焔の聖地
冷たい風が教皇領の大地を包み込んでいた。
薄紫色の山々を包む霧。
葉を落とした樹の上では、野生の鳥たちが寒さをしのぐために羽を寄り添わせている。
「ようやく教皇領に到着だ。長かったね」
ペートルスは車窓を眺めて呟いた。
彼の隣で眠りこけていたマインラートが大きく伸びをする。
「はぁ……帝都や学園の方と比べたら温かいが、それでも冬は冷えるな」
シュログリ教の大神殿に続く広小路では、霜に覆われた草花が静かに揺れていた。
夕暮れ時、太陽がまだ沈みきらず、家々の煙突からは温かな煙が立ち昇る。
その煙が寒々しい空に混ざると、遠方が淡い銀色に輝いて見えた。
そして彼方に見える、とてつもなく巨大な神殿。
シュログリ教の総本山……アニアラ大神殿である。
年末の祭事が近いからか、多くの馬車が道を行き来しているようだった。
ノーラたちの馬車もまたその中に混じって神殿へ向かう。
彼らの頭上を、一枚の白い形代が飛んで行った。
◇◇◇◇
アニアラ大神殿、儀典室にて。
シュログリ教巫女長、エルメンヒルデ・レビュティアーベはゆっくりと瞼を持ち上げた。
彼女の碧の双眸は何をも見据えず、虚空へと向けられている。
手元に舞い降り、朽ちた形代。
エルメンヒルデは最奥に鎮座する老人に、静かに語りかけた。
「……教皇聖下。件の者がいらしたようです」
シュログリ教皇、エウスタシオ7世。
彼はエルメンヒルデの報告を受け、目元に皺を寄せて笑う。
「奇怪なものですね。旧巫女長は自らここを離れたというのに……悪魔の仕業でしょうか?」
教皇の問いにエルメンヒルデは言葉を返さず、顔色ひとつ変えない。
見つめているのは目前の教皇でも、手元で朽ちた形代でもなく。
遥か先にまみえる未来に他ならないのだ。
「神使の身代に末席を連ねる者として、必ずや。エレオノーラ・アイラリティル様をお迎えいたします」
「ええ……期待せずにお待ちしていますよ、巫女長。神はどうせ何をしようとお許しになりますからね」
にこやかに微笑む教皇を背に、エルメンヒルデは儀典室を後にした。
◇◇◇◇
大神殿に入ったクラスNの一行。
中に入って早々、フリッツは上着を脱いだ。
「かなり室温が高いですね……」
「シュログリ教の神殿は大体暑いよ。焔神を主神とするだけあって、そこかしこに大きな燭台が置かれているからね」
熱気の原因は燭台に灯る炎だけではなさそうだ。
年末の祭事が近づき、人で溢れかえっているのも暑さの要因だろう。
ノーラは活気に満ちた神殿をぐるりと見渡す。
「えっと……それで、わたしたちはどこへ向かえば?」
人が多すぎて迷ってしまいそうだ。
今のところ迷子になっている人は……
「あれ? マインラート様は?」
そういえば一人足りない。
欠員に気がついたノーラの疑問に、ペートルスが答える。
彼は人ごみの向こうを指さして苦笑いした。
「彼ならあそこで巫女さんを口説いてるよ」
「あ、そうすか。放っておきましょう」
平常運転である。
しかし、マインラートが口説くのは貴族だけ。
あの巫女が貴族という確証はないが……雰囲気や所作でわかったりするのだろうか。
「みんなー!」
そのとき、朗らかな声が響いた。
普段の学生服とは違う、緋色の巫女服を着たエルメンヒルデがやってくる。
彼女は満面の笑みでノーラの手を取った。
「遠路はるばるおつかれさまー。疲れたでしょ?」
「あのさ、エルン。来てくれて早々申し訳ないんだけどさ、マインラート様が巫女さん口説いてるみたい」
「えっ……うわぁ。ちょっと成敗してくるね」
口説かれて困惑している巫女からマインラートを引きはがし、エルメンヒルデが戻ってくる。
マインラートはヘラヘラ笑いながら謝っていた。
「ごめんごめん。つい浮かれちまってさ。でも、エルメンヒルデちゃんの方があの巫女さんよりかわいいと……っ」
唐突にマインラートの言葉が遮られた。
彼は口をパクパクさせて、声が出ないことに対して驚いた表情を見せる。
ペートルスの力によってマインラートだけ音が遮断されたのだ。
「彼の口は僕が塞いでおくよ。ご迷惑をおかけして申し訳ない、レディ・エルメンヒルデ」
「ありがとうございまーす。じゃ、みんなをお部屋に案内するよ。エルンについてきてね」
エルメンヒルデに先導され、面々は神殿の奥へ進む。
一般の参拝者は立ち入れない区間の先へ。
事前に聞いていた話だと、年末まで寝泊りする場所を用意してくれるとのこと。
大神殿の裏側へと回り込む。
フリッツは興味深そうに各所を観察していた。
「アニアラ大神殿の奥まで入り込めるとは……かなり貴重な機会ですね。神楽を特等席で見られるのも、またとない経験。レビュティアーベ嬢には感謝しなければなりませんね」
「うんうん、そうでしょう? 一生に一回の機会かもしれないので、じっくり楽しんでいってくださいね!」
そんなに珍しいものなのか……とノーラは目を瞬かせた。
冷静に考えるとシュログリ教巫女長のエルメンヒルデは、周りの令息に負けず劣らずの権力者なのでは?
今までけっこう彼女を軽んじていた気がする。
巫女長という肩書きに埋もれがちだが、辺境伯の令嬢でもあるし。
大神殿の裏にある離宮のような場所に連れられる。
荘厳で静謐な雰囲気、独特な意匠はシュログリ教の伝統建築だ。
「先輩のみなさん、すごく高貴な人たちだし……できるだけ豪華な部屋を用意したんですけどねぇ。お気に召さなかったらすみません!」
「いや、場所を用意していただいただけでもありがたい。神楽まで数日間、迷惑をかけないように過ごさせてもらうよ。わかったかい、マインラート?」
ペートルスがパチンと指を鳴らすと、マインラートの箝口が解かれる。
「ッ……はぁ。わかったって、ペー様。わかったから俺の言葉を封じるのだけは勘弁してくれ」
マインラートからしたら、何も話せないのは死活問題である。
彼の強力な武器のひとつである『言葉』を封じられるのだから。
ペートルスもそこを理解していて、あえて彼を黙らせたのだろう。
エルメンヒルデは宮殿の中ほどまで差しかかったところで、廊下に控えていた巫女を指し示した。
「先輩たちは、そこの巫女に部屋を案内してもらってください。ノーラちゃんは女の子だからこっち。エルンの近くの部屋だよー」
「承知した。ノーラ、レディ・エルメンヒルデ。また後でね」
四人の先輩たちはノーラと別の方向へ歩いていく。
「わたしは別に高貴な身分じゃないし、個室まで用意してもらわなくて良かったのに。そこら辺で雑魚寝でも構わなかったよ」
「あははっ。神殿の奥の方は関係者以外立ち入り禁止だし、廊下で寝てもらってもいいけどさ。せっかくお部屋を用意したんだから使ってよ」
案内された先は、話通りに豪華な一室だった。
ルートラ公爵家の私室ほどではないものの、また異なる趣向の気品に満ちている。
木製の床壁と家具、心地よい気分になるお香。
ノーラは割り当てられた部屋を見渡し、感嘆の声を上げた。
「うおぉ……すげぇ。でも、こんなに木製まみれだと、燭台とか倒して火事になりそうで怖いな」
「そこは大丈夫! シュログリ教秘伝の聖なる火だからねぇ。延焼しない特別なものなんだ」
「マジか。延焼しないと言っても、火を直に触ったらさすがに熱いよね?」
「そんな罰当たりなことしたら追い出すよー。出禁だよー」
「はい、気をつけます……」
何もかもが新鮮な部屋づくりだ。
同じグラン帝国内でも、生活圏が違うだけでこうも変わるのか。
国土が広大なだけはある。
エルメンヒルデは部屋の外、斜向かいの部屋を指さした。
「エルンの部屋はあそこ。なんか困ったことあったら来てね。まあ、神楽の前は忙しくてほとんど部屋にいないけど。このあとも祭事の準備だし……疲れた疲れた疲れた」
「うい。がんばれー。わたしも手伝えることがあったら手伝うからさ」
「ありがとー。じゃ、またねぇ」
ひらひらと手を振ってエルメンヒルデは去っていく。
今度マッサージでもしてやろうかな……などとノーラは彼女の背を見つめて考えた。