ルートラ公爵家へ
馬車に揺られ、車窓に流れていく景色を眺める。
いま、自分のいる場所が家の外だなんて信じられない。
興奮を通り越してブルーな気持ちでエレオノーラは背筋を伸ばしていた。
「レディ・エレオノーラ。馬車酔いとかは大丈夫? なんか顔が青いけど」
「あ、あぁあ……だ、大丈夫です。出荷される家畜の気持ちなので問題ありません」
「うん、問題しかないね。家の外に出るのは八年振りのことなんだろう? 緊張するのも仕方ないよ」
一生涯を離れで過ごすかと思っていたのに、転居が決まってからは猛スピードでことが運び、エレオノーラは息つく暇もなかった。
人とは得てして変化を恐れるもので、彼女とて例外ではない。
向かいに座るペートルスと目を合わせられず、車窓を見るしかないエレオノーラ。
とてもじゃないが人と視線など合わせられない。
自身の呪いのせいで人と目を合わせるのに抵抗があったし、単純に性格が陰気なのもある。
「あっ、そうだ。これを君に渡しておこうと思って」
ペートルスはふと思い出したように馬車の積み荷に手を伸ばした。
小さな箱の蓋が開くと、布に包まれた黒くて丸い何かが。
「眼帯だよ。ほら、君の呪いは右目を塞げば消えるだろう? それなら髪で隠すよりも、眼帯か何かをつけた方が楽だと思うんだ」
エレオノーラの手に乗った黒い眼帯。
すべすべして柔らかいシルク生地で、触っていて気持ちいい。
表面には何かしらの魔法陣のようなものが刻まれていた。
「あ、あの……ここに刻まれてるのは、アレっすよね。目の負担を軽減するための魔法的な刻印というか、アレですよね」
「レディ・エレオノーラは魔法の類にお詳しいのかな? それとも魔法や魔術の名手だったり?」
「い、いえいえ……そんな滅相もございません。暇だから家で知識だけ学んでいただけです。わたしの魔法なんて実にクソなものです」
「へぇ……とりあえず、その眼帯をつけてみてくれるかい?」
言われるがまま、不慣れな手つきで眼帯をつけてみる。
正直、前髪で目を隠すのは不安定すぎたのでこれはありがたい。
「あー……ようやくうぜぇ前髪が払えたわ」
「つけ心地はどう? きつかったりしない?」
「ぁあっ、は、はい。大丈夫です。わたしのような不肖の身にっ、このような代物を施してくださり……ま、誠にありがとうございます……」
「謙遜しすぎじゃないかな。……うん、君から出ていた呪いは消えたと思う。僕の心があまり高揚していないからね」
まだエレオノーラは、ペートルスの言う『高揚』が理解できていない。
それがポジティブな意味なのか、ネガティブな意味なのかもわからない。
ただひとつ自明なことは、ペートルスが自分を恐れていないということだけ。
「でも、ペートルス様は……恐怖を感じたい、特殊な方なんですよね? わたしが眼帯をしていない方が、いいんじゃない……ですか?」
「そうだね。僕の前では眼帯を外してもらって構わないよ。何より、その綺麗な瞳が片方しか見られないのはもったいないからね」
「ひぃいいっ!?」
「待ってくれ。どうして怖がるんだ?」
ペートルスが他人の眼球に興奮する異常性癖者に見えてしまった。
というのも、なんだか彼は底知れぬ感じがするのだ。
表層的に笑顔でも目が笑っていないというか、誉め言葉が妙に怖く感じるというか。
「ごっ、ごごごっごっ、ごっ」
「地震かな?」
「ごめんなさい! 悪気はないんです……ペートルス様のことは怖いんですけど、悪く言うつもりはなくて……」
「うん、フォローになってないよね。どうやら僕はまだ君の信頼を得られていないらしい。ならば、君に信用してもらえるように努めるとしよう」
そう、これだ。
彼は基本的に『何を言っても怒らない』。
エレオノーラがどれだけ無礼な態度を取っても、暴言を吐いても怒る気配がなかった。
感じている不可解の正体はこれかもしれない。
人ができすぎている、と言えばそれまでだ。
エレオノーラの境遇を鑑みて、厳しい態度を取らないようにしてくれているのかもしれない。
それでも……どこか拭えない違和感があった。
◇◇◇◇
グラン帝国の東部に位置するルートラ公爵領。
海峡を越えた東方の大陸との貿易が盛んであり、世界最大版図を誇るグラン帝国内においても最大の領土を有する。
ルートラ公爵領の中央に聳える巨大な城。
白亜の外壁に、赤い屋根を持つ数々の尖塔。
城の前には目がチカチカするほど鮮やかな大庭園があり、エレオノーラはそこに立って呆然としていた。
「あの、ここは……?」
「僕の家だよ。正確に言えばお爺様の家だけどね。庭園が無駄に広くて正門まで遠いのが面倒なんだ」
「…………」
エレオノーラの貧弱な想像力では、貴族の邸宅といえばイアリズ伯爵家のような屋敷が限界だった。
だが、目の前に立つこれは――まるで皇族が住まう城のようではないか。
実際にペートルスは皇族公爵なのだが、エレオノーラはそんな知識はとうに忘れている。
「さあ、どうぞ。最初は慣れないかもしれないが、自分の家だと思ってくつろいでくれて構わない」
ペートルスにエスコートされ、正門をくぐって城内に入る。
内部は外見以上に広々としていて、入り口から続く広間は百人以上が参加する夜会すら開けてしまいそうだった。
「あ、あのペートルス様……やっ、やっぱりわたし帰りま、」
「お帰りなさいませ、ペートルス様ァ!」
エレオノーラの声を遮って、鼓膜をつんざくような大声が響いた。
向こうから足音を立てて駆けてくる巨漢にペートルスは歩み寄り、一方でエレオノーラは反射的に飛び退いた。
「イニゴ、いま戻ったよ。予定より帰りが遅くなってすまない」
イニゴと呼ばれた体格の良い男。
深緑色の髪を刈り上げ、背には巨大な剣を担いでいる。
歳はペートルスとエレオノーラよりも、ひと回り上に見えた。
「まったく、心配しましたぜ。帰ってこねぇと思ってたら、賓客を迎える用意をしろだなんて紙鳩が飛んできて……」
「そうそう。で、その賓客というのがこちらにおられる……」
「おおっ! なんとペートルス様がご令嬢を連れてこられるとは!? いやぁはじめまして、お嬢さん! 俺はペートルス様の護衛を務めております、イニゴってもんで……」
ドシドシと大幅で巨漢に歩み寄られ、エレオノーラの思考回路はショートした。
しかもうるさい、とにかく声がデカい。
こんな人間は見たことがない。
初めて熊を前にした気分だ。
何の免疫もない一般人が、巨大な熊に迫られたらどうなるだろうか。
「あ、あ、あ、あ、あえっ……」
「……? お嬢さん、どうかされました!?」
「ぴゅっ!?」
エレオノーラは失神した。