漂う、異変の予兆は芳しい
校舎の2階にまで届く木々は、秋の装いに包まれていた。緑色だった葉は、赤や黄色、茶色におめかしをしている。
澄みきった青い空には鰯雲が群れを成す。
その下に広がるグラウンドには、生徒が四方八方にいそいそと動いていた。
ある者はテントを建て、ある者は地面の整備。
またある者はパイプ椅子を搬入し、数人がかりで音響機材を運んでいるのも見える。
長机が複数浮いているのは、ポルターガイストのツカイマこと、ミドウの仕業だ。
ひんやりと冷たい風が、教室に舞い込む。
日の光はまだ若干の蒸し暑さを孕んでいるが、秋晴れと呼んで良いだろうな。
心地良い空気の中だが、俺は心底心地良くない。
「なんで俺も手伝わねぇといけないんだ」
白いシートを床に広げながら、愚痴が零れる。
何せ、佐藤塚高校で近々開催される文化祭の手伝いに駆り出されているのだから。
俺、関係者でも何でもないんだが。
これも「人手足りなくて大変なんだよねぇ」と佐藤がわざとらしくぼやいたのを、ザラメが2つ返事で「手伝います!」と言っちまったのが原因だ。
相変わらず面倒事を引き寄せる、マグネットみたいなキョンシー女め。
そのマグネット・ザラメはシートの反対側を持ち、端を引っ張り皺を伸ばした。
「誰かさんが、軽いノリで引き受けるからだぞ」
「良いじゃないですか。手伝ったら、お礼に出店のスペース確保してくれるそうですし」
「知らね、俺帰るわ」
「すぐ帰ろうとするぅ。出店での収入、分けてあげませんよ」
「しれてんだろ」
そんな儲けの見込みが無い出店でちまちま稼ぐより、宝くじで当てたほうが手っ取り早い。
それに、出店で商売したとて来るのは物好きな連中だけだと思えてならない。
「まぁまぁ郡、手伝ってやりなよ。ザラメちゃんが困ってるだろ?」
と、ザラメに助け舟を出したのは佐藤。
だがこいつ、全然仕事しねぇ。生徒用の椅子に深く腰掛けて、悠々自適に寛いでいるだけだ。片手で本を掲げ、生徒や俺たちを他所に物語の世界に浸ってやがる。
「お前が助けてやれよ」
「んー、面白くないじゃん」
こちら、手助けに面白さを求めるクソ野郎だ。
「つーか、お前も手ぇ動かせや」
「残念! 塞がってるんだなぁ」
「うっぜ」
わざわざ両手で本を持ち直してほざく。
「言い負かしたり」と言いたげなしたり顔、殴りたくなっちまう。
「とりあえず立てや」
「はぁ〜、力が出ないなぁ」
「こんにゃろ……だったら実力行使!」
本を上に引っ張って、取り上げてやる。
「ちょわっ!?」
一瞬目を丸くした佐藤だったが、すぐに俺と反対向きに力を入れた。
脚で踏ん張り、本を引き寄せながら言い返す。
「郡、本が痛むだろ?」
「じゃあお前が立てよ」
「郡が手ぇ離したら、ね」
「はぁぁ〜?!」
突如始まった押し問答は、お互い譲る気がない。
「はぁ……」
その様子に呆れるザラメと、
「はぁ〜……!」
お目々キラキラのミドウ。
「やっぱり、2人は格別だヨぉ! 原点にして至上! 日記を書く手が止まらないね!!」
いつの間にかやってきたミドウは、カメラマンが使っているようなカメラを浮遊させ、俺と佐藤に焦点を合わせていた。
カメラをドローンみたくふよふよ動かし、ミドウ本人はうつ伏せになってメモってやがる。何とは言わんがガチ勢め。
「ねねっ、ディープキスはまだ?」
「してたまるか!!」
「いっづぁ?!」
結局、手を離したのは俺だった。
反動で、本の背が佐藤の顔面にクリーンヒット。鼻の辺りを押さえて悶絶しているが、構わずミドウに尋ねた。
「グラウンドの準備は終わったのかよ」
「それがね、途中までは順調だったんだけど……変な匂いがして、皆で話し合って引き上げてきたの」
「匂い……ですか?」
「そうなの、甘ったるぅい匂いでね。危うく溶けちゃうかと思ったヨ」
んな大げさな。
こっちは全然しないが、グラウンドから離れているからだろうか。もしくはミドウの気の所為か。
「甘いと言えば、せんせーが詳しいでしょ? 何か知ってるかなぁって」
「ってぇ、知らないなぁ。……外のどの辺?」
ここに来て、ようやく重い腰が上がった。
「うーんとね、旧校舎寄りが特に匂ってたヨ」
「となると、北側かぁ。生徒の中で、体調を崩したって子はいる?」
「ううん」
「だったらまぁ、不幸中の幸いか」と呟きながら、佐藤はグラウンドを一望していた。
振り返った佐藤は、白衣の袖口を整えながら淡々と伝えた。
「しょうがない……見てくるよ。ミドウちゃんは生徒と先生全員に、南門から下校するよう伝えてもらえるかい?」
「わ、分かったヨ」
次いで、俺とザラメをそれぞれ一瞥する。
「2人とも協力してやって。終わったら、帰ってもらって良いから」
「はいはい」
「任せてください!」
面倒事は避けるわ、自分に危害の及ばぬシチュエーションを作った上で動乱を愉しむ良い性格の男。動かざること山の如しを具現化したヤツだが、流石に例外はある。
この学校は佐藤一族の管理地。正体不明の異変があれば、動かざるを得ないらしい。
「……倒れんなよ」
「心配しなさんな、防護はちゃんとするしさ」
相変わらず、余裕しゃくしゃくな笑顔を作るのが上手なヤツだ。背を向ける間際、顔には不安が滲んでいたが。
「なんかあったら、引き返せよな」
同行して状況が変わるわけじゃない。
だから、素直にあいつの指示に従うことにした。
佐藤が出ていくのを見送り、俺たちも準備中の教室を後にした。
――――
……俺の考えが、間違っていたのだろうか。
まさか、あんなことになるなんて思いも寄らなかった。高を括っていたんだと今更ながら痛感する。
それを知ったのは、帰ってからほんの1時間後。
リビングに響く着信音が……佐藤の携帯からかかってきた電話が、“本当の異変”を告げる報せだった。
「こ、郡さん! 大変なんだヨ!!」
意外なことに、声の主はミドウ。
かん高い声は切迫し、泣きかけているのか震えていた。荒い呼吸が電話越しに聞こえてくる。
「大変? つーか佐藤は」
言いながら、嫌な予感がにじり寄ってくる。
異臭騒ぎがあった直後、ミドウが佐藤の携帯を借りて連絡を寄越した。
普通に考えて、異常事態に決まってる。まさかあいつ、ぶっ倒れたとかじゃ……。
だがミドウが次に告げたのは、俺の想定する“異常事態”を遥かに超えていた。
「せんせー……溶けちゃったんだヨぉ!!」
「…………はぁ?」
理解できずに、素っ頓狂な声が出た。




