幕引き、怨毒異変
足が地面から離され、身体が宙を舞う。
いや、舞うだなんて軽やかなもんじゃねぇ。
ニケルに蹴られた俺は猛スピードで飛ばされ、そのままの勢いでフェンスに激突した。
俺がぶつかったのに呼応し、緑のフェンスが激しく揺さぶられた。
「郡さん!!」
「っつぅ……」
尻餅を付いた俺に、ニケルがじりじりと距離を詰める。
マズい。早く起き上がらないといけなねぇのに、身体が痺れて動かねぇ。
脚で踏ん張れないし、腹筋や床に付く手に力が入らない。
目が眩み、眼球の裏で火花が弾けるような錯覚。
……これも、ニケルの力か。
「まずはお前から」
謎の声のせいだろう。ニケルの様子が明らかにオカシイ。さっきまでのガキっぽさが消え失せ、ただただ殺意を滲ませていた。
あの声はあれきり聞こえないが、ニケルへの影響は今も続いている。
「こうも変わるものなのかい、ツカイマって。ゲホッゲホ」
口と鼻を白衣の袖で覆いながら、佐藤はニケルを見定めていた。
こいつも毒に侵されている分苦しそうだ。
「飢えさせられてる……」
「手遅れな予感だヨ」
コスズとミドウの目の色も変わる。ツカイマのことは詳しくないが、それでも仲間としての温情を放り投げたんだってのは分かる。
深く息を吸いたいのに、呼吸が浅くなる。
それでも、寄ってくるツカイマの気迫に圧され、息を吸っては吐いての周期が速まっていく。
過呼吸で息が苦しい。おまけに、漂う毒素のせいで脳に酸素が行き渡らず、頭も回らない。
紫紺の瞳が、禍々しく灯る。
「バカな人間には、相応の報いを」
「させません!!」
俺の鼓膜を震わせたのは、ザラメの声だった。
そして次の瞬間、温かな緑の炎が俺とニケルの前に立ち塞がった。
「もうやめてください! 郡さんは、貴方に恨まれるようなことしてないでしょう?!」
「してないなんて、あり得ない!」
一層、ニケルの叫びが強くなる。
「この世界にいるだけで悪いんだ!!」
竜巻が、俺とザラメを巻き込んで大きくなっていく。
フェンスに手をかけて、風に身体を持っていかれないようにする。
細めないと、目が痛くてたまらない。
空気は毒素まみれ。強い臭いが肺を刺して呼吸ができない。見えている景色が、朧げになっていく。
「茜の祈りを踏みにじった人間も! その恩恵を受けるこの世界の人間も!!」
……茜って、誰のことだよ。
思えど、じっくり考える暇なんて無い。風速は苛烈に、風圧は獰猛に、俺たちの肌を切っていく。
ニケルの気持ちが昂るほどに、竜巻は勢力を増していって。ニケルの語気も、強くなって。
憎悪に歪んだ顔は、しかし別の意味でも歪んでいた。
「泣いてるんですか……?」
ニケルの目から零れた大粒の涙が、風に紛れて消えていく。
「人間なんてキライだ……全部全部……いなくなっちま――」
――ツカイマの叫びは、そこで途切れた。
今の今まで猛威を振るっていた竜巻が、一瞬で霧散した。あんなに強烈だった臭いも、あっという間に薄まっていく。
そうして開けた景色――その空は、昼の青ではなかった。
言うなれば、スクリーンに映した夜のよう。星の瞬く、瑠璃の色をしている。
「なっ……?!」
ニケルの胴体には、大きな針が刺さっていた。
金色と銀色……この“空”にまぶされた星と同じ色をした時計の針だ。
「オイタが過ぎるぞ、ニケル」
冷たく重々しい声が、屋上に鎮座する。首を絞められているわけじゃないのに、息が詰まるような圧迫感がある。
唖然とするニケルを挟んだ向こう側からは、声の主が歩いてきた。
そいつは、俺がよく知ってるヤツで。
曖昧な意識のまま、そいつの名前を呟いた。
「デウ……ス」
だが、いつものデウスと雰囲気が違った。
竜巻の残滓に靡く金髪は、普段と異なり解かれていた。
黒を基調とした衣装は、舞台の幕を思わせる。襟には銀の、長めの裾には金の装飾がついていた。
おまけに頭には、歯車を半分に切ったようなものが浮いている。
今のデウスに、爽やかな笑みは無い。
ニケルを射抜く宝石の瞳は、輝いているのに無機質だ。
人も人外も等しく……万物を否応なく静止させる様は、神そのもの。
ぼやける視界に捉えたデウスは、いつもと別人に見えた。
「時は満ちた」
カツカツと靴を鳴らす淡白な音。
仰々しい普段とは違う。抑揚のない規則的な音色は、時計の針が動く音に似ていて……。
やばい……もう駄目だ。
「ニケルの“再起“を開始する」
デウスの宣告を最後に、俺は意識を手放した。
――――
次に目を開けたのは、家の寝室だった。
薄暗い部屋の、白い天井が見える。
「ってぇ……」
上体を起こすも、背中に痛みが走って思わず体を丸める。
フェンスに叩きつけられた時のだろうか。あの蹴り、強烈だったもんなぁ。
記憶を巡らせつつ背中を擦っていると、徐ろに扉が開いた。
「あっ、郡さんおはようございます〜」
扉を開けて入ってきたのはザラメだ。
ツカイマと戦っていたとは思えない、いつも通りの調子に、心がほぐれていく心地を覚えた。
「お身体は大丈夫ですか? 痛むところはありますか?」
「背中がまだ痛いが、それ以外は別に」
「なら、後で湿布を貼ってあげます。それよりも、郡さんに大事なお話があります!」
そう言って、俺の腕をぐいっと引っ張るザラメ。
「ちょっ、おま……!」
「見てほしいものがあるんですよ!!」
勢いよく引っ張んな、背中痛ぇよ!!
子どもみてぇな無我夢中の顔をして、駆け足で廊下を進むザラメ。
その先にあるリビングに居たのは――煮干しを砕いては頬張るそいつは、手のひらサイズの水色の鳥だった。
「この子、ニケルさんなんです!」
「はぁ?!」
このちっこい鳥が?!
「信じられねぇ……これ夢? あいつの毒にまだやられてんのかな、俺」
「夢でも毒でもないですよぉ」
信じられなくて、餌をつつく鳥に目を凝らす。言われてみれば、体毛の水色がマントの色と一緒のような気もするが……ここまで劇的に変わるものなのか?
「じゃあなんでこんな姿になってんだよ」
「デウスさんが“再起”をしたら、この姿になりまして。デウスさんが言うには、暴走した力を回収した影響みたいです。可愛いですねっ」
抗議せんと、ニケルがピィピィ鳴いている。
「鳴き声も可愛いですっ」
「ピィイイイイイ!」
“可愛い”と言われるのが嫌っぽいな。
ともあれ、俺が気絶している間に事が進んでいたらしい。他のメンバーは皆無事で、あの後解散したようだ。
で、ニケルはザラメが連れ帰ってきた、と。
「つーか、大丈夫なのかよ。また毒を出すとか」
「この姿だと、毒を操れないそうです。それに体力を消耗しているので、しばらくは人間の姿にも戻れないって、デウスさんが言ってました」
まぁ、あいつが言うなら本当だろうな。
「そういうわけなので……」
なんか嫌な予感がする。
小鳥版ニケルを掬うザラメに、胸騒ぎを覚えた。
餌を食っていたのに邪魔されて、ニケルは不服そうにしている。なんならクチバシでザラメの手を突っついていた。
俺も次の台詞を察して、顔が引き攣る。
そんな俺とニケルを気にもせず、ザラメは言いやがった。
死体なのに活きの良い、100点満点の笑みで。
「ニケルさんのお世話をしようと思います!」
「なんでそうなるんだよお前はぁああああ!!」
「ピィイイイイイイ?!」
ツカイマ絡みの波乱は、まだまだ続くっぽい。
……満場一致、ザラメのせいで。




