*******=あしら
悪霊となり幾星霜。
野山に放たれ、人を呪い殺すこと数百年。
荒振神たる私を鎮めたのは、年端もいかぬ幼子だった。
彼女はくすんだ桃色の髪を揺らし、碧色の瞳で私を見上げる。
「…………私の勝ち?」
『蹉跌 尾羽打枯ス
拝跪傾グ 天命之弦』
ゆっくりと、少女の何倍も大きさのある霊体を傅かせた。
悪霊が調伏されれば運命は相手に委ねられる。
私としても癪なところはあった。
まだ生まれて数年の人間ごときに……理性を失っていたとはいえ、鎮められてしまったのだから。
だが、掟は掟。
少女は私の魂に触れると、かすれるような声で言った。
「じゃあ……ここであなたを、消す……ううん」
かすかに震えた指先。
私はたしかに霊体で彼女の震えを感じ取っていた。
「――私の式神になってくれる?」
そのときの衝撃は忘れられない。
この少女は異形の私が、悪霊の私が、怖くないのだろうか。
まともな神職ならば我が凶悪性を感じ取り、躊躇なく祓うはずだ。
生まれてこのかた、ヒトに仕える気など毛頭なかった。
ヒトなどに興味はなく、世俗にも目など向けたことはない。
だが……この人間が気になった。
ヒトも魔も神も変わらぬと、そう断じて生きてきた私が……初めて興味を覚えてしまった。
『了 此依
瞻仰 主命 汝之魂魄』
「よ、よろしくね……!」
差し伸べられた小さな手に、自分の指先を合わせてみた。
先刻まで感じていた苛立ちが不思議と消えていく。
私は今――この少女の式神となったのだ。
照れくさそうにはにかむ少女。
本当に……年相応の幼子だ。
私を調伏するだけの力が、この矮躯のどこに眠っているというのか。
「あっ。……わ、私ね、エルメンヒルデ・レビュティアーベっていうの。えっと、えっと、将来巫女さんになるために修行してるの。あなたのお名前は?」
『無銘』
「お名前、ないの? そっか……うん、野良の悪霊だからか。じゃあ、私がお名前、つけてあげるね……!」
名前に意味はない。
ヒトが個体を識別する上で必要なものだ。
社会に属さぬ私にはそんな代物、必要ないはずだった。
「――あしら」
『……?』
「うん、"あしら"だよ。あなたのお名前……嫌だったかな?」
『否 我霊名ヲ牢記
……あしら』
己に命じられた名を反芻すると、エルメンヒルデと名乗った少女は瞳を輝かせた。
「じ、実は私ね……式神さんを使役するの初めてなの。だから、一緒にがんばろうね、あしら!」
『……』
特に言葉を返すこともなく首肯した。
使役者は言葉を交わさずとも、式神の意を汲むことができる。
私が人間に伝わらないはずの言語を零しているのも、ただの自己満足と思考の整理に過ぎない。
かくして私はエルメンヒルデの式神となった。
◇◇◇◇
「意識が乱れていますよ。エルメンヒルデ」
「……申し訳ございません、お母様」
瞑想の最中、かすかにエルメンヒルデの意識が揺らいだ。
その様子を見たアナト辺境伯夫人……エルメンヒルデの母は、厳しく叱責を飛ばす。
巫女修行。
アナト辺境伯家は代々、シュログリ教に仕える神職の家系だという。
そのため幼少期から厳しい教育を叩き込まれる。
私はエルメンヒルデの修行を傍観していて首を傾げた。
人の子に与えるにしては、ずいぶんと厳格な修行だ。
これが巫女修行というものなのだろうか。
「あなたは次代の巫女長となるのです。この程度の修行もできず、何が巫女ですか。恥を知りなさい」
「申し訳ございません。より精進いたします」
我が主、エルメンヒルデの肉体は疲労に満ちている。
私が式神だから気づけているのではない。
普通の人間が見ても、彼女は疲労で満身創痍だった。
出会ったときからずっと。
「今日はもう結構。反省し、翌日の修行に身を入れなさい」
「承知しました」
従順に母の命に従い、エルメンヒルデはその場を後にする。
すぐに私も後を追おうかと思ったが、修行の様子を見ていたエルメンヒルデの父……アナト辺境伯がこちらへ向かってくるのを見て、主を追う足を止めた。
辺境伯は去りゆく娘の姿を見て、小さく嘆息した。
「困ったものだな。あの様子では次代の巫女長など任せられんぞ」
「……あなたはご心配なさらないで。私が厳しく教育いたします。斜陽のシュログリ教を救うことこそ、アナト辺境伯家に定められた宿運でしょう」
「ふむ……先々代の巫女長エウフェミアが去って以来、シュログリ教は信用を落としつつある。当代巫女長のフィロメナはまるで頼りにならん。聖下からも優秀な巫女の育成を急ぐように申しつけられているからな……」
話を聞く限り、シュログリ教は危機的状況にあるらしい。
理由はよく解せないが……優秀な巫女を求めていることは確かだった。
私は夫妻のもとを離れ、エルメンヒルデの後を追った。
エルメンヒルデの私室に戻る。
彼女は寝台に横たわり、力なく天井を見つめていた。
私の入室に気づいたのか、天井へ向けられていた瞳がこちらへ向けられる。
「あしら」
『窺知 疲労困憊 須得静養』
「休んだ方がいいって? いま休んでるよ。……でも、不安で寝られないんだ。こんな調子で私が巫女長を……口寄せ巫女を継げるのかなって」
疲れない体が欲しいな、とエルメンヒルデは嘆息した。
それほどまでに巫女という仕事は肝要なものだろうか。
私には人間社会の仕組みはわからないが……。
『猜疑 口寄為者 不然可大事』
「何言ってるの……? 口寄せ巫女はね、すごく大事な役職なんだよ? だって、『神様の代理人』だから。この身に焔神様を降ろして、人を導いていただく。生半可な体に降ろしたら失礼だし、神様の代理人ならなんでもできなきゃいけない。だって神様は万能だから」
だからエルメンヒルデは万能な人間を目指している。
求められたこと、求められないこと、すべてができるように。
すべてのヒトを救い、希望を見せられるように。
幸か不幸か、彼女の意志は両親の方針と合致していた。
ゆえに母の厳しい修行に対しても、エルメンヒルデは文句ひとつ垂れることはない。
それが当然のことだと思っているから。
「明日も早いのに寝れないよ。どうしよう……ね、あしら。私のお話し相手になってよ」
『了 欠礼訥弁』
私はエルメンヒルデの枕元に足を運んだ。
窓から漏れ出る月光が照らす我が体躯を、彼女の指先がなぞり……そのまますり抜ける。
実体を持たぬ私は誰にも触れられず、主以外には視認されない。
「私、あしらのことなんにも知らないや。何が好きなの? 今まで何して過ごしていたの?」
好きなもの、今までの生き方。
そんなものは態々しく覚えていない。
ヒトはとかく個体ごとに識別する性質を見つけたがる。
個性、性格、特技……そんなくだらないものの数々を。
だが、何か答えてやらねば。
私は己が性質を鑑み、返答を絞り出した。
『――絡繰』
「からくり?」
『固有権能 即絡繰創製』
悪霊となる前のこと。
私はひっそりと山の千尋に入り、絡繰と呼ばれるものを作っていた。
ときにはそれをヒトに分け与え、恵んでやることもあった。
手元に魔力と神気とを搔き集め、形成する。
折り重なる機構。
ヒトの手では届かぬ神秘の叡智。
即席で小さな絡繰を作ってみた。
手のひらに収まる大きさの狗型の人形は、私の意に伴って自在に動き回る。
「わ……す、すごい! これ、魔法人形とは違うの?」
『不独魔力 神気混淆
以神気律動歯車 且魔力扼ス鋼糸』
「へぇ……魔力人形と違って神気でも動かしてるんだ。式神だもんね。一瞬でこんなのが作れるなんて、すごいね、あしら!」
エルメンヒルデは私の権能を褒め称えるが。
これは生まれながらに、当然のごとく備わっていた力。
ヒトにして喩えれば、心臓を動かせることを褒められているようなものだろう。
人間が魔力を使って魔法を使えるように、私は魔力と神気を用いて絡繰を生み出す。
なんら誇るようなものではない。
「もっとあしらのこと、知りたいな。お話ししてよ」
『……』
困った。
己に関心を向けたことも、己について分析したこともない。
話せと言われても、話し方がわからなかった。
私の困惑を感じ取ったのか、エルメンヒルデは眉を八の字に曲げた。
「そ、そっか……じゃあ、私のことをお話しするね。でも……私は特に、話せることはないかも。今まであしらが見てきたことが全部だよ」
エルメンヒルデに仕えてから今日に至るまで。
私が見てきた彼女の姿は常に『万能』を目指そうとするものだった。
やがてなりゆく神の代理人として、瑕疵なくあろうとするだけ。
そこに個性や性格の類を見出したことはない。
『問 何為 志向無疵之巫』
「どうして完璧を目指すのか……って? そんなの簡単だよ」
一切の迷いなく。
それが正しいと断じて疑わず。
彼女は瞳を煌々と輝かせて言った。
「『神様ならそうする』からだよ。神様は間違えない、絶対に人を救うことができるの。神様の代理なら、万能を目指さないとね」