逆転、謎の声の仰せのままに
汗を滝のように流し、顔を真っ赤に染め上げるニケル。相当のダメージが入ったらしい。
だが反撃は無かった。立ち上がれないまま、ニケルは無力に手を伸ばすだけだ。
「やめ、返せっ……!」
それを他所に、俺はページをパラパラと捲る。
少年心擽る文言を、ご丁寧に読み上げながら。
「ふぅん。“世界という大いなる帳の裏。瑕疵との誓約が交わされし時、天からの災いが地を穿つ。やがて世界は崩壊し、新世界が創生される”」
「うわぁああああああああん!!」
ニケルの攻撃は止み、コンクリートを蝕む毒も、空まで立ち昇る竜巻だって忽ち消えちまった。
グラウンドで液状化していた木々も、元通りだ。
「なるほどねぇ。彼の弱点は羞恥心ってわけか。だからさっき、僕の液状化が治まったんだなぁ」
佐藤は顎に人差し指を添え、納得した様子だ。
弱点は薄々気づいていたが、ここまで効くとは思わなかった。
肝心のニケルも涙ぐんじまったし。
「郡さん……流石にやり過ぎだと思います」
ザラメからガチで引かれている。
顔には辟易の文字が、目には軽蔑の色が。
ザラメだけじゃない。コスズにミドウからも、人で無しを見るような視線を送られている。
「郡……恥知らず」
「うんうん」
「外道……」
「そうだヨ」
「畜生……」
「おいそこまで言われるヤツか?!」
鰯雲が群れ成す青々とした空の下で、俺だけがアウェーなんだが。
「郡のせいで、ニケル君が可哀想だなぁ」
佐藤に至っては半笑いで溜息をつく始末。
……つーかお前には言われたかねぇ。そもそも、本の在り処を教えたのはどこの誰だよ。
まぁ、何はともあれ異変は終息した。
後はニケルから、リィンシーやら暴走に至る経緯を聞き出すだけだ。
“再起”の必要も無いだろうな。扉の向こうでデウスが待っているが、出番はお預けだ。
そんなことを考えつつ、毒を撒いた張本人を見据える。
「うう、人間めぇ……覚えてろよぉ」
コンクリートの床に手をついて震えるニケルに、ザラメが恐る恐る近づく。
「あの、ニケルさん。大丈夫ですか」
膝を屈め、ニケルと目線を合わせるザラメ。
「すみません、うちの郡さんが。後で怒っておきますから」
「ザラメ、近づきすぎんなよ」
「大丈夫ですっ」
振り返ったザラメが、無邪気に笑う。
どこからその自信は湧いてくるんだ。
相手はツカイマで、無力化したとは言え敵。何があるか分かったもんじゃねぇのに。ヤキモキする俺を他所に、ザラメは構わず手を差し出した。
優しく温かく、心を包むような声が響く。
「さっ、帰りましょ?」
微笑むザラメが、柔らかな茜に思えて。
人じゃなく、キョンシーでもなく……例えるなら、“カミサマ”みたいな。
そんなの変なのに、歪で違和感満載だってのに。振る舞いは様になっていて……不思議な感じだ。
だから考えちまう。本当のザラメは、“こっち”なんじゃないかって。
「ぁ……」
ニケルも感化されたのか、吸い寄せられるように手を伸ばす。
子どもっぽさの残る指先が、ザラメの手のひらに触れる…………その時だった。
【――違うよね?】
脳みそを直接かき乱す音。
ノイズ混じりの声が、頭の中でこだまする。
「なん、だ。これ」
反響する雑音に、酔いそうになる。
「この声……知ってる」
「アタシ、前に聞いたヨ」
呟いたのは、コスズとミドウだった。
心ここに在らず。漫然と虚空を見つめていた2人だが、声の主を探すかの如く空に目を向けた。
【キミの願いは、そんなものかい?】
柔らかいのに、淡白なコエ。
男とも女とも取れない響き。年齢だって、察しがつかねぇ。分かるのは、人間のそれとは思えねぇってことだけだ。
瞳孔は小刻みに揺れ、誰とも焦点が合わない……まるで、何かに強く急き立てられているようだ。
「誰ですか?! どこにいるんです!」
ザラメが叫んでも、返答はない。
【ねぇニケル。キミはあの子に、報いたいんだよね。それこそ、キミの飢えている感情】
その言葉の矛先は、ニケルに向かう。
「オ、レは……」
【キミの――ネガイゴト】
「ネガイ……そうだ、やらなきゃ……」
顔を顰め、頭を押さえるニケル。
絞り出した声は苦しそうで。それでいて、絶えることなく憎悪が滲んでいた。身体が強張っているのが、傍から見ても分かる。
「やっつけないと……ぜんぶぜんぶぜんぶ」
悪寒が走った。
言葉に纏わりついた怒りが、空気を震わせる怨嗟が、ただ事ではないと知らしめる。
ふわっと、厭に生ぬるい風が肌を擦った。
異臭が再び漂う。
だが今度は、さっきみたいな薫香じゃない。鼻も気道も、肺に至るまでを犯す刺激臭だ。
「うっ……何、これ」
佐藤が蹲ったと思えば、俺も一瞬意識が飛びかけた。
「ゲホッ、ゴホ」
口と鼻を押さえるが、今までとは比べ物にならない臭いに咳き込んじまう。
足が痺れて動かねぇ。息をするたびに、針で刺されるみたいに胸が痛む。
頭が重くて意識が掠れる……だから反応が遅れたのだ。
「郡さんっ!!」
「は――」
ザラメの悲鳴とほぼ同時――。
ニケルの足蹴りが、俺に炸裂した。




