隣合わせの死線
夜にもかかわらず、神殿周辺は明るい。
煌々と輝く燭台の炎が絶えず燃えている。
ノーラは巫女に先導され、神殿と宮殿をつなぐ回廊を歩いていた。
後ろには足音ひとつ立てずに歩く式神の姿もある。
巫女は先を往きつつ、ノーラに尋ねた。
「何か不都合はございませんか? 神殿に滞在するにあたり、要望があれば遠慮なくお申し付けください」
「いえ、特に不満は。お気遣いいただきありがとうございます。そういえば……今日は一度もエルンの姿を見ていないのですが、彼女はいま何を?」
「巫女長は明日の神楽に備え、明日の夜まで瞑想されています。清水にその身を浸し、一睡もすることなく祝詞を奏上なされる。厳しい試練を耐えられた果てに、その身に主を降ろされるです」
聞いただけでも肝が冷える。
宗教の伝統的な儀式とはいえ、そこまで厳しい儀式をするとは。
ノーラだったら一時間と経たずに音を上げる自信がある。
「た、大変そうっすね……シュログリ教の巫女さんにとっては当たり前なんでしょうけど」
ノーラが呟くと、巫女は神妙な声色で答えた。
「いえ、私どもは神楽はおろか、前日の儀式にも耐えられません。比類なき精神力あればこそ、エルメンヒルデ様は巫女長として認められているのでしょう」
人とは一見してわからないものだ。
フリッツやマインラートが見えぬ鎖に縛られていたように。
あの朗らかなエルメンヒルデでさえ、シュログリ教では厳格な禊に耐えている。
自分は何か誇れるような、隠された長所があるだろうか。
ただ素行や言葉づかいが悪く、右目に呪いを持っているだけの女。
……そう考えるとなんだか虚しくなってきた。
ノーラが俯いた、その瞬間。
背後の式神が動いた。
「失敬」
ノーラと巫女の前に出た式神。
展開された魔力障壁、響く鈍い音。
この一幕を前に、ノーラは瞬時に悟ることができた。
もはや慣れたものだ。
「あ、これ刺客ですよね?」
「ご明察。どうやら慣れたご様子で。お二人は私の後ろに下がっていてください」
刺客に命を狙われた経験は初めてではない。
免疫がついたとまでは言わないが、狼狽えはしない。
事前に兆候もあったのだ。
エルメンヒルデが式神なんかを派遣してきたことも、ノーラの警戒心を高めている要因のひとつだった。
動揺する巫女をそっと抱き寄せ、ノーラは明るい夜闇に視線をめぐらせる。
右、左と不規則に銀色の矢が飛来。
式神はすべての矢を的確に防御し、払い落としていく。
「数は一人。手練れですね」
幸いにも神殿内は明るい。
すさまじい速度で動き回る刺客だが、ノーラもかろうじて視界に収めることができていた。
攻撃はすべて式神に防がれると判断したのか、やがて遠方からの投擲は止む。
刺客は堂々とノーラたちの前に出て、刃を構えた。
顔も体も、全身を黒装束で包んだ男だ。
「…………」
「いかにして神殿へ潜りこんだのか。狙いはなんなのか。尋ねたいことは山ほどありますが……」
式神は刺客へ向けて手をかざした。
爆風と魔力とが駆ける。
「ノーラ様をお守りするのが主人の命ゆえ。退いていただこう」
地中から顔を出した木の根が、一息に刺客へと襲いかかる。
刺客は咄嗟に飛び退くが、さらに追撃が仕掛けられる。
とめどなく己を襲う攻撃に、彼はマスクの下の顔を苦渋に歪めた。
――想定外だ。
本来なら一撃でノーラを仕留め、逃走する手筈だったというのに。
「……致し方なし」
呟き、刺客は踵を返す。
作戦変更だ。
疾走していく刺客の背を眺め、ノーラは目を丸くした。
「えっ、逃げたんすか?」
「……賢明な判断と言えるでしょう。あの刺客も手練れには違いありませんが、私には一歩及ばず。単独で仕掛けてきたのが間違いでしたね」
なんだか拍子抜けだ。
学園で襲ってきた刺客は、意地でもノーラを殺そうとしてきたのに。
それほどまでに式神が強大なのか、あるいは……。
ノーラが考えをめぐらせた瞬間、遠方でくぐもった音が響いた。
震源は遥か前方、神殿の方向。
何事かと顔を上げると、長い回廊の先が燃えていた。
神殿と宮殿とをつなぐ石門が崩落し、また神殿の木製の家屋が赫々と燃えている。
「いえ……逃げたのではなく、別の作戦に切り替えただけのようですね。あの刺客が石門を崩落させ、神殿に火を放ったようです」
式神の一言に衝撃が走る。
たしかに、あちらは刺客が走っていった方角だが……意味がわからない。
「逃走するための時間を稼ぐため、ってことですか?」
「どうでしょう。端からこちらは追うつもりはありませんでした」
燃える神殿を見て、ノーラの隣で震えていた巫女が立ち上がる。
彼女は血の気が引いた顔色で、神殿のそばの燃える建物を見た。
「なんということを……」
「え、えっと……巫女さん、どうしましょうか?」
「私は神殿の状況と、教皇様の様子を確認して参ります。ノーラ様はいったん部屋へ戻り、そちらの式神のそばを離れないよう、お願い申し上げます」
「わかりました。えっと、一人で大丈夫ですか?」
「私のことはお気になさらず」
もはや誰かと面会どころの話ではない。
早急に神殿内の人々の安全を確保し、消火する必要がある。
巫女は血相を変えて駆け出して行った。
刺客の狙いがノーラだったとはいえ、一緒にいた巫女が単独で行動するのは心配になる。
後ろ髪を引かれる思いでノーラは踵を返した。
「またわたしのせいで、他の人にご迷惑を……」
自分がここに来なければ、こんなことには。
暗殺を嗾けた人間が悪いのは自明だが、それでも自分が引き金になっていることは否めないのだ。
肩を落として歩くノーラに、式神は抑揚のない声で尋ねた。
「ヒトとは迷惑をかけ合って生きるもの、と主人は言っていましたが。違うのですか?」
「ああいや、そうなんですけど。わたしの場合は迷惑のかけすぎというか。……てかエルン、そんな金言じみたこと言ってんだ」
たまの迷惑をかけたとしても、自分が支える側に回れるのならいい。
だが、ノーラには他人を支えるほどの力や権力はないのだ。
だから極力、迷惑はかけたくない。
「エルンの瞑想の邪魔になってないといいなぁ。……と、とりあえずこの件はペートルス様に報告しないと」