大切
二人はさらに北東へ飛び、緑豊かな都市部を訪れた。
人口はグラン帝国の都エティスほどではないものの、とても賑わっている。
「僕はよくこの街に来るんだ。遠い異国だからあまり来れないけれど、たまの息抜きにね」
「へぇ……グラン帝国にいないからこそ肩の荷が下りるとか?」
「ふふ、そうだね。ここでは何もない、ただの『ペートルス』でいられる。君も今は振る舞いを気にせず、ただの『エレオノーラ』でいていいんだよ」
そのままの自分で。
イアリズ伯爵令嬢でも、呪われ姫でもなく。
周囲の目を気にする必要がない……そう考えた瞬間、たしかに胸がすく思いがした。
きっと汚い言葉を吐いても誰にも咎められない。
「よお、黄金の剣士! 久しいな」
街道を歩いていると、大柄な男が話しかけてきた。
背には巨大な剣を担いでおり、粗野が擬人化したような男性だ。
黄金の剣士と呼ばれたペートルスは、不敵な笑みを浮かべて応対する。
「やあ、暴れ熊。悪いけど今日は闘技をしにきたわけじゃないんだ。また今度ね」
「おっ、そうなのか? また『最強』の剣を見せてくれよ!」
「機会があればね。それでは、また」
簡単に言葉を交わして二人は離れていく。
「今の会話、どういうことすか?」
ノーラが尋ねると、ペートルスは遠くに見える建物を指さした。
赤煉瓦で作られた円形の建物だ。
「闘技場で剣闘士として戦っているんだ。僕は小さいころから……その、刺激を求める性格でね」
「はい、ペートルス様は恐怖することが好きな特殊な方です」
「こんなこと、本当なら誰にも言わないんだが……戦うのが好きなんだよ。死線を潜る度に強くなっていく感覚が癖になる。……怖いかな?」
「ううん、怖くないですよ。なんとなくそんな気はしていました。わたしの右目を好んで見るような方ですし、大胆不敵な方なのだろうと」
しかし、社交界で『戦闘が好きです』などと宣うわけにもいかない。
武術の類を嗜みとして修めている貴族はいても、戦闘行為そのものが好きな貴族は野蛮と見なされる。
ペートルスはさぞ窮屈な思いをしてきたことだろう。
「ちなみに『最強』ってさっきの人に言われてましたよね。最強ということは最強ということですか?」
「うん、そういうこと。この街の闘技場の中では最も戦績が良いらしい」
「さすペー」
一度、彼が思いきり暴れている姿を見てみたい。
しかしその機会が訪れることはなさそうだ。
ぼんやりとペートルスの後をついて行くと、不意に彼が振り向いた。
美しい手が差し伸べられる。
「……?」
「手、つないでくれる?」
「うおっ……し、失礼します」
唐突な要求だが、拒みはしない。
今日はノーラの時間をペートルスに貸すという話だし。
帝国にいるときと違って、手をつないでも変な噂を流される心配はない。
手を取ると、冷たい感触がノーラの手に伝った。
「エレオノーラの手は温かいね」
「ペートルス様の手は冷たいです。でも……手が冷たい人ほど、心が温かいって聞きます」
「僕は……ううん、そんなことないよ。決して人に誇れるような心は持っていない」
謙遜なのか、本音なのか。
わからないままノーラは手に少し力を籠めた。
二人は繁華街を進み、数々の露店を見て回る。
「せっかくの砂銀の日だ。君に贈り物をしたいんだが……」
「いらないですよ。ペートルス様とこうして過ごす時間が、わたしにとって何よりの贈り物。……なんて、少し調子に乗りすぎですかね」
本心を述べたが、キザすぎたかもしれない。
思い返して顔を赤くするノーラに、ペートルスは優しく微笑みかける。
「嬉しいよ。僕も同じ気持ちだ。こうして……いつまでも君と一緒にいられたらいいのに」
それはペートルスの切なる願いだった。
叶わないと知っていながらも、彼は未来を夢想する。
ノーラは儚げに瞳を伏すペートルスを見上げた。
「ペートルス様が望むのなら……わたしはいつまでも、あなたのそばにいますよ。こ、こんな品のない女で良ければ……侍女とか、そこらへんでお仕えします」
「はは、そういう意味じゃないんだよ。それに君を侍女にするなんて、お爺様が命じても御免だね」
そうだ、とペートルスは声を上げる。
彼の視線の先には異国情緒あふれる楽器屋が見えた。
「贈り物というわけじゃない。ただ、僕の興味本位であの楽器屋を見に行ってもいいかな?」
「はい。わたしもちょっと興味があります」
歌や楽器は趣味のひとつ。
グラン帝国のみならず、他国の楽器にも興味津々だ。
楽器屋には様々な楽器が並んでいた。
ストリングスを中心に、ピアノやドラムも置いてある。
さすがに大型の楽器は購入できないが、中型の楽器くらいは学園に持って帰れるかもしれない。
ノーラとペートルスは真剣に楽器を眺める。
帝国では見かけることのないものがあって、新鮮な気持ちだ。
「エレオノーラは、魔力で操作する楽器が得意だったよね」
「そうですね。……あんな感じの弦楽器です。お母様の形見なんですよ」
「君の母上……レディ・エウフェミアか。僕も母上からバイオリンを習ったんだ。お揃いだね」
「たまにルートラ公爵家で聞こえてきたバイオリン……ペートルス様の演奏だったんだ」
「眠りの妨げになっていたなら申し訳ない。弾きたくなるときがあるんだ」
ペートルスはバイオリンを手に取った。
帝国産のものとは異なり、使われている木材がローズウッドではなく、スプルースのようだ。
形状もいくぶんかシャープに見える。
テモックの背に乗せて持って帰れるくらいの大きさだ。
「せっかくだから僕はこれを買おうかな。エレオノーラは何か欲しい?」
「いえ。楽器はお母様の形見以外、弾く気にはなれないので……」
「そうか。君の記憶は改ざんされてしまっているらしいが……それでも色褪せない思い出はある。どうか思い出を大切にね」
大切な思い出、大切な人。
それはきっと……いま目の前にいる彼であり、彼とともに過ごす時間。
ノーラを外の世界に連れ出してくれたペートルスこそ、何にも勝る『大切』なのだと。
伝えようとしたが、ノーラは言い出すことができなかった。