幸せオムライス
「よく研がれたナイフが表面を撫でるだけで、肌理細かな柔肌は鮮やかに割かれた。中から覗くのは真っ赤な、真っ赤っかなトマトソースをたっぷり使ったチキンライス。……うま!」
「坊ちゃま、お口に合ったのは嬉しいですが、妙な解説を口にするのはお止めください」
大きな森の奥深く。小さな家の食堂では、男の子がオムライスを頬張っていた。
「ひゃっへはははへはふはほもひほふはいはぬ!」
「口に物を入れて喋らない!
午後からは授業がありますから、その前にしっかり召し上がってくださいね」
世話係はピッチャーを傾けて、坊ちゃまのコップに水を注ごうとした。
しかし、中から転がり出てきたのは黒いローブをまとった小さな人間である。
「……先生」
「××××××××」
「声が小さくて聞こえません」
コップサイズの人はテーブルの端まで滑らかな前転で移動すると、そのまま床に落ちる。
着地した時には、身長百八十センチのすらりとしたイケメン男子になっていた。
「申し訳ない。考え事をしていたら、座標が狂った」
物体に取り込まれないよう、素早く身を小さくしたのは流石だ。
魔法は想像力だという。彼ほどの達人になると、瞬時に思い描いた通りの結果を導き出せるのだった。
「しかも、食事時だったか。早過ぎたな。
……それにしても、この肌理細かな卵焼き、そして鮮血のような赤い色も美しきチキンライス!」
生徒が生徒なら先生も先生だ。この表現方法はいかがなものか。
もうちょっと普通に言えないのだろうか?
世話係は呆れたが、空気を読むのは忘れない。
「先生も召し上がりますか?」
「ありがたい!」
「少々お待ちください。先に坊ちゃまにお水を」
「それなら、私が」
先生と呼ばれたイケメンがピッチャーに手をかざすと、甘く爽やかな香りが立ち上る。
「ミント入りのレモネードだ。君も飲んでみてくれ」
「ありがとうございます。後ほどいただきます」
世話係は坊ちゃまのコップに注いでやる。
坊ちゃまは新たな美味に目を輝かせた。
食事が終わると、先生は男の子を外へ連れ出した。
家から十分離れてから広い範囲に頑丈な結界を施す。
「先生、いつもありがとうございます」
「いいや、好きでやっていることだ」
結界を張るのは平均的な魔術師からすれば重労働だ。
もちろん、先生のレベルになればさほどでもない。
それでも労力の要ることだと、坊ちゃまも学んだ。
坊ちゃまの名前はジョエル。筆頭公爵家ルクヴルールの末っ子である。
この世界では長年、魔力が多いほど尊い人間とみなされてきた。
そのため、王族や高位貴族は魔力の多い血筋を取り入れていき、結果として希望通りの子供が生まれやすくなった。
ジョエルも血筋が良すぎて、稀にみる大きな魔力を持って生まれた。
通常、魔術を扱えるようになるのは六歳を過ぎてからだ。貴族家では暴発に備え、子供のうちは魔力を吸い取る道具を部屋に置くようにしている。
だが、ジョエルの魔力は道具を壊して、ついでに部屋の壁もぶち抜く威力だった。
幸いたいした怪我人も出ず、ジョエルも奇跡的に無事。
資金潤沢な公爵家では、魔力を吸い取る道具をかき集めつつ、この事態に対処し得る魔術師を探した。
王立魔術師団長に相談してみたところ、一人の男が紹介された。
平民の魔術師、エリク・ダルシアク。
平民とは思えないほど魔力量が多く、頭も回る。
魔物と対する前線でバリバリ働きながら、寝る間も惜しんで魔力過剰の子供のための研究をしているという。
なんだったら、前線の方は居眠りしながらでも成果を出しているらしい。
公爵は権力を使うことにした。
まだ若い彼を強力な推薦の元、出世させたのだ。
代わりに、いろいろな便宜を魔術師団全体に図ったので誰も文句は言えなかった。
エリクは出世して給料は上がったものの、仕事は暇になった。
暇になったと言うと語弊があるが、前線での戦闘と魔力の研究を同時にこなしていた彼には十分な時間の余裕が出来た。
もちろん、その余暇はジョエルのために充てられた。
初対面のジョエルは、まだ五歳。
血筋の良さは、その美貌にも現れていた。
そして、その頭脳にも。
明晰すぎる思考によって、五歳児は自分の状況を把握していた。
「はじめまして、ジョエル君。
私は、君の魔術の先生になったエリクです」
「先生は僕に魔法の使い方を教えてくれるの?」
「はい」
「よろしくおねがいします」
ジョエルは自分の魔力の暴発と、その結果を理解していた。
だから、この後どうすればいいのか、どうなるのか、非常に不安に思っていたのだ。
「疑問があれば何でも訊いて、思ったことは何でも話して欲しい」
そう言われて、幼子はやっと笑顔を浮かべた。
エリクはジョエルの話を聞き、また状態を観察し、どうすればいいのか真剣に考えた。
これまでも、何人もの魔力過剰の子供たちに助言をしてきた。
だが、その子にとって相応しい環境を整えたくても、予算不足で妥協するのが常だった。
「公爵閣下、私の考える最善の対応について提案させていただきます」
「ああ、しっかり聞かせてもらおう」
「ジョエル様は五歳という幼さです。そして年齢に見合わない賢さ。
状況を把握してらっしゃいますし、そのために大変な我慢をなさっていらっしゃいます」
「……そうなのか」
魔力暴走の対応で手いっぱいの公爵家に、そこまで観察する余裕はない。
「お屋敷で、ご家族と共に過ごされるのは難しいかと」
出来れば、人間が周りにいない広い土地で自然に魔力を放出させる生活が望ましいことを告げた。
ハッキリ言って、度々パーッと発散させてやらないと肉体的にも精神的にも辛いだろう。
「わかった、用意しよう」
エリクは驚いた。
まさかこの提案が簡単に了承されるとは思っていなかった。
しかし、公爵は領地の広大な森を、末息子のために潰す覚悟をしたのだ。
「君は魔力が多くて、普通に暮らしていては周囲の被害が甚大だ。
魔力を制御できるようになるまでは、森の中で暮らすほうがいい」
エリクに告げられたジョエルは、悲観するでもなく応えた。
「周りに人がいなければ、我慢しなくていい?」
「ああ。そして、少しずつ制御を学ぼう。そうすれば、いつかはどこにいても我慢しなくて済むようになる」
ジョエルはそれを聞いて、天使のような微笑みを浮かべた。
父である公爵も、その笑顔でエリクの言っていたことを実感した。
だが、親の情というものがある。つい尋ねてしまった。
「ジョエル、家族と離れることになるが寂しくないか?」
「お父さま、家族は大事です。だから、間違えて傷つけたくない」
「……そうか。先生にしっかり教えてもらいなさい」
「はい。お父さま、ありがとうございます」
当初、エリクはジョエルに同情していた。
まだ幼いのに、家族と同じ屋敷で暮らすことが出来ないのだ。
ところが、森に籠り始めてすぐ、ジョエルはエリクに質問をしてきた。
「魔力がすごく多いということは、魔界に行ったら魔王になれますか?」
いきなり夢がデカい。
「人間の中にいれば、すごい魔術師になれるかもしれないけれど、魔族の中に入ったら、おそらく下っ端の下っ端だ」
「庭掃除を任されるくらいの下っ端?」
「いや、庭掃除に使う塵取りを……」
「持たせてもらえるのがやっとの下っ端?」
「いやいや、物置から取ってこい、くらいの下っ端じゃないかな」
「……人間界にいた方が、偉そうにしてられますね」
ちなみに、この世界では魔界も魔王も魔族もおとぎ話である。
まあとにかく、一事が万事この調子で、空想と現実の区別がついているのに大人をおちょくるような会話をする。
エリクは子ども扱いを止め、なるべくストレートに伝えることにした。
そもそも、エリクが魔力過剰の子供の対処について研究しているのは、自らの経験があったからだった。
ジョエルのように親が莫大な財力を持っていれば、魔力を吸い取る道具を用意してもらえる。
しかし、エリクは平民の生まれだ。お金に余裕がない家の子は、魔力が安定するまで腕輪を両手首に嵌めて暮らすのが一般的だ。
幸いにも、魔術師団に申請すれば、腕輪は無料で貸与される。
魔力の多い人間を把握しておくことは、将来の団員確保につながるからだ。
腕輪は多すぎる魔力を放出してくれる。しかし非常に重く、子供にとって肉体的な負担が大きい。
そして精神的な負担もある。
手枷のような腕輪を嵌めることで、まるで罪人になったような気がするのだ。
エリクの周囲に腕輪を揶揄う者はいなかったが、たまに感じる見知らぬ人の好奇の視線は手枷を更に重くした。
そんなある日、市場で衣類の露店を出していた商人に声をかけられた。
「坊主の腕輪、重さはどれくらいあるんだ?」
「重さ?」
考えてみたこともなかった。腕輪は嵌めておかなければならないもので、重さなど選べるわけではない。
「ちょっと坊主の姿勢が良くないから気になってな。
それ、外せないんだろう?」
「ひと月に一度、魔術師団に行って調整してもらいますが」
「じゃあ、そこで訊いてみたらどうだ?
わかったら、もう一度、俺のところに来な」
「……はい」
次の交換時、魔術師団の本部に出向いた彼は、腕輪の重さを尋ねた。
担当の魔術師は即座に答えてくれた。
「対になる重りを、背中から腰のあたりに着けて重心を安定させると楽になるはずだ。それと、せっかく手に重りがあるんだから、ついでに身体を鍛えるといいんだが」
言われたままに、露天商のところへ行ったエリックは、皮のベストと板状の金属を勧められた。
下っ端兵士が身体を鍛えるために、重り入りのベストを付けることがある。その古着らしい。
「鍛える?」
「ああ。筋肉をつけるために重りを持ってトレーニングするだろう?
いつも重りがあるなら、そのつもりで身体を動かせば一石二鳥じゃないか?」
露天商は朗らかに笑う。
「僕は将来魔術師になるつもりですが」
「魔術師でも身体を鍛えて損はない。
それに鍛えた方が女の子にモテるぞ」
「モテますか?」
露天商は自信満々に頷いた。
「アンタ、昼ご飯買って来たよ」
そこに、串焼きやらパンやらを入れた籠を持つ美女が現れた。
「これ、俺の女房」
さり気なく抱き寄せられた奥さんはボンキュッボンだ。
そして、よく見れば露天商は筋骨隆々。
エリクは素直にベストと重りの代金を払い、アドバイスの礼を言った。
先達の意見を尊重するスタイルのエリクは、順調に背を伸ばした。腕輪を外せるようになってからも、それなりに筋肉を鍛え続けた。
おかげで王立魔術師団に入る頃には女性とすれ違えば、ほぼ二度見されるようなイケメンに育ったのだ。
露天商の予言通り、モテてはいるのだ。しかし残念ながら、仕事と研究で女性と付き合う暇がなかった。
「もうじき、僕の誕生日ですが、先生もパーティーにはいらしてくださいますよね?」
森に籠ってから、もう五年が過ぎた。
誕生日が来れば、ジョエルは十歳。
「もちろんだ」
ジョエルが魔力を完全に制御できるようになるまで、もう少しだけ時間がかかる。それまで、森から出る時には先生の付き添いが必須だ。
「実は、僕の親戚に二十四歳の独身のお姉さんがいるんですけど」
女性の二十四歳は、ここらでは立派な行き遅れである。
「お祖母さんの介護をしていて、時期を逃したんですよ」
「それは、殊勝な女性だな」
「そうなんです。優しくて働き者で、不細工を差別するつもりは毛頭ないですけれども、彼女は美人です」
「美人なのか」
「しかも、家事と介護を両立させていた働き者ですから、スタイルも良い」
「ほお」
「幼い僕の口から言うのも何ですが、控えめに言って巨乳です」
「ボンキュッボンか」
「しかも、気が強い」
「……むう、見事だ」
先生の好みの把握が、ではない。
雑談をしながらも、授業は行われていた。
今日は訓練実習だ。
決められた手順に従い、多彩な魔法を次々と的に当てていく。
時間制限があり、タイミングも大事だ。
しかも、訓練中に雑談を挟むという、同時にいくつものタスクをこなす高度な訓練。
内容はアレでも、立派な訓練なのだ。
全魔法的中。今日の実習は満点だった。
「上出来だ」
「わあい。先生、ありがとうございました」
「うむ。……ところで、ボンキュッボンの二十四歳の件だが」
「はい。本当の話なので、ちゃんと当日会わせますから」
「よろしく頼む」
先生は今年三十歳。チャンスは逃せない。
「ところで、そのお姉さんとはいつ会ったんだ?」
親戚のお姉さんと言えど、森には簡単に入れない。
「ああ、いつも野菜を届けてくれるんです」
森全体に侵入防止用の結界が張られている。衣食住に必要な物を搬入する時には、結界の端に作った扉を開ける仕組みだ。
鍵は世話係が持っている。
「森の近くに住んでいて、農業をやってるんです。
僕は扉には近づかないので、遠くからお姉さんに手を振るだけです」
「畑をやっているのか……」
「田んぼもあります。オムライスに使うお米は、そこでとれるんです」
手に職を持つ女性。ますます良い。
その帰り道、先生はいつもより饒舌だった。
「君には本当に、感謝してもしきれないな」
「藪から棒に何でしょう? お姉さんを紹介する件?」
「もちろん、それもある。
それ以外にも、君の父上である公爵様が、金に糸目は付けぬから面倒を見て欲しい、と君を僕に預けた。
資金が潤沢であるお陰で、研究が進んだんだ」
「僕の力ではありません」
「そうでもない。君は今まで見てきた子供たちの中で、特に魔力が強いんだ。
それだけ、対処が難しいとも言える。
しかし、その魔力のお陰でいろいろなことが試せた」
「そうなんですか」
「ああ。そして、魔力よりも優れているのは、君の気力だよ」
「気力?」
「どんな状況でも動じずに大人をおちょくるようなことを言う。それくらい肝が据わっていないと、こんな軟禁生活には耐えられまい。
いや、耐えられているはずと他人が言い切るのはまずいか。
何か悩みはあるかい?」
「うーん。お昼にオムライスが美味しければ、ほとんどの悩みは消えていきますね。強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
「真っ赤なチキンライスも大好きですが、そろそろシンプルなバターライスにエビやホタテのたっぷり入ったホワイトソースのかかったやつが食べたいです」
「あくまでもオムライスなのだな」
「あくまでもオムライスです」
「私も是非、お相伴に与りたいものだ。
そうだな、今度、海辺の町で新鮮な魚介を仕入れて来よう」
「転移で行くんですか?」
「ああ」
「いつか僕にも、転移魔法を教えて下さい」
「そうだな。いつか教えよう」
転移魔法は上級で、まだまだたくさん学んだ先の魔術だ。
「頑張って、早くシャバに出るぞ~!」
「……シャバ」
世話係の暇つぶしにと持ち込まれた大人向けの雑誌を盗み見て、ジョエルは俗世間の言葉や風俗を覚えた。
それはさておき、軟禁状態に置かれている彼がグレずに育ったのは、エリクの指導に加えて、二十四時間つきっきりだった世話係の手柄だろう。
世話係は名をカイロという。
一応、公爵領の隅っこの田舎村で生まれ育った領民ということになっている。
だが本当は、この国の民ですらないのだ。
王国から二つ国をまたいだところに、広大な砂漠が広がっている。
つい十年ほど前まで、そこには地下資源の採掘で栄えた国があった。
貴重な鉱石を輸出することで、小さな国は潤った。
だが、贅沢を覚えた王族たちは傲慢で怠慢になっていった。
発端は一人の王。彼は小国に不似合いなハーレムを作り、たくさんの子をなした。
その結果、王位を争って兄弟同士、家族同士が血を流し合う。
結局、誰もいなくなるまで争いは止まらず、国は亡びた。
実際に手を汚したのは、宰相補佐の率いる暗殺部隊だ。
要領がよく、人たらしの宰相補佐は敵対する双方から仕事を請け負った。
もちろん、暗殺部隊は国のための組織。王族とはいえ、私用で使うわけにはいかない。だがそこは口八丁の宰相補佐。うまく相手を丸め込み、なんなら積極的に暗殺を受注した。
そうして、口止め料を吊り上げ、自分の懐だけを潤した。
結局、その宰相補佐も争いに巻き込まれて死んだのだが。
カイロは、その砂漠の国の暗殺部隊の一員であった。
王族が、まだ多少はまともだった頃には、諜報員として国外でも働いた。
いろいろな場所に潜り込むために、いろいろな職業に就かねばらなぬ。
一を聞いて十を知るタイプの彼は、見習いとして潜入した職場でも短期間で腕を上げ、任務を終えて職を辞する時に引き留められないことがないほどだった。
務めに忠実だった彼は、最後まで国に尽くした。
宰相補佐の行為が、やがて国を亡ぼすだろうと予想できたとしても、上司の命令は絶対だったのだ。
王国は無くなり、彼は生き残った。
仕える相手がいなくなり、ぼんやりと過ごす日々。
国は亡びたが、民たちはたくましい。
砂漠を見限った者は他の土地を探して去り、残った者はオアシスで商売を始める。
広い砂漠を交易路として通過する商人は少なからずいた。
その時、カイロは酒場で働いていた。
宿屋を兼ねた店で、大きな商隊を受け入れるため臨時に雇われたのだ。
酒場には商隊の男たちが数人いて、母国語で雑談していた。
『あー、トファイラが飲みたい!』
『隊長、あと半月の辛抱ですから』
トファイラは確か、二つ向こうの国の酒だったな、カイロは思い出した。
その国に滞在した時に飲んだ覚えがある。
風味が落ちやすいので、輸出は出来ない。
だが、似た味の酒なら用意できる。
「よろしければ、こちらをどうぞ」
カイロは隊長に、一杯の酒を出した。
「ん? これは?」
訝しみながらも、隊長は口にする。そして、驚いたあと笑顔を浮かべた。
「うん、悪くない。ありがとう」
二泊した隊が出発する前、隊長に声をかけられた。
『もし、よそへ移る気になったら、是非、私の国を訪ねて欲しい』
手渡されたのは美しい紋章付きのカード。
ルクヴルール公爵家と書かれている。
『なぜ、俺に声をかけたんですか?』
『我が王国の言葉を理解していたのは、このオアシスでは君だけだった。
おそらく、君はもっと広い世界を見てきているだろう。
君には、この場所は狭いのではないか?』
商隊の隊長はジョエルの祖父だった。外交半分、商売半分の長旅の帰途である。
行く当てもないカイロは、商隊とともに砂漠を去ることに決めた。
珍しく、縁などというものを信じてみたくなったのだ。
公爵家の下男から始めたカイロだったが、とにかく何でも出来る。
知識は豊富で語学も堪能。あれよあれよという間に執事見習いまで引き立てられた。
順調すぎて怖いくらいだと思い始めた頃、公爵家にジョエルが生まれた。
美しい子だったが、どこか幼子とは思えない緊張感があるように感じた。
そして、魔力の暴発。
近くにいたカイロはぶち抜かれた壁の下敷きになりそうだった使用人を、素早い動きで見事に救った。
その能力を高く買った公爵家は、彼にジョエルの世話係を頼んだ。
子供の世話係とはいえ、危険手当がついて相当な給料が払われるという。
二つ返事で引き受けた。
森に籠る時も同様だ。万一の危険を考えれば、世話係の人数は少ない方がいい。自分一人で大丈夫だと胸を叩いた。
諜報員や暗殺部隊として働いていた彼からすれば、一人で仕事を回す方がかえって効率が良く、何より気楽だった。
公爵家にいた時は食事は厨房で作られ運ばれてきたが、森では料理も世話係の仕事だ。
ジョエルが飽きないよう、外国の珍しい料理をいろいろ出してみたところ、オムライスが気に入ったようだ。
この国の他の地域では、米は簡単に手に入らない。だが、ジョエルの祖父の交易のお陰で、公爵領では水田もやっていた。
誕生パーティー当日。
場所は公爵領。ジョエルが籠っている森のすぐ側だ。
参加者は家族と、領内に住む親戚など内輪だけ。
その分、気取らない野外パーティーで、マナーもうるさくは言われない。
そうでなければ、平民のエリクなどは姿を消して隠密警護に徹してしまうだろう。
ジョエルがエリクに紹介した親戚のお姉さんは、まさしくボンキュッボン。
「お祖母さんの介護をされていたとか?」
エリクが水を向けると、カラカラと笑われた。陽気な女性だ。
「介護なんて、してませんよ。
お祖母ちゃんは、亡くなる前の日まで畑で元気に働いていました。
わたしが家族の中で一番農業が好きだったから、一緒に仕事をしただけです」
「大往生ですか」
「おかげさまで。……あら、カイロさん! ちょっと失礼しますね」
顔見知りのカイロを見つけ、女性は去ってしまった。
「ジョエル君」
「なんでしょう、先生」
「どうも、彼女はカイロに気があるような気がするが」
「情報不足は謝りますが、男女の機微は僕にはわかりかねます」
「そうだな。君は確かに、私に彼女を紹介する、と言っただけだからな」
「そんなことより、ご相談があります」
「私の期待は、そんなに軽くも無かったのだが、まあ聞こう」
「僕を先生の弟子にしてください」
「君を弟子に?」
「一緒に、魔力過剰の子供を助ける研究をしたいんです」
「……ジョエル」
「僕は、まだ子供で、勉強もこれからだから、研究の手伝いが出来るまでに時間がかかると思います。
でも、仮にも公爵家の息子です。
僕を弟子にしてくれれば、うまいこと言って、父上から研究費を出させます」
「君という子は、なかなか魅力的な提案をするね」
「父上は腹黒狸なので金儲けが得意なのです。
儲けた金は、世の中に還元するのが筋だと思います」
「君のことを心から心配して、私に託した御父上だぞ」
「……愛に溢れた腹黒狸です」
腹黒狸は譲らないジョエルの頬が少し赤くなった。
「そして僕は一番弟子として、将来、先生の相棒になるのが夢です」
「いい夢だ」
「坊ちゃま、先生、オムライスが出来上がりますよ!」
料理の並んだテーブルの側で、カイロが呼んでいる。
「オムライス! でも、トマトソースの匂いがしない」
ジョエルは、まるで犬のように空気の匂いをくんくん嗅いだ。
「……この匂いは、魚介。エビとホタテ? 先生、もしかして」
「誕生祝だ。奮発して、活きのいいのを仕入れてきたぞ。
三十センチの巨大エビは、フライにしてもらうように頼んだ」
「三十センチのエビフライ! 先生、ありがとうございます!」
満面の笑顔が弾ける。
ジョエルが森を出られるまで、あと少し。
その後は公爵家に戻って十二歳から始まる王立学園入学の準備をしなくてはならない。
そして卒業までは六年。
いや、賢いジョエルのことだ。飛び級して、さっさと卒業し、ある日突然、魔術師団の扉を叩くかもしれない。
「突然の訪問、お許しください。
僕はジョエル・ルクヴルール。エリク・ダルシアク先生の一番弟子です。
先生に取り次いでいただけますか?」
その日まで、しばしのお別れだ。