激情律
澄んだ空気をいっぱいに吸い込んで、夜空を見上げた。
紺藍の瞳に映るは煌めく星々。
エレオノーラは美しい夜空にため息を吐いた。
どこにいても夜空の美しさは変わらない。
イアリズ伯爵家で一人寂しく見上げた夜空、ルートラ公爵家でまた一人見上げる夜空。
同じ輝きを持っていて、だからこそ安心できる。
怒涛の如く彼女を取り巻く環境は変わってしまった。
数日前まで一生孤独に過ごしていくと思っていたのに……人生とはわからないものだ。
孤独なまま死んでいく生き方の方が楽だろう。
こうしてペートルスやレオカディアと接して、多くの人と向き合う人生の方がよほど難しい。
「疲れたな……」
今日一日ですごく体力を消費した。
普通の人にとっては何気ない一日でも、エレオノーラはその限りではない。
人が怖くて、変化が怖くて、自分が怖い。
だから自分が揺れ動く環境の中心にいることが、とても重荷になっている。
今までの未来は既知だった。
けれど、明日からは――何もかもが不透明で未知になる。
それが恐ろしくも、心のどこかで期待している自分もいて。
「ああ、もう……考えるのめんどくせ」
夜風に吹かれながらエレオノーラは匙を投げた。
流されるまま、なるようになれの精神。
もう部屋の窓を閉じて寝てしまおう。
そう思った矢先のことだった。
心地よい音色が鼓膜を叩く。
高く、低く、躍動して疾走し、緩急をつけて。
意識を掴んで離さぬストリングスの独奏が、城のどこかから響いている。
「この曲……聞いたことない。綺麗な音……だけど、」
イアリズ伯爵家の本邸では時たま夜会が開かれていて、エレオノーラもその際に演奏を聞くことがあった。
しかしこの曲は……夜会にありがちな、伝統ある古典的な旋律ではない。
とにかくアップダウンが激しくて、重奏の使い方が独特で。
――怒り。
その音色を形容するならばこうだ。
聴き入る者を惚れさせる美しい奏楽だが、その深奥に籠められた激情が透けて見える。
「……」
歌ってみたい。
もしもこの曲に歌詞があるのなら、紡いでみたい。
なんとなくそう思った。
きっとこの曲に歌詞があるのなら、決して聞いている者を愉快にさせる歌詞ではないだろう。
世の理不尽を穿ち、壊すような歌詞になるに違いない。
瞳を閉じてエレオノーラは独奏に聴き入った。
◇◇◇◇
「おはようございます、エレオノーラ様」
「…………レオカディアさ、ま」
翌朝。
エレオノーラはとんでもない眠気の中で目を覚ました。
「まだ、夜です」
「何をおっしゃいますか。とうに日は昇っていますよ」
「いいえ。わたしの中では……日が中天に昇るまで、夜です」
どちらかといえば夜型なのだ。
伯爵家にいたころも、朝食を食べてすぐに二度寝していた。
ようやく動きだすのが昼、そして床に就くのが日をまたいだ深夜。
昨夜も謎の独奏を聞いてから寝付くまでに結構な時間がかかった。
ブランケットを被ると、レオカディアは呆れたように言い放つ。
「寝ていたいのなら寝ていて構いません。ペートルス様からは『エレオノーラ様が不自由なく過ごせるように』と仰せつかっておりますので。ええ、エレオノーラ様が眠たいのは、あなたのせいではなくきっと運命のせい。運命のせい……」
「ごめんなさい起きます怠惰な人間で申し訳ございません生きててすみません」
甘えていいと言われれば甘えるのが信条だが、さすがに自分が情けなく感じてきた。
エレオノーラは眠気を打ち払ってベッドから抜け出す。
天蓋つきのベッドは実に寝心地がよかった。
あの天国のような寝心地もまた、眠気が覚めなかった要因に違いない。
ベッドから起きたエレオノーラはふらふらと室内を歩き回る。
「何をされているのですか?」
「え、えっ……うーん、起きたらまず何をすればいいんすかね」
「まずはお着換えをしましょう。こちらへ」
レオカディアに促され、エレオノーラは鏡台の前に座る。
鏡の中にはいつもの気だるげなエレオノーラの姿があった。
はねた青髪にレオカディアの手が触れる。
「どういった髪型がお好みでしょうか?」
「髪型……特に気にしたことないです。い、いつもストレートに伸ばしてました。というか寝ぐせも直さずに生活してました」
「そ、そうですか。エレオノーラ様には……うん、こんな感じの髪型がお似合いかもしれません」
髪の右側がまとめられ、サイドテールのような形になる。
正直髪型なんてどうでもよくねぇか……と思うエレオノーラ。
とりあえずレオカディア的にはお似合いらしいので、その髪型にしてもらおう。
自信さえ得ることができれば容姿にも気を遣えるようになるのだろうか。
「ドレスはいかがいたしましょう」
「うーん……それもまあ、レオカディア様のお好みで」
「エレオノーラ様はお好みのデザインや色合いがないのですか?」
「なくはないです。でも正直、ドレスって動きづらいしあんまり好きじゃないんすよね。人前に出るからには着ますけど」
口走った刹那、エレオノーラはハッと閉口した。
わざわざ用意してもらったのに、なんたる不敬か。
サッと顔を青くして恐るおそる見上げると、レオカディアは口元を抑えて肩を震わせていた。
「ふ……ふふっ。やはり似た者同士、なのでしょうか」
「あ、あの……?」
「いえ、なんでもありませんよ。そういうことでしたら、私がドレスをお選びしますね」
似た者同士。
そうレオカディアは口にしたが、エレオノーラと似た者なんてどこにいるのだろう。
もしも自分と似ている人がこの世にいるのなら、それはよほど奇特な人に違いない。
自分に匹敵する変質者がいるなら見てみたいものだ。
エレオノーラは漠然と思った。