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終ノ夜  作者: 風戸輝斗
第1章 
8/29

8 『日常』

「おにぃ。いい加減起きろよ」


 不機嫌そうな声と共に、身体を激しく揺さぶられて悠一は目を覚ました。半ばぼやけた視界に映るのは妹のむくれた不満顔。布団をはいで勢いよく身体を起こす。


「うわっと! 危ないなぁ。もう少しでおでことおでこが交通事故してたぞ」

「それは接触事故って言うんだけどな。……あのさ、僕の頬を叩いてくれないか?」


 突飛な展開ばかりで、どこまでが現実でどこまでが夢か、判別がつかない。今のこの状況が夢という可能性も無きにしも非ずだ。


「ん。いいけど」


 要望通り葉月は悠一の頬を叩いた。容赦のない全力のフルスイングで。


「……誰がフルパワーで叩けって言ったよ」


 頬がじんじんし、口の中では鉄の味が充満している。


「過程はともかく、目がギラつくほど覚醒できたんだから、結果オーライじゃないか?」

「なにが結果オーライだ。危うく三途の川を往来するところだったぞ」

「じゃあ私が送ってあげましょうか?」

「あのな葉月。兄に向かってその口の利き方は……」


 ――ん。葉月が女の子らしい口調で喋ったことなんてこれまでにあったか?


 というより、声の発生源がそもそも正面ではない。声のしたドア付近を振り返り、直後電流のような衝撃が全身を駆け巡った。


「お、おまっ、どうして……」


 声にならないが仕方ないだろう。目の前の光景があまりに異常なのだから。


「なによ。言いたいことははっきり言葉になさい」


 エプロンを着たクレセが、ドアに体重を預けて立っていた。


「なあなあ、クレ姉。今日の朝飯はなんだ?」

「葉月ちゃんの要望通りフレンチトーストよ」

「やったー! 三日連続フレンチトーストだ! クレ姉がいるなら、もうおにぃはいらないや」

「僕はティーバッグかよ」


 げんなり呟くと、負けず劣らずの呆れの籠もった溜め息をクレセが漏らした。


「相変わらず壊滅的なツッコミセンスね。人生やり直したらどうかしら?」

「人生にリトライ制度は導入されてねぇよ。そんなことより、今の状況を説明してくれないか?」


 葉月の打ち解けようを見るに、現状を理解していないのは悠一だけだろう。

 クレセは顔色ひとつ変えずに、


「私は夜間に不審な行動をしていたあんたを監視するためにきた。それだけで今は納得してくれないかしら?」


 と言った。


「は?」


 そんな酔狂なことを悠一が仕出かしたというのだろうか。


「失望したよおにぃ。まさか、人気の少ない夜中に公園に設置された女子トイレを隙間から覗いていたなんてね……あたしでよければ相手してあげようか?」

「誰が妹に発情するか。居候も真面目な顔で捏造はやめろ」


 ――捏造だよな?


 記憶は曖昧だが、たとえ血迷ったとしても、女子トイレを覗くような真似など絶対にしないはずだ。そもそも、悠一にはえっちな本を買う勇気さえない。


「葉月ちゃん。フレンチトーストが冷めちゃうから先にリビングに行きなさい。お姉ちゃんと覗き魔もすぐに行くから」


 そんな不名誉なあだ名はいらない。


「うん、わかった。……おにぃ。あたしはおにぃのこと信じてるからな」

「誤解だ。そんな優しい目で兄を見るのはやめなさい」


 どこか寂しそうに微笑んで身を翻すと、葉月は足早に階段を下りていった。そして間もなく「うまい!」と大音声が家中に響き渡る。喜怒哀楽の変化が激しい妹だ。


「こんなダウナーな兄からどうすればあんな可愛い子が生まれるのかしら。さては養子?」

「まさか。正真正銘、僕の血を引いた自慢の妹だ」

「そんな堂々とシスコン発言されても困るんだけど」


 薄ら笑いを浮かべると、クレセは部屋に足を踏み入れて、少しの抵抗もなく悠一のベッドに腰掛けた。悠一との距離は三十センチもない。これがクレセの距離感なのだろうか。


「まず謝っておくわ。なんの説明もなしに振り回してしまってごめんなさい」


 と、あろうことか開口一番頭を下げてきた。あの強情なクレセが、だ。


「別に構わないよ。なにか事情があったんだろ?」

「あら意外に優しいのね。じゃあ今の謝罪は忘れてちょうだい。ストックがもったいないわ」

「謝罪をストック制にしてんの全世界でお前くらいだろ……」


 本当は素直かも知れない、と一瞬でも思った悠一が間違いだった。やはりこの傍若無人な態度こそが、クレセのクレセたる所以のようだ。


「話したいことはたくさんあるんだけど、まずは最低限のことだけ伝えておくわ」


 それは悠一にとってもありがたいことだ。一息に数多の情報を羅列されたとしても、うまく咀嚼できずに混乱状態に陥るに違いない。


「わかった」

「あら素直なことで。……まず、どうして私が高鷲家にいるかなんだけど、あんたが〈幻影種〉に襲われて『怨傷』を負っているから、っていうのが理由よ」


 さっそくよくわからない。


「えっと……どういうことだ?」


 イドラ、という単語は何度か耳にしている。真白と火狩も口にしていた。


「ま、要するに、今後、あんたが信じられないほどの不幸に見舞われるだろうから、それを事前に防いだり、守ったりするために私がいるってことよ」

「なるほどな。よくわかんないけどわかったよ」


 火狩が言っていた。嘘みたいな非現実がお前を待っている、と。

 何度も聞いたイドラという単語。ツキヨノ隊という聞いたこともない組織名。目映い光の後に、見知らぬ場所に移動していたという超常的な現象。

 立て続けにやってきた非現実の数々は、とっくに悠一のキャパを超えている。


「今はそんな感じのあっさりした理解で構わないわ。続きは放課後にカフェでお話ししましょう」


 その様子を同級生に目撃でもされようものなら、スキャンダルになること間違いなしだ。性格はひどいものだが、クレセは一部の生徒の間で神格化されているのだ。


「……あと一つ、訊いてもいいか?」

「ん。なにかしら」

「瑞浪さんか、居候か、僕はお前をなんて呼べばいいんだ?」


 そんな無垢な質問に、クレセはため息混じりに答えた。


「普通に『クレセ』って選択肢はないのかしら?」



 三日連続でフレンチトーストなんて地獄にも程がある。

 通学途中に自販機に立ち寄った悠一は、ベンチに腰掛けていつもの缶コーヒーを飲んでいた。けれど、いつもと違うこともあって、


「少し甘すぎたかしら?」


 隣に腰掛けたクレセが、不満げに眉をひそめる。

 こうして制服姿のクレセと並んで腰掛けていると、ようやくいつもの日常に戻って来たのだと実感が湧いてくる。平穏な日々のありがたさを、悠一は非現実に巻き込まれて初めて痛感していた。


「いつものことだよ。クレセは悪くない」


 実際に昨日も一昨日も、この場所で同じ缶コーヒーを飲んでいる。


「いつもって……もしかしてあんた、そっち系?」


 いらぬ誤解をしたクレセが、冷めた瞳を向けてくる。


「そっちってどっちだよ。僕にそんな性癖はないから安心してくれ」

「ツッコんでおきながら、しれっと答えちゃうなんて三流ね。路上から出直したら?」

「別に漫才師なんて目指してないんだけど」


 コーヒーを一息に飲み干して立ち上がる。胸の不快感は綺麗さっぱりなくなっていた。

 いつもの通学路をクレセと並んで歩く。立ち並んだ家屋からは、犬の鳴き声や子供の声、TV音声なんかが聞こえてくる。生活感溢れる音の数々だ。


「……ツキヨノ隊ってどんな組織なんだ?」


 五分ほど無言で歩いた後、悠一は沈黙に堪えかねて問いかけた。


「月に夜で『月夜』、そこに沖ノ島の『ノ』と軍隊の『隊』を加えて月夜ノ隊よ」


 悠一が片言だったからだろうか。至極丁寧に教えてくれた。


「月夜ノ隊は明るみになっていない。だから、誰も月夜ノ隊の存在を知らないの。街の平和のために命を落とす人も少なくないっていうのにね」


 投げやりな物言いだ。瞳には怒りも悲しみも宿っていない。


「公表しないことにはなにか理由があるのか?」

「ええ。公表したところで、なんのメリットもないからよ。幻影種なんて非現実的な存在を国民に伝えたところで不安を煽るだけだから」


 またイドラだ。こう何度も耳にしていると、さすがにむず痒くなってくる。


「そのイドラってのは、なんなんだ?」


 赤信号で足を止めたタイミングで問いかけると、クレセは思案顔を浮かべた。


「……端的に言えば、人間の憎悪や嫉妬みたいな負の感情が具現化したものってところかしら。そんな行き場を失った感情が、毎晩午前零時から一時の間に出現するの。悪霊の類いだと思ってくれればいいわ」


『幻影』に『種』と書いて〈幻影種(イドラ)〉。漢字ではそう表記するのだそうだ。

 月夜ノ隊も幻影種もにわかには信じがたいものだ。けれど、確かに存在している。存在しているのに、悠一が知らなかっただけなのだ。きっと……。


「さ、もうすぐ学校よ。暗い話はやめてもっと明るい――」


 と、小路を抜ける直前で振り返ったクレセの顔が唐突に強ばる。

 どうしたのかと悠一が問うよりも早く、クレセが軽く地面を蹴り上げて宙を舞った。

 悠一の頭上二メートル地点に到達すると、クレセはストッキングに覆われた細い足を回して花瓶を蹴り飛ばした。円弧を描いて、花瓶が草叢に落ちる。


「なるほど。こんな感じで不幸が襲ってくるのね」


 制服が乱れていないことを確認すると、クレセは鞄を肩に引っ掛けて、何事もなかったかのように歩き始めた。

 その背中をしばらくあんぐりと口を開けて見つめた後、悠一は我に返って、クレセの元に駆け寄った。


「いや不幸なんてレベルじゃないだろ」


 通学途中に花瓶が頭上に落ちてきた、なんて話は聞いたことがない。偶然というより、奇跡と表現した方が正しいような出来事だ。皮肉にも幸運ではなく不運の方の軌跡だが。


「……っていうか、お前さらっと二メートルくらい飛んでなかったか?」

「それがどうかしたの? 隊士ならあれくらい技術の援助なしでできて当然よ」


 果たして二メートルの垂直飛びを平然と行う集団を人間と称して良いのだろうか。

 悠一の常識がとてつもない早さで塗り替えられていく。


「僕は六十センチしか飛べないなあ」

「あんたは所詮、下等生物なんだから仕方ないわよ。金メダルを獲りたいならバッタを師にでも仰いだらどうかしら」

「誰が下等生物だ。それにオリンピックも狙ってない」

「それは残念だわ。せっかくあんたが夢を志すも現実に打ちのめされて衰退する姿をドキュメンタリー形式で発表して賞を取ろうと思ってたのに」


 そんなカタルシスの欠片もない映画が賞を取ったら映画業界も末期だ。


「誰も見ないだろそんな映画。後味最悪じゃないか」

「……ところで悠一、さっき私のパンツ見た?」


 白くて薄い布を見た気もするが、きっと見間違いだろう。


「……見てない」

「火刑か溺死、どっちがいいかしら? あ、刺殺って選択もあるわよ」


 どの道、死からは逃れられないらしい。

 昨日までは必要最低限の言葉しか交わしていなかったクレセ。けれども彼女は今、表情をころころ変えながら、悠一と憎まれ口を叩き合っている。

 そんな嘘みたいな現実がおかしくて、悠一はつい吹き出してしまった。

 彼女との距離が縮まったことは、突如巻き込まれた非現実の中での唯一の利点だろう。

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