9 『警鐘』
光ヶ原高校の正門を潜って生徒玄関へと向かう。家を出てからほとんど絶え間なくクレセと軽口を叩き合っていたからか、時計の示す時刻はいつもより五分ほど遅い。それでも全体的に見れば早い登校時間だから、生徒玄関付近に生徒の姿はほとんどなかった。
吸い込まれるように生徒玄関を潜り、下駄箱を開く。
「ん」
と、上履きの上に『四角くて薄いもの』が置かれていた。
外靴をしまい、上履きと一緒に引っ張り出す。
「……まさかな」
手に持った花柄の封筒を見て悠一は呟く。
――ラブレターか?
そんな可能性が脳裏を過ったが……まさかそんなものが届くはずがない。ラブレターなどとうの昔に死滅しているはずだ。現代の主流はSNSを通しての告白らしい。
「なにがまさかよ。またラブレターに偽装した殺人よ――」
悠一の手に持った封筒を見た途端、クレセが固まった。
「ちょっとあんた……それどうしたのよ?」
柄にもなくクレセが焦っている。
「ああ、これか? 下足箱に入ってたんだ。僕にもモテ期が到来したのかな」
なんて冗談めかしたことを言っても、クレセは少しも笑わない。
「冗談じゃないわよ。だってそれは……あんたほんとに覚えてないの?」
クレセの肩が目に見えてわなないている。瞳も不安げに揺れていた。
「覚えてないよ。……ラ、ラブレターをもらうのなんて、は、初めてだからな」
照れ混じりに言うと、薔薇色の空気をかき消すような重たい嘆息が返ってきた。
「なるほどね。そうやって昨日もあいつに誘導されたってわけね」
「だからなんのことだよ」
さっきからクレセがなにを言っているのか、さっぱりわからない。
「まずは手紙を読んでみなさい。話はそれからよ」
「ここで読めっていうのか?」
「ええ、そうよ。……ああ、万に一つもラブレターなんて可能性はないから安心して頂戴。期待するだけ無駄よ」
「あのな……もし、ラブレターが入ってたら土下座させてやるからな」
半眼で銀髪の少女を睨みつけながら、封筒を開いて便箋を取り出す。丁寧に三つ折りにされた便箋だ。胸を昂ぶらせながら開くと――
――満月の夜にあなたを殺します。
と、端的に。絵の具のような赤い液体で文字が綴られていた。
「……は、ははは。悪戯にも限度ってもんがあるだろ」
見なかったことにして便箋を折り畳もうとし――便箋の裏面がやけに湿っぽいことに気づいた。違和感の正体を確認するように、何の気なしに便箋を裏返すと――
――文脈はすべて高鷲くんの血で綴られて頂きました。
「……」
悪戯なのか、はたまた事実なのか。そんな迷いが生じたのは一瞬で、いやに鮮明な赤い液体が、手紙の信憑性を裏打ちしてしまっていた。
綴られた赤い文字が、悠一の血であるということを……。
「ね、ラブレターじゃなかったでしょ?」
げんなりとクレセは肩を竦める。
「覚えてないかも知れないけど、あんたは昨日、山吹彩里に深夜の教室に呼び出されて、そして、殺されかけたの。どうしたわけか、当の本人はあの時の怪我がまるでなくて、今もピンピンしてるんだけどね」
すうぅと青い瞳が細められる。まるで悠一を訝るように。
「……なるほど。だから、僕は医務室で目を覚ましたのか」
昨夜、彩里に襲われて怪我を負い、その治療を医務室で行い、そのまま眠ってしまったから悠一は医務室で目を覚ました。そう考えれば、今朝までの空白の時間が埋まる。
「そういうこと。どう。少しは昨晩のことを思い出せたかしら?」
悠一はお手上げだと言わんばかりの呆れ顔で首を振った。
「残年ながら相変わらずだよ。というか、山吹さんに手紙をもらったことも覚えてない」
昨日の朝から夜の十一時頃にかけての記憶は戻ったのだが、彩里に手紙をもらった覚えはない。偶然その記憶だけが深夜の記憶と共に欠けた、と解釈することもできるが、彩里との記憶だけがピンポイントで欠けているというのはかなり不自然だ。
「そ。でも山吹彩里っていう女の子のことは覚えてるのよね?」
「当然だろ。クラスメイトなんだから」
慎吾の名前すらもろくに覚えていないクレセと同じにしないでほしい。
意を得たとばかりの笑みを浮かべると、クレセは白銀の髪を手で払って身を翻した。
「ならいいわ。……やっぱりあんたはあいつの攻撃を受けてたのね」
声を潜めてクレセが呟いた意味深な言葉は、一言一句逃すことなく聞き取れた。
「攻撃を受けた記憶なんてまるでないけど」
茶々を入れても、クレセは一顧だにせず足を進め続ける。
「記憶がなくても、あんたがあいつの存在を知覚していることがなによりの証拠よ。ま、教室に行けば嫌でもわかるわ」
「なにがだ。主語をはっきりしてくれ」
そう要求したところで、クレセのけんもほろろな態度が変わらないことは目に見えている。
「百聞は一見にしかず。聞くよりも実際に見た方が話が早いわ。付いてきなさい」
「はいはい。わかりましたよ」
反駁などするだけ労力の無駄だ。悠一は犬のように忠実に命令に従い、クレセの後ろを黙々と歩く。仮に犬になったとしても、こんな傲慢なご主人様は絶対にごめんだ。
教室に入ると、珍しいことに遅刻常習犯の慎吾が既に登校していた。
「おっす悠……一……」
隣には陽介の姿もある。
「おはよう赤坂、青山。どうしたんだ二人とも。顔色が悪いぞ」
「いやだって……」
陽介は珍しく冷静さを欠いた様子で、
「瑞浪さんと並んで登校してくるんだから驚いて当然だろ」
「あー……まぁ色々あってな」
どれもにわかには信じがたいことばかりだが。
目配せすると、クレセは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「なによ気持ち悪い。私の美貌に見惚れたの?」
容姿は百点だが、内面で百二十点の減点だ。
「誰が惚れるか。お前を見てると、外見も性格も完璧な人間なんていないんだなってつくづく思うよ」
「おいおい流れるように夫婦漫才し始めたぞ。さてはあの二人、既に付き合って……」
戦々恐々と有り得ない可能性を口にする慎吾の首根っこをクレセが掴みあげた。
「赤井くん。その続きを口にしたら自慢の髪をむしり取るわよ?」
満面の笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。
「は、はは。冗談キツいな瑞浪さんは。それに俺、赤井じゃなくて赤坂だぜ?」
残念ながらクレセは冗談など言わない。場合によっては頭髪が絶滅して野球部にも負けず劣らずの坊主頭にされることも覚悟した方がいい。
「どっちでもいいじゃない。所詮、下等生物は下等生物なんだから」
「いや瑞浪さんも人間だろ……」
呆れたように漏らす陽介を、クレセは大蛇の如き凄みを利かせて黙らせる。どこまでも絶対王政のクレセだった。
「ま、髪をむしるってのは冗談だけどね」
軽い口調で言って、クレセは慎吾の首根っこから手を離す。
「けど、次、悠一と私がどうこう言ったら物理的にお口チャックするから」
そんな捨て台詞を残して、クレセは踵を返す。
「……なあ悠一。あれってまさか本気じゃないよな?」
ぎこちない笑みを貼り付けて慎吾が尋ねてくる。
「さあ、どうだろうな」
「けど瑞浪さん、ホッチキスに芯補充してるよ。ホッチキスを使う場面なんて今日の授業であるか?」
陽介の視線の先を追うと、クレセがかちゃかちゃとホッチキスの試し打ちをしていた。
なるほど。ホッチキスで物理的にお口チャックをなさるつもりらしい。
「……悠一。俺、今日死ぬのかな」
慎吾は既に涙目だ。わなわなと身体を震わせている。
「忠告された通り、僕とクレセがどうこう言わなきゃ大丈夫だろ。それにあれは照れ隠しだ。そう思えば可愛いもんだろ?」
慎吾の不安を払うために、そんな冗談を口にしてみる。しかし、それが仇となった。
「――悠一。今日お昼一緒に食べるわよ」
背後から聞こえた声に振り返ると、喜色満面のクレセがいた。数秒前まで席に着いていたはずなのだが、果たしていつの間に移動したのだろう。
「カブトムシの幼虫かクワガタの幼虫。好きな方を選ばせてあげるわ」
どちらも嫌な場合は、恣意的に三択目を開拓してもいいのだろうか。
「どっちも地獄なんだけど気のせいか?」
「そうクワガタ。冗談だったんだけど、あんたが本気なら仕方ないわね。……あ、咲夜?悠一がクワガタの幼虫をお昼に食べたいらしいんだけど、用意してもらえるかしら?」
スマホを耳に当ててクレセは一人芝居を始めた。
「無理? 冗談はよしなさいよ咲夜。あんたに不可能の二文字はないんでしょ? ……うん。さすがよ咲夜。それでこそ自慢の腹心だわ。じゃ、お昼に屋上で」
抜かりなく画面をタップする仕草までして悠一を振り返る。
「そういうことだから。悠一、お昼は屋上よ。来なかったら死刑だから」
「拒否権はないんだな」
げんなりと呟くと、
「要するに。あんたの予約をしたのは私が一番だから」
びしっと悠一を指差して宣言し、クレセは自席に戻っていった。
「……悠一、やっぱお前、瑞浪さんと付き合って――」
瞬間、ものすごい勢いで飛んできた消しゴムが慎吾の額に命中した。
「馬鹿を言うな赤坂。ツンデレヒロインなんてとうの昔に死滅してんだよ」
変に期待してはいけない。ツンデレ属性というのは男子の空想から生まれた存在なのだ。理想なのだ。だから、ツンツンしているからデレると可愛いなんて思ってはいけない。
そもそも、ツンツンした子がデレるという保証はどこにもないのだ。