決別に向けて
「あ……ああああっ!? あ……いや、嫌! やめて、やめてお義母様!」
ノーラは狂乱する。
すべて思い出した。
そうだ――この右目は、義母のトマサから植えつけられたものだ。
今までずっと忘れていた。
いや、忘れさせられていたのだ。
『――ああ、間違いない。この女は記憶が改ざんされている』
精神科医のガエルの言葉が蘇る。
ノーラはトマサに記憶を改ざんされていたのだ。
右目を植え付けられた記憶をないものとして。
きっかけは今さっきまで読んでいた本。
物語を読み進めるにつれ、記憶の封が解けて。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
狂奔に陥ったノーラはひたすらに恐怖する。
鮮明に蘇った記憶が、生々しく再生され続けて。
いつまでも途切れずに頭の中でループしていた。
幼少期の記憶と現在の記憶とが混濁し、何もわからなくなる。
どうして今まで忘れていたのだろう。
あるいは、永遠に思い出さない方が良かったのかもしれない。
呼吸を乱してノーラは救いを求めた。
だが部屋の中で一人、そばには誰もいない。
「ク、ソッ……! やめろッ!」
思いきり自分の頬に拳を叩き込む。
強烈な痛みが頬に走るが、この程度……記憶で再生され続ける右目の痛みに比べれば。
衝撃を受けたことで記憶の再生が止まる。
ノーラはすぐにタオルを掴み、全身から噴き出す汗を拭った。
深呼吸して吐き気を必死に抑える。
悶えている場合じゃない。
今は落ち着き、記憶と真剣に向き合わなければ。
本を拾い上げる。
この小説の主人公とまったく同じだ。
ノーラは邪悪な力をその身に宿している。
「話さ、ないと……ペートルス様に……」
早くペートルスに報告しなければ。
だが、体が重い。
思うように足が動かない。
もう少しだけ……休んでからにしよう。
記憶の封が解けた影響か、頭痛が止まらない。
ノーラはベッドに身を投げた。
◇◇◇◇
ドアを叩く音でノーラは目を覚ました。
寝たときは夜だったはずだが、すでに朝になっている。
深く眠っていたようだ。
とにかく全身が痛い。
頭痛と倦怠感が止まらない。
「ノーラ、僕だ。開けてくれるかい?」
「ペートルス様っ! す、すみません、今起きました! 準備するので少しお待ちを!」
「焦らなくていいよ。待ってるから」
客人の正体はペートルスだ。
ノーラの眠気は一気に吹き飛び、慌てて衣装棚を開いた。
最低限の身なりは整えなければ。
準備をしたノーラは、慌てて部屋の扉を開ける。
しかし、外に立っていたのはペートルスだけではなかった。
「ペートルス様に……ランドルフ? なんでいるの」
「お義父様……イアリズ伯爵閣下から、お前に招集がかかっている。至急、イアリズ伯爵家に来るようにと」
どういうことだろうか。
ノーラがペートルスに視線を向けると、疑問に答えるように彼は言った。
「裁判を行うのさ。君の義母、レディ・イアリズに対して、ロード・イアリズが裁判を起こす。レディ・イアリズが『邪法』を行使していた証拠が集まったということでね」
義母と聞いた瞬間、心臓がはねる。
そうだ……昨日思い出したことを伝えなければ。
いまだに思い出すと吐き気がするが、重要すぎる情報だ。
「……! あっ、そ、そうですペートルス様! 義母のことについてなんですけど、思い出したことがあって……」
「君の話を聞いてあげたいが、今は時間がない。とりあえずミスター・ランドルフとともに、イアリズ伯爵家へ向かってくれるかい? 有力な情報提供なら、君のお父上に申し上げてくれ」
「わかりました。えっと……授業は、今日はないですよね」
舞踏会の翌日なので今日は休みだ。
しかし裁判とやらがどれだけ長引くかわからない。
さすがに授業云々よりも、家の問題を片づける方が優先度は圧倒的に高いし、学園のことなど気にしている場合ではないが。
ノーラは簡易的に荷物をまとめて外に出た。
するとランドルフがついてこいと言わんばかりに歩きだす。
「ちょっと待ってよ。……えっと、ペートルス様は?」
「すまない、僕はとても大事な用件があってね。裁判には同席できそうにない。とはいえ……事前にロード・イアリズに対して証拠は提供してある。安心してくれ」
「わ、わかりました。ペートルス様がいないのは少し不安ですけど……がんばります! わたし、あの義母が……想像を絶する悪人だってこと、思い出したので。絶対に許しておけないんです」
「……そうか。大丈夫、君たちならきっと裁判に勝てる。レディ・イアリズの悪事を暴き、いい報告を聞かせてくれ」
不安だ。
右目の記憶を思い出した今、あの義母を前にしてまともでいられるだろうか。
たとえどんな不安があっても……向き合わなければならない問題だ。
ノーラは己を奮い立たせた。
「お喋りはもう充分だろう? 早くしろ」
「わ、わかってるって」
「それと……お前、実家から弦楽器は持ってきているか? 小さいころによく弾いていた弦楽器だ」
唐突なランドルフの問いにノーラは困惑した。
この流れで急に弦楽器の話を持ち出すなんて、あまりにもおかしな話だ。
「なんで? 持ってきてるけど」
「ならば、それも持ってこい。アレはお前の母から譲り受けたもので間違いないな?」
「うん。そうだけど……」
「今は時間がないんだ。急げ」
有無を言わさぬランドルフの語気に、ノーラは渋々従うしかなかった。
部屋の物置から懐かしの弦楽器を取り出して背中に担ぐ。
ノーラが再び外に出ると、ランドルフは踵を返して歩きだす。
「ミスター・ランドルフ。あとは頼んだよ」
「お任せを。これはあくまでイアリズ伯爵家の問題。ルートラ公爵令息にご迷惑をおかけするわけにはいきません。失礼いたします」
きっちりと礼をしてランドルフは踵を返す。
ノーラも慌てて彼の後を追った。
次第に遠くなっていくノーラの姿。
彼女を最後まで見送り、ペートルスは深く息を吐いた。
「きっと君なら大丈夫。もう僕の支えなしでも生きていけるくらい……君は強く、たくましくなったから」
指を鳴らす。
陰から数名の斥候が顔を出した。
ペートルスは灰色の冬空を見上げ、瞳を閉じる。
「――さようなら、エレオノーラ」