帝国の呪われ姫
――呪われ姫には近づくな。
ここグラン帝国に伝わる、社交界の常識である。
イアリズ伯爵令嬢、エレオノーラ・アイラリティル。
人呼んで『呪われ姫』。
その二つ名の通り、エレオノーラは呪いを抱えていた。
彼女を目にした者は恐怖心に駆られ、逃げ出してしまうという呪いだ。
呪いを発症したのはエレオノーラが七歳のころ。
容姿が変わったわけでもないのに、親が、使用人たちが、婚約者が……周囲の誰もが彼女を理由なく恐れ始めた。
それからエレオノーラの孤立は始まった。
怯える使用人たちの嘆願を受け入れ、父の伯爵はやむなくエレオノーラを離れに隔離。
毎日運ばれてくる食事も、使用人と顔を合わせることなく受け取り。
社交界に出ることすらも許されなくなってしまった。
次第に溌剌だった彼女の表情は曇っていき、他人を信じることもできなくなり。
やさぐれの領域にまで突入して。
そうして孤独な月日が流れること、八年。
エレオノーラ・アイラリティル、齢十五のことだった。
「…………」
朝、起床したエレオノーラは洗面台の前に立っていた。
他人と会わないのだから身だしなみも気を遣う必要はないが、眠気を覚ますために顔を洗っている。
鏡面を見ると、黒みがかった青い目の下に濃いクマができているのがわかった。
はねた青い髪を適当になでつけ、彼女は大きく欠伸をする。
なんというか……もう令嬢らしい所作や清潔感は過去に置いてきた。
寝間着姿のまま離れの入り口へ向かう。
今日も冷めきった朝食が置かれているはず……だった。
「……あ?」
いつもは玄関に朝食が置いてあるのだが、今日は置いていない。
忘れているのだろうか……と不安になったが、エレオノーラは呪いのせいで人と接することができない。
ゆえに本邸へ行って尋ねることもできなかった。
ふと、エレオノーラの鼓膜を叩いた声。
離れの近くに誰かがいるようだ。
彼女はそっと話し声の方へ歩き、窓から外を覗いてみた。
「あれは……ヘルミーネ? それにランドルフも……」
妹のヘルミーネ、そしてエレオノーラの婚約者のランドルフが何かを話していた。
ヘルミーネは二つ年下の妹で、強気な性格の令嬢である。
小さいころこそエレオノーラの方が明朗な性格だったが、今では見る影もない。
妹とは腹違いの姉妹。
小さいころにエレオノーラの母が夭逝し、その後に迎えられた後妻の子がヘルミーネである。
そしてヘルミーネに前に立っているのが、ネドログ伯爵令息ランドルフ。
エレオノーラが幼少期に婚約を結ばされた男だ。
明るめの茶髪に、紫色の瞳。
幼少期と比べてかなり背が高くなっている。
呪いを発症してからというものほとんど会っていないが、エレオノーラが呪いを受けるまでは優しい少年だった。
呪いを発症した以降も婚約者として何度か顔を合わせにきたものの、エレオノーラを忌避して悪言を吐いてくる男だ。
そんな男が婚約者などと、エレオノーラはどうしても思いたくなかった。
「なに話してんのあいつら……」
呪われ姫が住まう離れに、いったい何の用事があるのか。
エレオノーラは姿を隠し、窓際で耳をそばだてる。
「ふふっ……ランドルフ様も悪趣味なこと考えるわねぇ。お姉様の食事を捨ててしまおう、だなんて……あははっ!」
「おいおい、声がでかいぞ。たしかに冗談半分で言ったのは俺だが、お前も乗り気だったじゃないか。共犯ってことにしてくれよ?」
「大丈夫よ。どうせバレてもお母様に隠蔽してもらえばいいし。それに……お姉様が餓死でもしてくれれば、ランドルフ様としても助かるでしょう?」
「……そうだな。さっさとあんなバケモンとは婚約を解消して、ヘルミーネと婚約でも結びたいよ。いっそ毒でも入れてみるか?」
「あっ、賛成! 今度こっそり入れてみましょうよ!」
エレオノーラは身震いする。
とんでもない会話を聞いてしまった。
「……最ッ悪。お前らが死ね」
『呪われ姫』らしく呪詛を吐く。
ヘルミーネとランドルフが自分を嫌っていることは知っていたが、まさかここまで嫌悪されているとは。
エレオノーラの人間不信がますます募り、彼女の心に影が落ちた。
これ以上、あの二人の話は聞きたくない。
そっと壁から耳を離し、家の奥に引っ込んだ。
「はぁ……これからは食事も億劫になるじゃねーか。まあ、毒が入ってても別にいいかな。わたしが生きてる価値なんてないし……」
誰とも関わることができない貴族に存在価値はない。
ましてや他家と結びつく役目を強制される令嬢ならば。
きっと周囲の誰もがエレオノーラの死を望んでいることだろう。
――『この呪いさえなければ』。
そう不運を嘆く段階など、とうに過ぎ去った。
とうの昔にエレオノーラは自分の呪いを天命だと受け入れている。
憂鬱な気分だ。
ヘルミーネとランドルフが去ったことを確認したエレオノーラは、離れの庭に出る。
誰も手入れしていない庭は荒れ果てていた。
この庭にはそれなりの思い出があるので掃除してあげたいのだが、一人では手入れすることは不可能だ。
「……お母様」
朝日を浴びてそよぐ一本の木を見上げ、彼女は息を吸った。
無人の庭に美しい声が木霊する。
いつも憂鬱は歌うことで晴らしてきた。
自分が見られることで恐れられるのなら、せめて声だけは美しくあろうと。
「――♪」
小さいころ、亡き母が教えてくれた歌。
もう二番の歌詞は覚えていないけれど、一番の歌詞は覚えている。
だから一番の歌詞を忘れないように、彼女は八年間ずっと同じ歌を歌い続けていた。
「……ふう」
歌唱を終える。
先程まで感じていた嫌な気分も、多少は晴れた。
とはいえ、まだまだ暗い感情は払えていないが。
「――綺麗な歌声だね」
ふと、声がした。
他に誰もいないと思っていたエレオノーラは、肩をビクリと震わせる。
自分の歌が聞かれていたことよりも、誰かがそばにいて話しかけてきたという事実の方が恐ろしい。
恐るおそるエレオノーラが振り向くと……
「はじめまして。貴女がレディ・エレオノーラかな?」
思わず見とれてしまうほどの美丈夫が立っていた。