窮鼠猫を嚙む
「わっかんねー」
ノーラは無造作にペンを放り投げた。
課題に向き合うこと三時間ほど。
進捗はあまりよろしくない。
勉強でわからない箇所があれば、バレンシアやコルラード、エルメンヒルデあたりに甘えていたツケが回ってきた。
こうして周囲に頼れる人がいないと、課題が恐ろしく高い壁となって立ちはだかる。
「さすがに空白が多すぎるような……わたしってこんなにアホだったのか」
いま明らかになった衝撃の事実。
二年生ではもう少し真面目に勉強に向き合おう。
……ということで、手詰まりだ。
しかし課題を早く終わらせなければ、初回講義に間に合わない。
どうにかしなければ。
「お腹空いた……」
腹の虫が鳴る。
そろそろ栄養を摂取しないと、頭が回らない。
冬季休暇中も働く職員や生徒のために、食堂の門は開かれている。
あまり一人で行動するなと言われたが、食堂までの短い道ならば大丈夫だろう。
暗殺されるよりも、まずは餓死する展開を避けなければ。
ノーラは力ない足取りで食堂へ向かった。
「ごちそうさまでした」
がらんとした食堂の中、ノーラは食後の礼を済ませる。
いつもは人で満ちている場所なのに、今は三名の生徒と一人の職員がいるだけ。
これもまた新鮮味があっていい。
さて、腹ごしらえを済ませたところで。
課題をどうやって片づけるかの問題を考えよう。
「図書館に参考書を探しに行こうか……」
空いた食器を見つめながら考え込んでいると、頭上から声が降り注ぐ。
「ノーラ」
視線を上げると、そこには気品に満ちた令嬢が佇んでいた。
生徒会副会長、エンカルナ・サーマ・アイマヴェ。
文化祭をきっかけに知り合った相手だ。
ノーラは慌てて立ち上がって礼をした。
「エンカルナ様! ごきげんよう」
「ごきげんよう。お久しぶりね」
「はい……エンカルナ様も帰省されていないんですか?」
「冬休み明け、舞踏会があるでしょう? 生徒会はその準備に追われているのよ」
ニルフック学園の舞踏会は年に二回開催される。
夏に行われた舞踏会ではヴェルナーと踊り、その後フリッツと色々あって……半年前のことなのに、ずいぶんと昔のことのように思われる。
「そういえば舞踏会が近いんですね。わたしも準備をしないと」
今回もまたヴェルナーとやり過ごすことになりそうだ。
問題は彼が卒業した後、誰と踊るかだが。
そこは逐次考えていけばいいだろう。
ダンスの復習と、ドレスの手配もしておかなくては。
「私に、セリノに、ガスパル……殿下を除く三名は、今年度で卒業になるわ。最後の舞踏会くらい、立派な催しにしたいわね」
「あっ、そうですよね。原則として生徒会の人は三年生が務めることになっていますから……みなさん卒業されてしまうんですよね。なんだか寂しいです」
「まあ、学園を卒業しても縁が切れることはないけれど。ひとつの節目といったところかしら」
どこか寂し気にエンカルナは笑った。
しかし彼女はすぐに凛とした表情に戻る。
「ノーラはどうして学園にいるの?」
「あの、課題をですね……溜め込んでいまして。どうにか終わらせようと四苦八苦していたところでございます」
呆れを孕んだため息を吐くエンカルナ。
優等生の彼女からすれば、課題を溜め込むなど言語道断なのだろう。
「ちゃんと終わりそうなの?」
「いえ……わからない箇所が多すぎるので、詰みかけております」
「まったく……図書館よ」
「へ?」
「図書館で待ってるから。課題を持ってきなさい。仮にも文化祭で歌姫を務めた人間が、課題未提出なんて恥をかくわけにはいかないでしょう?」
なんという優しさか。
ノーラはエンカルナの温かさが心に染みるとともに、申し訳なさを感じてしまった。
「でも舞踏会の準備で忙しいんですよね? 貴重なお時間をいただくわけには……」
「今日の仕事はすべて終わらせた。課題も仕事も、手際よく終わらせないとね」
「わぁ……! ありがとうございます!」
深々と頭を下げる。
本当にエンカルナは面倒見が良い先輩だ。
生徒会役員に選抜されるのも納得である。
「す、すぐに図書館に向かいますね! 課題取ってきます!」
◇◇◇◇
学園の正門付近に、ひとつの古めかしい道場があった。
剣術サロン。
ヴェルナーが長を務める集団が、日夜鍛錬に明け暮れる施設である。
年始の冬季休暇にも拘わらず、道場には十人ほど生徒の姿があった。
剣術サロンに所属する生徒たちが一人も欠けることなくここにいる。
「……」
緊張感が張り詰めている。
剣術サロンは今、大願を前にしていた。
学園長――アラリル侯爵アルセニオを打倒するという大願を。
ヴェルナーは緊張する生徒たちの前に立ち、彼にしては珍しく声を張り上げた。
「これより、我ら剣術サロンはアルセニオに挑む。覚悟なき者は去れ。覚悟ある者は俺に続け」
「何を言いますか、ヴェルナーさん! 俺たちは元よりアルセニオに復讐を誓い、執念だけを糧に生きてきた身……いまさら臆することはありません!」
「そうだ! 俺たちが磨き上げてきた力……ここで奴に証明してみせる!」
サロンの生徒たちは勇んで気勢を上げる。
ヴェルナーが抱く力への執着は、しかと門下生にも引き継がれていた。
彼らが学園長に憎悪を抱く理由は様々だ。
親族を殺された者、故郷を潰された者、政略により身分を失った者。
学園長が裏で傷つけた人間は数知れず、罪は重く、受ける憎悪は測り知れない。
ヴェルナーもまた同様に。
「俺は……奴に復讐するために生き、この学園に入学した。必ず奴の首を取り、地獄へ導くと。お前たちも……ともに行ってくれるか」
誰もが復讐の光を瞳に宿し、うなずいた。
「一般の生徒、教員には被害が及ばないようにしろ。無辜の人々を傷つけては、俺たちもアルセニオと同じ穴の貉となる。勝負は……一瞬で決める」
ヴェルナーはそっと首飾りを握りしめた。