何も悩むことなんてなかった」
徹底的にトマサを裁いてやる、たとえ実の母親だろうと許しはしない。
そう覚悟して法廷まで足を運んだのに……ヘルミーネの情緒はぐちゃぐちゃだ。
邪法の被害者が自分だけならば良かった。
だが、姉は自分以上の被害を受けていて。
「いやー……別にそんなこと思ってないよ。『もしも』の人生なんて考えても仕方ない。てか、トマサが悪いのは明白だけど、ヘルミーネは微妙なところでしょ。あんまり落ち込むことない……」
「どうしてお姉様は怒らないの!? さっきから気持ち悪いんだけど!」
急に声を張り上げたヘルミーネ。
ノーラは閉口して次に吐くべき言葉を考えた。
妹の気持ちは理解できる。
理解できるからこそ、こうして後を追ってきたわけで。
"罪悪感"というやつだろうか。
まともな人間ならば当然のごとく持ち合わせている感性だ。
少し前まではこの妹は人倫なんて持ち合わせていないと思っていたが……どうしてか、今はそう思っていない。
特にヘルミーネが変わったわけではない。
きっとノーラの心が変わったのだ。
「この右目のおかげで、たくさんの出会いがあったんだ」
「で、出会い……?」
「そ。ヘルミーネが羨ましがってたペートルス様との出会い、先輩方や友人との出会い。まあ、わたしが普通の人生を送っていても知り合いにはなれていたかもしれないけど……今みたいな関係には絶対なれなかった」
だから怒らない。
だから人生の別の可能性なんて考えない。
今の自分が好きだから。
ノーラがそう答えると、ヘルミーネは腑に落ちない様子で視線を落とした。
これだけ人生をご破算にされて、どうして笑っていられるのか。
「わかんない……わかんないわよ、お姉様のこと。わかんないから余計にムカつく!」
「そりゃそうでしょ。生きてきた環境も違うし、そもそも理解してほしいとも思ってないし」
「私はお姉様に酷いことたくさんしたでしょ!? だから怒っていいし、お母様と一緒に私を軽蔑してもいいの! なんで余裕なの、笑ってられるの!?」
イアリズ伯爵家を取り巻く事件に触れ、時が流れ、ヘルミーネは己の罪を自覚し始めていた。
――裁きを受けたい。
徐々に芽生え始めた悔悟が、彼女の心を苦しめている。
さんざん姉を苦しめておいて、いまさら何事もなかったかのように生きるなど。
同じ穴の貉でありながら、正義を気取って母を糾弾するなど。
「ごちゃごちゃうるせぇよ、馬鹿」
「……っ」
「わたしはお前の姉だよ。迷惑かけられるのだって、別に構いはしない。正直、お前の嫌がらせなんて子どもの戯れみたいなもんだよ。許すとか許さないとかそういう話じゃない、ただウザかっただけ。自分がやったことを過大評価しすぎなんだよ、ヘルミーネはさ」
やはり妹は何も見えていない。
だから言葉で殴ってやらなきゃ報われない。
「お前にわたしの人生を阻むことはできない。驕るな、調子乗んな。わたしとお前の関係はただの姉妹。敵じゃないし、必要なときは味方になってやる。今お前がつらいなら、味方になってやるから、それが姉の役目だから。あんまり泣くなよ」
いつしかヘルミーネの頬を伝っていた涙。
言われて初めて気づいたのか、彼女は慌てて目元を拭った。
泣くべきなのは、一番の被害者である姉の方なのに。
そんな情けなさがヘルミーネの涙をますます加速させる。
「お姉様……」
『お義姉様』じゃない、『お姉様』だ。
ずっとヘルミーネはノーラをそう呼んできた。
そう呼んで、そう接したかった。
『う、うん……あの。お姉様って呼んでもいい?』
初めて出会った日を思い出す。
あのとき、二人は互いに手を取ろうとした。
悪意の壁がずっと関係を隔ててきた。
頭の中でざわめく得体の知れない悪意が、ノーラに触れることを拒み続けていた。
ノーラはそっと手を差し出した。
何にも阻まれることなく、ヘルミーネの震える手が握り返す。
「ちょっと休んだら戻るよ。お父様が待ってるからね」
まだ時間はある。
ノーラは静かに妹のそばにいた。