導火
「おつかれさまでした。ピルット嬢はもうお帰りになるのですか?」
「はい。部屋でゆっくり過ごそうかと」
舞踏会、一曲目を踊り終えて。
ノーラは早々に退散することにした。
舞踏の相手はフリッツ。
前回と同様、練習も含めて相手がいないノーラに付き合ってくれた。
「外も暗いですし、お部屋までお送りしますが……」
「いえ、フリッツ様は続きを楽しんでください。一人でも大丈夫ですよ」
「そうですか。では、おやすみなさい」
ノーラはホールの中央で踊る生徒たちを横目に、会場から抜け出した。
やはり自分がいるには煌びやかすぎる場所だ。
学園の生徒だけならまだしも、外部から高貴な賓客が数えきれないほど来ている。
楽団が奏でる音色が、ニルフック学園中に響き渡っている。
音に合わせてハミングしながら、ノーラは帰路に就いた。
「あの……」
「ほえ?」
不意に声がしてハミングを止める。
あの……とたしかに自分が呼び止められた気がしたので。
振り向くと、そこには見覚えのない少年が立っていた。
年齢的には学園の生徒っぽいが。
「ノーラ・ピルットさんですよね? 私はユティナヴ男爵令息、オト・ユティナヴと申します」
「は、はい。お初にお目にかかります」
「よろしければ……私と一曲お願いできませんか?」
少年は恭しく跪き、ハンカチをノーラの前に差し出した。
いきなりの展開に思考が停止する。
平民設定で舞踏の相手など誰もしてくれなかったから苦労していたのに。
混乱しつつも、ノーラはなんとか言葉を紡いだ。
「え、えっと……わたし、平民ですよ?」
「身分など関係ありません。文化祭であなたの美しい歌声を拝聴し、感銘を受けたのです。もっとあなたのことを知りたい。どうか私と踊っていただけないでしょうか」
人違いではないらしい。
どうしよう。
正直疲れたし、早く帰りたいのだが。
ノーラが言葉に詰まっていると、さらなる声が割って入った。
「待て。その子は俺と踊るんだ」
またもや見たことない顔の令息だ。
彼もおそらく学園の生徒だろう。
跪く少年を押し退けると、もう一人の男はノーラの前に立った。
「俺は二年生、ブロスバ伯爵令息のエヴシェンだ。ノーラ嬢、君には入学当初から目をつけていて……すてきなレディだと思っていたんだ。こんな弱々しい男の相手をするくらいなら、俺と踊らないか?」
「うぇ」
「美しい君を一人きりにはしない。どうか俺の手を取ってほしい……」
吐きそう。
相手がいないことを嘆いた日もあったが、いざ誘われると気持ち悪い。
なんだろう、マインラートと酷似した誘い方なのにどこか違う気持ち悪さがある。
「ちょっと待ってください。彼女が困っているじゃないですか。先に私が声をかけていたのに、割って入るとは品性に欠けているのではないですか?」
「は? どう見てもノーラ嬢はお前と踊りたくなさそうだった。そこに助け舟を出してやったんだろ。少しは相手の気持ちを考えろよ、後輩クン」
「いえ、そんなことはありません! あなたの態度こそ、淑女を誘うに値しないかと思いますが」
そして言い合いを始めてしまった。
いったいどういうことなのだろう。
少しは自分もニルフック学園の生徒に認められたということだろうか。
嬉しさがありつつも、なんだか傍迷惑な話である。
舞踏会を適当に切り抜けるという決意を完全に固めたノーラにとっては、ありがた迷惑だ。
「お前、クラスNの生徒とつながりを持ちたいだけだろ? 顔にそう書いてあるぞ」
「そんなことはありません……! 先輩こそ、見た目でしか女性を判断していない匂いがしますよ?」
もうめんどくさいので。
二人が言い合いをしている隙に、ノーラはこっそり逃げ出した。
幻影魔術を発動し、自分の姿を消したうえで。
言い合いに夢中になっているのか、生徒たちはノーラが消えたことに気づいていない。
足早に寮まで戻って部屋に帰還したノーラ。
彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「ビビった……悪いことしたかな?」
勝手に帰ってごめんなさい。
心の中で平謝りしつつ、ノーラは椅子に腰を下ろした。
来年からは誘われたら真摯に対応しよう。
文化祭での一件もあったし、意外と自分の評判は良いのだろうか。
入学したばかりのころの無名な平民ではないのかもしれない。
「まあ、それはそれとして」
舞踏会の件はさておき。
ノーラは引き出しから一冊の本を取り出した。
いま読み進めている、例のブックカフェでもらった小説だ。
これの続きが気になって舞踏会もあまり集中できなかった。
ブックカフェの店主、イクジィマナフ曰く……この本はとある事情によって検閲され、発禁になったらしい。
内容としては普通のファンタジー小説で、どうして発禁になったのか最初はわからなかった。
だが……読み進めるうちに理由がわかってきた気がする。
この小説は一見すれば普通のファンタジー小説だ。
寿命の短い主人公が親の仇を探して放浪する物語。
しかし旅の最中で、主人公が持つ特殊な力が……邪悪なる力が埋め込まれた腕に由来するものだと判明する。
『お前の右目もまた、邪気が関与している可能性が高い』
きっかけはヴェルナーに言われた推測。
邪気――その一語が、発禁の理由に深く関わっているのではないだろうか。
グラン帝国の前身となった『サーグリティア邪教国』は、一般的には『サーグリティア国』と呼ばれ、邪教を崇拝する国であったことは伏せられている。
おそらくだが……あらゆる『邪』にまつわる情報が、この国では禁忌とされているのだ。
だが、禁忌にこそノーラの右目の秘密がある。
『――ノーラ・ピルット。『邪悪なる記憶』の正体がわかったのならば、もう一度ここへ戻ってくるといい』
おそらくイクジィマナフが言っていた言葉の意味も、読み進めればおのずとわかるはずだ。
◇◇◇◇
「うそ……これ、ううん、違う……」
ノーラは小説を取り落とした。
目まいがする。
頭が――割れるように痛む。
終盤に差しかかるにつれて増していった嫌悪感。
増大する頭の痛み。
『さあ、お前の可能性を潰してあげる』
そうだ。
自分は小説の主人公と同じ力を、知っている。