駆馬に鞭
黒き波動が伸びた瞬間、ヴェルナーがノーラを抱えて飛び退く。
数秒前まで彼が立っていた場所には、石畳の破片が舞っている。
「が、学園長っ……!?」
まったく事情を知らないノーラは驚愕した。
急に舞い降りたかと思うと、自分とヴェルナーを本気で殺しにきている。
普段から温和で淡々とした人柄からは考えられない凶行。
ヴェルナーはゆっくりとノーラを下ろし、敵影を見据えたまま言った。
「逃げろ。奴は俺にしか興味がないはずだ」
「いいや。残念ながら、いま学園にいる者は全員殺すことにした。誰がこの愚行に加担しているかわからないからな。職員含めて、たった数十人……まずはお前からだ、ヴェルナー」
「チッ……ノーラ、下がっていろ!」
強き殺意を浴びて怯んだノーラだが、臆することはない。
やはり学園長は悪人なのだと。
そう悟った瞬間、ヴェルナーとともに戦う覚悟をした。
敢然とアルセニオの懐に飛び込むヴェルナー。
彼の斬撃は黒き波動に打ち払われる。
目にも止まらぬ戦いの中に、もちろんノーラが介入できる余地などないが。
(救援を呼ぶか、わたしが何かアクションを起こすか……)
救援を呼ぶとしたら、合成獣が蔓延る中を駆けていかなくてはならない。
それはあまりにもリスクが高すぎる。
まずは眼帯を外す。
合成獣を寄せつけないためだ。
そして全身に魔力を宿し、街路樹の裏に回り込む。
これは『保険』だ。
「お前を……殺すッ!」
「そればかりだな、お前は。執念だけで壁は越えられんぞ」
鞭のように伸びる波動を、ヴェルナーは着実に打ち払っていく。
彼の戦闘技能はすさまじく高い。
それでもなお……負傷した体と、アルセニオの不可思議な力に苦戦を強いられる。
戦闘の傍ら、ノーラは魔力の流れを読み取る。
……だが、両者の戦いに魔力は介在していなかった。
「黒くて、魔力がない術……?」
記憶の隅に引っかかるものがあった。
クラスNの講義中、ヴェルナーが研究していた力。
魔力がないにもかかわらず、扱える『黒き術』だ。
彼は頑なにその力を披露しようとしなかったが……間違いない。
講義で聞いた特徴とすべて一致している。
「でも、どうして学園長がその力を……」
本来はヴェルナーの力だ。
彼がアルセニオに怒り狂っていることもまた、何か関係があるのだろうか。
「理解できんな。生物として己を上位たらしめる力を封じ、敵わないと知りながらも立ち向かう。お前の思考は本当に解せん」
「黙れ! お前に人の感情が理解できるものか!」
猛り、昂ぶり。
手負いの獣がアルセニオに食らいつく。
アルセニオが放つ黒き鞭。
それはヴェルナーが繰り出す剣筋の手数を上回る。
あの物量をどうにかしない限り、勝機は見出せない。
ノーラは手元に魔力を籠めた。
この場にいる第三者は自分だけ。
自分しかヴェルナーに貢献できない。
手元にわだかまる鈍色の靄。
靄は魔力を籠めるにつれて輝きを宿し、光輝を宿す球体に変じる。
「――幻影光」
魔力展開範囲は周囲一帯、対象はアルセニオに限定、出力は最大。
見せる幻影は……『恐怖するもの』。
ノーラは一瞬で魔術の形を演算し、射出した。
七色の光の幕が、ヴェルナーとアルセニオを分断する。
瞬間、アルセニオがノーラへ視線を向けた。
「邪魔を……」
「こっちを見ろ!」
右目の出力は最大。
さらに恐怖の幻影の重ねがけだ。
これでアルセニオは意識すら保てなくなる可能性が高い。
だが。
光の幕を破って黒き波動が飛び出した。
「嘘だろ……っ!?」
自らの胸元を黒色の殺意が貫く。
まさかの展開にノーラは刮目した。
「ノーラ!」
すかさずヴェルナーが波動を断ち、間に割って入る。
アルセニオは余裕の態度を崩さずにそこに立っていた。
気を失うことも、何かに恐怖することもなく。
「見る者を恐怖させるという右目か。あいにく、私は恐怖という概念を持ち合わせていないのでな」
この男……ペートルスと同じだ。
恐怖するものがないから、ノーラの呪いが効かない。
「まあ、仮に私に恐れるものがあったとしても……黎の力に慣れている以上、邪眼は通用せん。そこの愚息は力を封印しているせいで、邪眼も効いてしまうようだが……」
アルセニオは、ノーラの右目を見ないようにしているヴェルナーを一瞥した。
邪眼、愚息、黎の力。
気にかかる言葉はいくつかあったが、今は考察している場合ではない。
「極めて精巧で、純粋な幻影魔術を見た。貴重な機会をくれたことに感謝はするが……優先的に死んでもらおうか、ノーラ・ピルットよ」
標的が切り替わる。
恐怖を見せる以外の幻影魔術を使われれば、アルセニオとしても厄介だ。
「アルセニオッ! 貴様の相手は俺だ!」
「何度言えばわかる。お前では相手にならんのだよ、ヴェルナー」
伸びた黒き波動、一拍遅れて隆起したヴェルナーの足元。
これまで見ることがなかった二段構えの攻撃。
ヴェルナーの反応がわずかに遅れ、石畳を転がって弾き飛ばされる。
すでに体力を削られていたところにあの衝撃だ。
かなりのダメージを受けただろう。
ノーラを守るものは何もなくなった。
胸が激しい痛みを訴え、出血により意識が朦朧として。
眼前の男に殺される一歩手前。
「……テメェは何がしてえんだよ」
しかし心は手折られることなく、ノーラは敵意をぶつけた。
思いのほか気丈な反応が返ってきて、アルセニオは愉快そうに口元を吊り上げる。
「研究だ。実に学園長らしく、学者らしいだろう。私がこのニルフック学園を買い取ったのも、一般に禁忌とされる領域に踏み込むため。もちろん……クラスNを設けたのも、私が知らぬ知識を取り入れるためだとも」
科学の進歩はすべてに勝る。
それがアルセニオが抱える信念だった。
人倫、道徳、規範……そのようなものに人類の進歩を妨げられるなど、心底馬鹿馬鹿しい。
「ノーラ・ピルット。君の力にも最初は興味があったが……ペートルス・ウィガナックと同じ邪器だと知れた以上、もはや研究の価値はない。幻属性の魔術には少しだけ興味はあるが、致し方なし」
「……」
「さらばだ」
もはや言葉を紡ぐ必要はない。
ただその場に立ち尽くすノーラに向けて、アルセニオは黒い波動を伸ばした。