飛翔
「――ノーラ。君が欲しい」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
間断のない動揺の果て、意識の空白を乗り越えて。
ようやくノーラは状況を理解できた。
「こ、こ、こ、こ」
「…………」
「告白ってことですか!?」
君が欲しい……とかいう直球すぎる言い方。
そんな言葉が脈略もなく飛び出るなど、まったく想定していなかった。
「はは、びっくりした? 『一日だけ君の時間を貸してほしい』……という意味だよ」
「あ、な、なんですか。告白とかじゃないんですね……びっくりしましたよ。相変らず思わせぶりな態度しやがって」
「それはどうかな? 告白じゃないとも言ってないけど」
どうしてこう翻弄するような言動をしてくるのだろう。
遊ばれているのか、裏の目的があるのか。
ペートルスの内側に入り込もうとした瞬間、この精神攻撃だ。
「わたしの時間なんていくらでもあげますよ。ペートルス様の貴重なお時間に比べれば、無価値みたいなもんですし」
ノーラがそう言うと、ペートルスはどこか寂しそうに笑った。
「それでは……ちょうど砂銀の日は空いているかな?」
「はい、特に予定はございません」
「その一日だけ、君と過ごさせてほしい。……彼らに嫉妬されてしまうかな?」
消え入るような声でペートルスは呟いた。
彼らとは誰のことを指しているのだろうか。
それにしても、ペートルスが欲しいものが『ノーラとの時間』とは……今度は何を企んでいるのやら。
ペートルスと記念日を過ごしたい令嬢は山ほどいるだろう。
ノーラの方がかえって申し訳ない気持ちになってくる。
でも、心のどこかで。
ペートルスと二人で過ごす時間を楽しみにしている自分がいた。
◇◇◇◇
砂銀の日。
学園には浮かれた様子の生徒たちが蔓延っている。
人前でイチャイチャしやがって……とノーラは内心で毒を吐くが。
今回ばかりは自分も人のことを言えたものではない。
学園の一角に、関係者が所有する馬や鳥を飼う厩舎がある。
ノーラはその近くで人目につかないよう、こっそりとペートルスを待っていた。
「こんにちは。待ったかな?」
やってきたペートルスは、顔が見られないようにフードを目深に被っていた。
道を歩けば黄色い声を上げられる彼の苦労がうかがえる。
まさしくお忍びといった感じだ。
「いえ……いま来たところです」
「厩舎からテモックを出してきたよ。さっそく出かけようか」
「はい、本日はよろしくお願いします」
詳細は聞いていない。
ノーラの目的はペートルスへの恩返しなので、彼がしたいようにしてくれればいい。
ペートルスに続いて歩きだそうとした瞬間、彼は何かを思い出したようにくるりと振り返った。
「そうだ、ノーラ。明日の予定は?」
「明日ですか? 明日は……うん、普通に授業がありますね」
「他には?」
「ほ、他には……特にないですよ。どうしたんですか?」
ペートルスが時間を借りたいのは、今日だけだったはずだが。
しかし彼に言われれば明日でも明後日でも、好きなだけ時間を割いても構わない。
「いや……なんでもないよ。行こうか」
「はーい」
再び二人は歩きだす。
厩舎のそばの草原に行くと、そこには白き羽を伸ばしたテモックの姿が。
彼は主のペートルスを見て嬉しそうに喉を鳴らす。
ペートルスは軽くテモックの頭を撫で、ノーラを丁重に背中へ乗せた。
後ろにペートルスが座り、その腕をノーラの前に回す。
「大丈夫? 最初にテモックに乗ったとき、君はすごく怖がっていたけど」
「今は大丈夫です。あの……申し上げにくいんですけどね。ペートルス様と出会ったばかりのころ、テモック様に乗って混乱していたのは、空を飛ぶのが怖かったからじゃないんです。他の人と密着するのが怖くて喚いていたんです」
今となっては情けない話だが。
あのときのノーラは本当に人見知りを極めていた。
もう他人に触れたくらいでは取り乱さない。
後ろから遠慮がちにペートルスが尋ねる。
「今はどう?」
「大丈夫ですよ。安心してテモック様を操縦してください」
「ふふ、そうか。君も強くなったね」
手綱が揺れる。
テモックが静かに翼をはためかせ、空へと飛び上がった。
目指す先は蒼穹。
まだ昼だというのに、空にはノイズのような光が輝いている。
あれこそが砂銀の星。
あの星が最も強く輝く日、大切な人に贈り物をするのだ。
上昇しきって飛空が安定したことを確認し、ノーラは口を開く。
「どちらへ?」
「それは着いてからのお楽しみだ。ただ……このままだと目的地までに時間がかかってしまうね。普段ならテモックを全速力で飛ばせて、短時間で向かうんだけど」
「飛ばしていいっすよ。空の遊覧も悪くないですが、時短でいきましょう」
「了解。目を閉じて、頭を低くしていてくれ」
ノーラは言われるがままの姿勢を取った。
瞬間、テモックが速度を上げて強い風を浴びる。
髪は文化祭の時と同じように側頭部でまとめているので、そこまで乱れることはない。
どんどんニルフック学園が遠ざかっていく。
方角的には東へと向かっているようだ。
学園が位置するアラリル侯爵領を越え、その東にあるルートラ公爵領へ。
まだまだテモックは全力で飛び続ける。
次第に見えてきたのは……広大な青。
俗に海と呼ばれる、ノーラが見たことのない景色だった。
「あの、ペートルス様……」
「どうかした?」
「えっと、わたしの記憶によるとですね。東の海峡を越えると、そこはもう帝国の外だった気がするんですけど」
「ああ。これから向かうのは……隣の大陸だよ」
ペートルスは飄々ととんでもないことを言ってのけた。