微睡みと現実
深く、深く。
エレオノーラの意識は沈んでいた。
『おかあさまっ!』
今の彼女は"小さい"。
屋敷のドアノブにも手が届かないほど、背丈は小さく……そして世界が広大に見えていた。
花々が咲くイアリズ伯爵家の庭園を走り、エレオノーラの先に待つのは。
『あら、エレオノーラ。ドレスが土で汚れちゃってるじゃない? そんなに急いでどうしたの?』
土で汚れたエレオノーラを優しく抱擁した女性。
エレオノーラの実母だった。
母は柔らかい青髪を撫で、愛娘の頬についた土埃を払った。
『あのね。庭にへんなのがいたんだよ』
『へんなの?』
『これ! きれい!』
エレオノーラは小さな手を開き、母にソレを見せた。
手のひらの上で煌めく七色の光。
その光を見た瞬間、母の目元が少し緩む。
『まぁ……綺麗ね! エレオノーラにも光が見えるの?』
『うん! キラキラしてる、虹みたい!』
『ふふ……そうね。この綺麗な光はね、特別な人にしか見えないのよ』
『とくべつ……わたしがとくべつなの?』
小首をかしげたエレオノーラを、母は優しく抱きしめる。
この抱擁が幼い彼女には心地よかった。
『ええ。あなたは誰よりも特別よ。だって、私の娘だもの』
『うん、わたしも……おかあさまがとくべつだよ!』
エレオノーラは笑って母を抱き返そうとする。
しかし、もう母の姿はそこになかった。
◇◇◇◇
微睡みから解放されたエレオノーラ。
真っ先に彼女の視界に飛び込んだのは、白亜の天井だった。
いつも覚醒した瞬間に見える、ボロボロの木製の天井ではない。
「……はれぇ?」
どうして自分がここにいるのか。
何の夢を見ていたのだったか。
毒から回復しつつある重い身体を起こし、ぐるりと周囲を見渡した。
自分は天蓋つきのふかふかベッドに寝ていて、この部屋はすごく広い。
厚く赤い絨毯が広がり、一つひとつの家具に豪華な装飾が施されている。
「あ、そういえば」
思い出した。
ペートルスの家に入った瞬間、謎の大男に迫られてエレオノーラは失神したのだ。
人を見て失神するなど無礼が過ぎる。
エレオノーラが呪いのせいで実際にそういう反応をされてきたので、どれだけ無礼なことかは身に染みて理解していた。
寝起きから青ざめたエレオノーラは、するするとベッドから降りる。
枕元に置いてあった眼帯も忘れずにつけて。
とりあえず、おはようございますの報告と、失神してごめんなさいの謝罪をしなくては。
静かに部屋のドアを開ける。
左右には長い長い廊下が伸びていて、各所に謎の絵画や花瓶が飾ってある。
使用人の姿もなく、どこへ行けばいいのやら。
こういうときは呼び鈴を鳴らして使用人を呼ぶのが常だが、あいにく彼女は貴族の習性を理解していなかった。
「適当に歩くか」
そのうち誰かと会えるだろう。
そう考え、エレオノーラは静かに廊下を歩き始めた。
「誰もいねえや」
だが、この城は広すぎた。
しかもエレオノーラは気づいていないが……彼女が歩いて向かっている先は、一般の使用人が立ち入らない離宮だ。
廊下がやがて開け、城の裏手にある庭園に出る。
表にある大庭園とは趣が違い、小さいながらも綺麗に整えられた静謐な庭だ。
誰かいないかとエレオノーラがキョロキョロしていると、ふと声がかかった。
「お主よ」
「ぴいっ!?」
振り向くと、そこには厳つい表情の初老が立っていた。
色褪せた金髪に蓄えられた髭。
歳のわりに腰はまったく曲がっておらず、立っているだけで威厳を醸し出している。
「ふむ……」
老人は睨みつけるような視線で、頭の天辺から足のつま先までエレオノーラを一見した。
威圧感のある老人に観察され、彼女は石像のごとく硬直する。
「儂はルートラ公爵、ヴァルター・イムルーク・ウィガナック。お主は何者だ?」
「…………」
何者か――問われれば答えるのが常人だ。
だが、エレオノーラはその限りではなかった。
ルートラ公爵、すなわちペートルスの祖父に当たる重鎮を前にしても、彼女の性質は変わらない。
「ああぁ……」
「……」
「ああ……あ、エレオノーラ・アイラリティルでっす」
「…………なんだと?」
ルートラ公爵は眉をひそめる。
エレオノーラ・アイラリティルといえば……社交界で噂の『呪われ姫』ではないか。
どうしてそんな人物が公爵家の後宮にいるのかと、公爵は訝しんだ。
「お主……まさか儂を覚えておるのか?」
ルートラ公爵の疑念を感じ取ったエレオノーラは、なんとか疑いを晴らそうと舌を動かそうとする。
「い、いえ……お会いしたことは、ないと思います。あ、あの……ペートルス様に、連れてきてもらって」
「ほう、アレが……」
ルートラ公爵はそう聞くと眉を上げた。
公爵にとっては孫のペートルスが令嬢を家に招いたことが何とも予想外であったのだ。
ペートルスは婚約者も作らず、ほとんどの令嬢と付き合いを深めない男。
表向きには貴公子然としているが、彼は易々と人を近づけない性質を持っている。
エレオノーラのそばを通り過ぎた公爵は、去り際に告げた。
「どういう思惑があるのか知らんが、好きにせよ。だが忠告しておこう、『呪われ姫』よ。……儂の邪魔だけはしてくれるな」
底冷えするような声色に、エレオノーラは恐怖して立ち尽くした。
今の言は間違いなく忠告という名の『脅し』だ。
ルートラ公爵がどういう人なのか知らないが、今の一瞬で恐ろしい人物ということだけは理解できてしまった。
そして道を聞くのも忘れた。
追いかけて尋ねるような勇気もないし、引き返すしかない。
公爵の圧に戦々恐々としたエレオノーラが踵を返すと……
「……あっ! いたいた!」
「!」
聞き覚えのある大声が鼓膜を叩き、彼女は反射的に柱に隠れる。
しかし隠れた彼女の姿をしっかりと視認していた男……イニゴは柱の裏を覗き込んで視線を下げた。
「客室から消えてるって聞いたもんで、ペートルス様がすごく慌ててましたよ。離宮で何してるんです?」
「すみません……すみません、すみません……」
「お、おう? ええと……困ったなこりゃ。エレオノーラ様、でしたっけ? とりあえずペートルス様のもとに案内するんで、ついてきてくださいよ」
「はい……」
どうして自分はこうなのかと、エレオノーラは嘆息する。
自分の態度がイニゴに対して失礼なのは承知している。
しかし初対面の人間……特に威圧感のある相手の前に立つとどうしても萎縮してしまうのだ。
これもまた人付き合いの経験を積めなかった弊害か。
申し訳なさでいっぱいになりながら、エレオノーラはイニゴに続いた。