エレオノーラの記憶
母の死は、正直あまり実感できなかった。
死化粧をして冷たくなった母を、エレオノーラは呆然と見つめていた。
柩の中に次々と投げ込まれる花束。
隣で泣き崩れる父、イアリズ伯爵アスドルバル。
人の『死』という現実は、幼子のエレオノーラが実感するには残酷すぎた。
「おとうさま……」
「エレオノーラ。大丈夫だ、私がついているからな……」
父はそっとエレオノーラを抱きしめた。
「おかあさま、もう帰ってこないの?」
「…………」
アスドルバルは答えなかった。
エレオノーラは現実を認識できず、アスドルバルは現実を受け入れることができず。
イアリズ伯爵家の使用人たちは、そんな父子を憐憫の情をこめた視線で見つめていた。
唐突な病死だった。
これまでエウフェミアにはまったく病の気などなかったのに。
かつてシュログリ教の巫女長すら務めた彼女が病に倒れるなど、誰が想像できようか。
その日から、エレオノーラの生涯に影が射した。
◇◇◇◇
一年後。
イアリズ伯爵家に、次期夫人がやってきた。
「ほら、ヘルミーネ。伯爵家のみなさまにあいさつなさい」
新伯爵夫人のトマサに促されて、連れ子のヘルミーネはおぼつかない手つきでカーテシーした。
彼女は緊張した面持ちで、新たな義父と義姉、使用人たちに向けて頭を下げる。
「へ、ヘルミーネです……よろしくお願いします」
「違うでしょう? 『お初にお目にかかります、新たにイアリズ伯爵令嬢となったヘルミーネと申します。以後お見知りおきを』と言うのよ。事前に教えたのに……まったく」
「ご、ごめんなさい、お母様」
アスドルバルとトマサは政略結婚だ。
後妻を娶るつもりはないと頑なに否定していたアスドルバル。
だが、そこに公爵派の重鎮から縁談があった。
皇帝派のイアリズ伯爵家と関係性を深めるため、公爵派の伯爵家の未亡人であるトマサに白羽の矢が立ったのだ。
当初アスドルバルは否定的だったが、政治的な側面を考えれば縁談を断るわけにもいかず。
結果的に後妻を迎えることになってしまった。
「ま、まあまあトマサ嬢……ヘルミーネもまだ小さいことだし、そこまで厳格にマナーを求めなくとも」
「何をおっしゃるの? 淑女たるもの、幼少より礼節は叩き込むべきでしょう? それと……『あなた』。私たちはもう夫婦となったのですから、もっと親しみをこめて名前だけで呼んでくださいな」
「あ、あぁ……そうだな。トマサ……」
まだ歯切れの悪いアスドルバルに、距離を縮めようとするトマサ。
そんな親の様子を、エレオノーラとヘルミーネは困惑して見つめていた。
エレオノーラは小刻みに震えるヘルミーネに駆け寄る。
「こんにちは! わたしはエレオノーラ・アイラリティル!」
「え、ええっ? えっと……ヘルミーネ・ソレブレック。……じゃなくてヘルミーネ・アイラリティルです。よ、よろしく……」
「新しくわたしの妹? になるんだよね! 仲良くしよ!」
「う、うん……あの。お姉様って呼んでもいい?」
「もちろん! よろしくね、ヘルミーネ」
家族が増えるのはいいことだ。
エレオノーラはヘルミーネに手を差し出した。
ヘルミーネもまた目の前の手を取ろうと、一歩を踏み出したが。
パン、と。
ヘルミーネの手をトマサが打ち払った。
「だめよ、ヘルミーネ。お付き合いする人はよく選ばないとね」
他人に聞こえないように、トマサは耳打ちする。
ヘルミーネは困ったように硬直していたが、やがて差し出そうとした手を引っ込める。
エレオノーラへ向けられたトマサの敵意の籠もった視線。
――この人はあんまり好きじゃない。
エレオノーラが初めて抱いた、新たな義母への第一印象だった。
◇◇◇◇
断絶。
エレオノーラはヘルミーネとの交流をことごとく断たれていた。
どうやらトマサは腹違いの娘であるエレオノーラを敵視しているらしい。
幼いエレオノーラには理解できていなかったが、トマサとしては鬱陶しい存在なのだ。
イアリズ伯爵家でエレオノーラが影響力を持てば、後妻の自分が不利になる。
彼女としては立場を堅守するため、エレオノーラは極力排除したかった。
ある日のこと。
目覚めたエレオノーラは、見覚えのない天井に違和を感じた。
「あ、れ……?」
手足も動かない。
視線を動かすと、鉄の鎖が己の両手足を拘束している。
「あら、お目覚め?」
「お義母様……?」
頭上から声が降り注ぐ。
そこには笑みを湛えたトマサの姿。
彼女はエレオノーラの顔を覗き込んだ。
「相変わらず気味が悪い顔ね。でも安心してちょうだい? 少しはマシに改造してあげるから」
何を言っているのかわからないが、とにかく危機的状況にあることは理解できた。
エレオノーラは必死に手足を動かして脱出を試みる。
しかし鎖は彼女の自由を許さず。
もがくエレオノーラを、トマサは愉快そうに眺めていた。
『――トマサ。無駄な話をしている暇はない。速やかに処置を行え』
くぐもった声が響く。
年齢も性別も判然としない声は、部屋の隅に置かれている魔道具から発されているようだ。
「承知いたしました。ご安心を、私の邪法に失敗はございませんわ」
「お義母様、何するの……? いやだ……こわいよ……。たすけて、おかあさま……」
恐るおそるエレオノーラは尋ねた。
しかし返答はない。
代わりにトマサは黒い刃を突き出した。
「あ……ぁあああっ!?」
激痛。
焼けるような鋭い痛みが、顔面に迸る。
「お前の母はもう死んだのよ。助けなんて誰も来ないの」
鼻をつく鉄の匂い、吐き気を催す邪悪な気配。
自分の右目が――抉られている。
事実を知覚した瞬間、エレオノーラの意識が白んだ。
こんな地獄のような痛み、耐えられるわけがない。
痛い、痛い、痛い。
「さあ、お前の可能性を潰してあげる」
最後に意識に降り注いだのは、トマサの悪辣な笑い声だった。