水面下の攻防
長くテモックの背に揺られ、二人がニルフック学園へ帰還したのは夕時だった。
地面の紅葉を踏みしめ、ノーラは祖国への帰還を実感する。
たった一日だけなのに長旅を終えたような気分。
「長い間おつかれさま。ずっとテモックに乗っていたけど、体は痛くない?」
「大丈夫です。すてきな旅でした……ありがとうございます、ペートルス様」
「お礼を言いたいのはこちらだよ。僕にかけがえのない時間をくれてありがとう」
これがノーラとゆっくり過ごせる、最後の時間になるかもしれない。
そう思ってペートルスは少し寂しくなった。
卒業は間近、あと半年もない。
寮への道に差しかかったころ、ノーラは聞き覚えのある声に顔を上げた。
前から一組の男女が話しながら歩いてきている。
しかも、かなり意外な組み合わせだ。
彼らもノーラとペートルスに気づいたのか、会話を止めて視線を向けた。
「ノーラ!」
「バレンシア……おはよう、じゃないか。こんばんは」
バレンシアは急いでノーラに駆け寄り、彼女の手を取った。
「なんの連絡もせずに欠席するから心配したのよ!? しかも部屋に行ってもいないし……誘拐されたかと思ったじゃない」
「ご、ごめん……」
当然の反応だ。
無断欠席まではまだいい。
しかし寮の部屋に行っても姿が見当たらないとなると、誘拐を疑われてもおかしくないのだ。
仮にもここは貴族の子女ばかりが通う学園なのだから。
隣のペートルスがノーラを庇うように謝罪する。
「申し訳ない、レディ・バレンシア。ノーラには僕の頼みで同行してもらっていたんだ。心労をかけてしまったね」
「い、いえ……ルートラ公爵令息がそうおっしゃられるのであれば」
あとで先生にも謝りに行こう。
ノーラがそんなことを考えていると、バレンシアと並んで話していた男……マインラートが沈黙を破った。
「ペー様。ちょっと話がある」
「ああ、承知している。……そういうわけで、ノーラ。失礼するよ」
「は、はい。お気をつけて」
「バレンシア嬢、またな」
「……ええ、ごきげんよう」
互いに別れを告げ、別の方角へ向かっていく。
ペートルスと別れてすぐ、ノーラは気になっていたことを質問した。
「ねえ、バレンシア。マインラート様と何を話してたの? バレンシアとマインラート様が知り合いなんて意外だったんだけど……」
「帝国の名家同士、面識くらいはあるわよ。お互いの家が皇帝派に属しているし……話しておきたいことも山ほどね」
「そ、そうなんだ……ナンパとかされてないよね?」
「ふふっ、一回は口説かれたけれど。あの方のナンパはすべて冗談だってわかってるもの。戯言だと思って聞き流すのが筋よ」
マインラートのことをよくわかっている。
帝国の上流貴族の間では、彼のナンパは適当にあしらうのが常識なのかもしれない。
「ノーラこそ、ルートラ公爵令息と何を?」
「え、ええっと……なんというか、思い出作り? みたいな?」
言葉を濁さざるを得ない。
今回の旅はペートルスの本質に触れるものだった。
易々と情報を開示するわけにはいかない。
「そう……もうすぐ卒業だものね。思い出はたくさん作っておくべきだわ」
バレンシアは頭上に広がる紅葉を眺めて呟いた。
夏休みが終わったと思ったら、すぐに秋が過ぎ去り。
まもなく冬が訪れようとしている。
「卒業、か……」
わたしは卒業したらどうするのだろう。
それまでに呪いは解けているだろうか。
いまだ見えぬ未来に、ノーラは小さく息を吐いた。
◇◇◇◇
「……」
イアリズ伯爵からの書簡に目を通し、ランドルフは険しい表情を見せた。
そんな彼を傍から眺め、ヘルミーネは頬をつつく。
「ねえ、ランドルフ様。そんな変な顔してどうしたの?」
「変な顔で悪かったな。進捗がないことに少し焦りを感じただけだ」
イアリズ伯爵夫人、トマサの悪行について。
邪法という悪しき業を使っていることが判明し、ノーラの暗殺を企てた犯人もトマサではないか……と仮説が立てられたのだが。
暗殺に関しては、まだ証拠が掴めそうにない。
書簡にはイアリズ伯爵が監視の目を光らせていること、邪法とやらについて調べさせていることが書かれていた。
「邪法? っていうのの使用が犯罪になるわけでしょう? もうそれで告発しちゃえばいいじゃない!」
「いや、駄目だな。暗殺の一件を精査しなければ、協力者に逃げられてしまう可能性がある。お義母様が邪法を使う理由が不明な以上、安易に手を出してはいけないんだ」
「ふーん……ま、私はどうでもいいけどね。イアリズ伯爵家にいたころと比べて、ずいぶん体調も良くなったし」
ヘルミーネはランドルフの実家、ネドログ伯爵家に避難していた。
トマサの魔手から逃れるため、ランドルフが半ば強引に連れてきたのだ。
当初は泣きわめいて拒絶したヘルミーネだが、今はすっかり受け入れている。
彼女の体調はネドログ伯爵家に避難してから徐々に良好になっていた。
漠然と頭を悩ませていた頭痛が消え、心の底に燻っていた苛立ちが霧散したのだ。
「ヘルミーネは……悲しくないのか? 自分の母が凶行に及んでいた。しかも、その標的が自分だったのだぞ?」
「…………」
あの髪飾りがどのような効力を持っていたのか、詳細は不明だ。
だが服従の邪法によって無意識に操られていたことは、ヘルミーネも聞かされている。
他にも知らないうちに操られていることがあったかもしれない。
「普通にムカつくわね。いくらお母様でも、私を利用しようだなんて許さないんだから」
ヘルミーネの高慢は母親譲り。
だからこそ、母に矛先を向けられれば容赦はしない。
敵は徹底的に排除しろと……しきりに口にしていたのは母自身なのだから。
「ははっ……お前は相変わらず強情だ。だが、迷いがないならば結構。俺とてヘルミーネを傷つけようとしたお義母様を許すことはできん。ひとつ、打って出るとしよう。『真実は管弦に宿りし神が知る』……か」