安息律
夕陽が沈み始める。
暗闇の天上、鈍い光が煌々と輝いている。
帝国から遠く離れた異国でも、砂銀の星は強く輝いて見えた。
荒涼とした岩肌の上にぽつんと立つ赤煉瓦の建物。
ノーラとペートルスはテモックに乗って秘境の宿を訪れていた。
「す、すごく寒いです……!」
「乾燥帯の夜は冷えるね。それに部屋を暖める魔石も備わっていない。そこに毛布があるから、何枚も重ねるんだよ」
もうすぐ砂銀の日は終わる。
明日からは普通の学園生活に戻る……はずだったが、明日はサボることになってしまった。
ペートルス様が言うのだから仕方ない。
ノーラは強引に納得した。
「この宿はね、小さいころに両親と来たんだ。それから両親が亡くなっても……定期的に足を運んでいる。夜空が綺麗に見えるんだ」
ペートルスは窓から夜空を眺めながら語る。
ノーラも毛布にくるまってモゾモゾと足を動かし、窓辺に寄った。
都市部のように明るくないから、夜は煌々と輝く星が見える。
煌めく星を視界に収め、ノーラは目を瞬かせた。
すごく綺麗だ。
「あの、ペートルス様。大変失礼な質問をしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ペートルス様のご両親は、どうして亡くなられたのでしょう」
ずっと気になっていた。
ルートラ公爵家に来たときから、今に至るまで。
使用人たちに聞いても、みな知らぬ存ぜぬ。
ペートルスは昔を懐かしむように語ることがある。
亡き両親の話題を出すとき、彼はいつも虚しそうで。
「どうして……か。殺されたんだよ」
「……それは、つらい話をお聞きしました」
「いいや、つらくないよ。両親が殺されたという事実を、僕は忘れたことがない。記憶に鮮明に刻んでいるからこそ、強い意志を抱き続けることができるから」
人の死が壁になるのではなく、糧になる類の人間だ。
ノーラは少し羨ましく思う。
小さいころ、自分は母が病死したときにふさぎ込んでしまったのに。
彼は強い人間だと再認識した。
「……君の母上のためにも」
「え? いま何かおっしゃいましたか?」
「ううん、なんでもない。辛気臭い話はやめにしよう。そうだ……ノーラ。冷えるけど外に出ない?」
「外……寒いけどなぁ。でも夜空見たいしなぁ。砂漠も見たいなぁ……でも寒いよなぁ」
葛藤。
毛布にくるまってうなる。
やや悩んだ挙句、ノーラはコートを手に取った。
「しゃーないっすね」
「感謝するよ。思い出はできるだけ作っておきたいんだ」
ペートルスは先刻買ったバイオリンを手に取った。
静かに宿を抜け出して宿を出ると……ひんやりとした冷気がノーラの肌に突き刺さる。
ここから南下して砂漠に入れば、もっと寒いのだろう。
「ぐぅ……やっぱり寒いんですが」
「僕が抱きしめて温めようか?」
「い、いえ……お気持ちだけで温まっておきます」
ペートルスに続いて岩肌を歩く。
夜空に煌めく星を眺めながら、吹き抜ける風を浴びながら。
誰もいない秘境の岩山を。
不意にペートルスが立ち止まり、視界が開けた。
彼方まで広がる灰色の世界――砂漠だ。
「誰もいない世界。一切の喧騒がない場所。ここなら僕は……どんな音にも苛まれず、安息を得ることができる」
ペートルスはバイオリンの弓を動かし、音色を奏で始めた。
ゆっくりとした長い音から、次第に短い音へ。
スタッカートを刻み始める。
公爵家の夜、聴いた音色と同じだ。
深奥に籠められた――怒り。
「……あれ、この音色って……」
どこかで聞いたことがあるような。
公爵家に来る前よりも、ずっと前。
幼い日の、どこかで。
ペートルスは一旦バイオリンを弾く手を止めた。
砂漠を見つめながら彼は呟く。
「初めて会ったとき、エレオノーラは綺麗な声で歌っていた」
思い出す。
互いに出逢いを想起していた。
イアリズ伯爵家の木の下で、ノーラは歌っていた。
亡き母に教わった歌を。
見て恐れられるのなら、せめて声だけは美しくあろうと。
「衝撃を受けた。君の歌声に酔いしれた。いつまでも聴いていたいと……心から感動したよ。そして、君の歌に旋律を奏でたいと思った」
ペートルスは再びバイオリンを弾き始める。
「……たしかに、その旋律はわたしの歌に合いそうですね。でも、音色に激情を感じるのは……どうしてでしょう」
「…………」
彼は答えない。
依然として音を奏で続ける。
砂漠の彼方へと響いていく。
旋律への答えは歌。
ノーラは乾いた空気を吸い込み、ペートルスが褒めてくれた歌声を響かせ始めた。
「――♪」
ぴたりと重なり、共鳴し。
どこまでも美しい歌と旋律が響き渡る。
旋律に籠められた激情は次第に和らぎ、安らぎを帯びる。
(……耳鳴りが消えた)
ペートルスはかつてない安息を覚えた。
己を包む音色。
それはまるで、幼き日に感じた両親の抱擁のようで。
彼はいつしか意識を手放していた。
◇◇◇◇
毛布の隙間から入り込む寒気と、瞼の上に降り注ぐ光。
心地よい微睡みから目覚たペートルスは、ゆっくりと身を起こした。
彼は自分のそばに温かい何かがあることに気づき、そちらへ目を向ける。
安らかな寝息を立てるノーラの姿がそこにはあった。
(僕は……)
記憶は昨夜で途切れている。
ノーラの歌を聴きながら演奏していたら、急に意識が途切れたのだ。
かつてないほどの安息に包まれて。
思えば、こんなに寝覚めの良い朝はいつ以来だろう。
ずっと自分の『耳』が感じる音に悩まされ、眠れぬ日ばかりを過ごしてきたから。
「……不思議なものだね」
そばで眠るノーラを見て、ペートルスは彼女の髪をそっと撫でる。
「んぅ……レオカディア様……まだ早いです」
「僕はレオカディアじゃないよ」
瞬間、ノーラは目を大きく開いた。
見上げた先、真紅の眼がこちらを優しく見つめている。
彼女は極限まで取り乱しながら、慌てて身を起こした。
「お、お、おはよう、ございますっ……」
「おはよう、いい朝だね。昨夜のことをあまり覚えていないんだけど……」
昨夜、ペートルスが倒れた後のこと。
ノーラは宿のそばにいたテモックを頼り、ペートルスを運んでもらったのだ。
何度声をかけても起きないので、体調が悪いのではないかと心配になり……そばで過ごしていたらノーラも眠ってしまった。
一連の流れを聞いたペートルスは深々と頭を下げた。
「迷惑をかけてしまったね。僕はもう大丈夫。それどころか、とても清々しい気分なんだ」
「よかったです……どこか体に悪いところでもあるんですか?」
「いや、特には。君の歌を聴いて……あまりにも安らかな気分になってね。それで倒れてしまったみたいだ」
朝の光をいっぱいに浴びてペートルスは伸びをした。
清らかな空気が開けた窓から流れ込む。
ペートルスの晴れやかな横顔を窺うと、ノーラは胸をなで下ろした。
彼があんなに満足そうに笑ってくれるのなら、一緒に来て良かったと思える。
「エレオノーラ」
ノーラの真名を呼び、ペートルスは振り返った。
彼が見せたのは儚い笑み。
「ありがとう。僕の……最後の、大切な人」