還ろう、茜色の彼方へ
「ニケルさん……!」
目を開けると、女の子が覗き込んでいた。
左頬に走る緑色の“脈”が、仄かに光っている。
誰かの名前を呼ぼうとしたけれど……思い出せない。
さっき一瞬だけ、思い出せた気がするのに。
「ザラメです! 分かりますか?」
はっきりした視界には、砂糖菓子みたいな瞳が映った。
オレは今、ザラメに膝枕されているようだ。
雨に晒されたからか、服や髪がびっしょり濡れていて。
死んでいるのに、息もあがっていた。
「良かったぁ……! 目が覚めなかったらどうしようかと……うぅ」
「ちょっ! 泣くなって」
「だっでぇ〜」
オレの頬に、雫が落ちる。お構い無しに降ってくるから、目に入って痛い。
いつの間にか雨は止んだみたいなのに、ここだけ土砂降りだ。
「…………ごめん」
傘も差さずに、びしょびしょになるまで探してくれたんだよな。
髪の毛も解いたままで……乱れるぐらい必死に。
「探すの大変だったんですよっ。あと少し遅かったら、間に合わなかったかもしれません」
額に人差し指を押し当てるザラメ。
その感触で気づいた。
「戻ってる……」
手を顔の前に出して、呟いた。
腕も脚も人の姿に戻っている。髪も服も両翼のマントも、ちゃんとある。
だけど首筋に、ひりひりと焼かれたような感覚があった。
「ザラメが力を注いだら、戻ったんです。すみません、その時に噛んじゃいまして」
「へ……?」
「あっでも、優しめに噛みましたからっ」
「か、噛ん……?」
「キョンシーとしての、ザラメの力だよ」
首だけ起こして振り向くと、今度はデウス様が覗き込んできた。
膝をついた神様は、諭すように言う。
「モノの性質を変える力を派生させたものだろう。ザラメが噛むことで、対象の生者をこの地に留め……術者に強く結びつける。例えばある者は、痛みを分け合うために。例えばある者は、主を守るために」
つまり?
「君は私の力で、ツカイマとしての任を解かれた。そしてザラメの力によって、ザラメの“従者”となった……ということだ」
オレが、“従者”……。
胸の奥から押し上がってくる感情は擽ったくて、悪くない。
するとザラメが、突然声を弾ませた。
「それって、ザラメの後輩ってことにもなりませんか?!」
「は?! いやいや、ならないぞ!!」
従者=後輩なんて聞いたことないって!?
「ま、まぁ……そうとも言える、のか?」
デウス様も困っているじゃないか。
「従者で良いじゃんか」
カッコいいだろ、響きが。
そう言ったけれど、ザラメは不満みたいだ。
「えぇ〜、“従者”って堅苦しいですしぃ。それに、“先輩・後輩”の方が可愛いです!」
「か、可愛いのはイヤだぞ!」
跳ね起きるオレに、ザラメは抱きついてきた。
「むぎゅっ?!」
「という訳で、今からザラメの可愛い後輩です!」
「なっ?! ズルいぞニケルぅ!!」
胸に顔が埋まってぐるぢい……!
「むぅうううう!」
弾力が刺激的すぎて、顔が一気に沸騰状態。離れようと力を込めているのに、手汗で滑ってしまう。
「ザラメのことは“先輩”って呼んでくださいねっ、ニケル君♪」
「むぐっ……ぜっったいイヤだ!!」
押し退けるも、食い下がってくるザラメ。
「ほらほらっ、ニーケール君♪」
「抱きついてもらった上にザラメの後輩なぞ……けしからん! 羨ましい!!」
「フィアンセは良いんですか、浮気性です」
「違うぞザラメ! フィアンセとしてのザラメも先輩としてのザラメも……全部欲しいのだよ!! あと私にもハグしてくれたまえぇ!!」
滝のように涙を流しているデウス様。
うるさい神様だぞ……。
「デウスさんは放っておきましょうね〜」
デウス様の顔を平手で退けるザラメ。
「さて、帰りましょっ」
オレに向けた夕焼けみたいな笑顔は、他でも無いザラメのもの。
瞳に映る緑色の光は、死んでいるのに眩しくて。
「……死ぬ前のこと、覚えてないんだよな? ……本当に」
「はい。でも、それがどうかしました?」
ザラメがきょとんと首を傾ける。
「ううん……何でも無い」
答えは分かりきっていた――名前も忘れたあの子はすぐ近く居るのに、会えないって。
このセカイから死んだんだって。
変えられない現実を突きつけられて、唇は震えていた。
だけど、それでも。
オレは一度だけ口を結んで、名前を呼んだ。
傍に居たいと祈り続けた、たった1人の――もう1つの名前を。
「ザラメ」
「先輩ですぅ!」
雨上がりの日暮れ時。
茜色の空は、彼方まで鮮やかだった。




