7 『入隊』
――どういうことだ?
意識が覚醒してから何度も瞬きを繰り返し、ようやく悠一の脳内で湧いたのはそんな素朴な疑問だった。
視界いっぱいに広がる真っ白な天井。無機質に生成される駆動音。そして、隣の椅子に腰掛けてこくこくと頭を上下させる金髪の少女。
「……」
さらに瞬きを数回する。が、景色に変化はない。
頬を抓ったら当然のように痛みが走った。
「……どこだここ?」
ぽつりと呟くと、隣で眠っていた金髪の少女の目が開いた。晴天を映したかのような空色の瞳。
ぱちぱちと目を瞬かせると、彼女は「あっ!」と声を上げて勢いよく立ち上がった。
「す、すいませんっ! 仮眠のつもりが熟睡してしまいました!」
開口一番、ペコペコと頭を下げて謝罪してきた。
「いいよ謝らなくて……ところで、君は誰かな?」
欲しいのは謝罪ではなく情報だ。まずは彼女の素性を知りたい。
「私、ですか? 月夜ノ隊岐阜支部所属、三日月隊・東山真白です」
「すごい肩書きだな」
ツキヨノ隊とはなんだろうか。自衛隊とか消防隊の類いだろうか。
悠一はこれまでにその名を耳にしたことがない。
「東山さんはツキヨノ隊でどんな役割を担ってるんだ?」
役職を聞けば、ツキヨノ隊がどのような組織かわかるかも知れない。
「負傷者の手当です。私は三日月隊の一員なのですが、瑞浪さんも黒川くんも滅多に怪我をされないので、基本怪我をした人なら誰でも治療しています」
驚いた。彼女は医学に精通しているらしい。
童顔だから見積もっても同世代くらいかと思っていたが、もしかしたら相当年上なのかも知れない。
「そんな大勢が怪我を負うような職務なのか?」
「はい。幻影種はとても乱暴なので。……亡くなる方も少なくありません」
真白の顔に影が落ちる。語勢が弱くなるに連れて、視線が床に落ちていった。
イドラとはなんだろう。これもまた、耳に馴染みのない言葉だ。
知らない単語の数々に悠一が首を傾げていると、閉鎖されていた純白の扉が自動で開き始めた。間もなく、来訪者の姿が見えてくる。
腰下まで伸びた繊細な銀髪。海面を映し出したような青色の瞳。
どこか不機嫌そうな表情の来訪者は、悠一の見知った人物だった。
「……真白。高鷲くんが目を覚ましたら真っ先に連絡してって言ったじゃない」
そう言って溜め息をつくのは、クラスメイトの瑞浪クレセだ。
「すっ、すいません。その成り行きで……ダメでしたか?」
上目遣いで真白が問いかける。横顔しか見えていない悠一でさえも、ドキッとしてしまう仕草だ。無性に庇護欲をそそられてしまう。
「全然問題ないわよ。悪いのは全部高鷲くんだから」
とんだとばっちりだ。
「僕がなにをしたっていうんだよ」
この理不尽な物言いは間違いない。彼女は悠一のよく知る瑞浪クレセだ。
「で、ここはどこだ?」
砕けた態度で問いかける。知人だから無理にかしこまる必要はない。
「月夜ノ隊岐阜支部一階、普通医務室よ。さ、そんなことより早く報告に行くわよ」
口早に言い切ると、クレセは早々と踵を返した。
「まるで理解が追いついてないんだけど」
「いいから来なさい」
「……」
なにを言っても無駄そうだ。ここは命令に従っておこう。
ベッドから立ち上がると、身体がぐらついた。足に力が入らない。
「大丈夫ですか?」
駆けよって真白が身体を支えてくれる。これなら歩けそうだ。
「ありがとう東山さん」
「いえいえ。これくらいしか私にはできませんから。ゆっくり歩きましょう」
踏み出して間もなく、金糸の髪から漂う甘い香りと、薄い布一枚越しに感じる柔らかい指の感触に悠一は自身の選択を後悔した。
――これはヤバいだろ。
快感が全身を駆け巡り変な気分になってくる。呼吸が荒くならないように抑えて。下半身の一部分が元気にならないよう意識しないようにして。これは新手の苦行だろうか。
「目的地……月夜ノ隊幹事室。転移門拡張展開」
不意に、クレセが扉の前で呟いた。
そして次の瞬間、扉が煌々と輝き出し――瞬きをした次の瞬間には、目の前に見慣れない黒い扉があった。見覚えのない堅牢な扉。それは数秒前まで医務室に存在しなかったものだ。
「なんだよ今の……」
転移した、とでも言うのだろうか。
「真白ありがと。もういいわよ」
そんな驚愕する悠一など歯牙にもかけず、クレセは平然と真白に話しかける。
「わかりました。高鷲くん。もう足に違和感はありませんか?」
「あ、ああ、大丈夫だよ。ありがとう東山さん」
「それはよかったです」
にこりと女神さながらの純真な笑みを浮かべると、真白は悠一の手首と腹部から手を離した。介護がなくてもしっかり立てる。短い時間だったが、回復できたようだ。
「次からは真白って呼んでください。私も高鷲くんと同い年なので」
そう言い残して、真白は悠一たちとは逆方向に歩いて行く。
板張りの廊下に、光を反射して輝くパールホワイトの壁。一方通行なのに、悠一はその廊下と壁を見た記憶がなかった。
「……この不可解な現象の説明も省略か?」
悠一は雀の涙ほどの希望を抱いて、隣にたたずむ銀髪の少女に問いかけた。
「あら、高鷲くんの癖に察しがいいじゃない。特別に私と同じ空気を吸うことを許可してあげるわ」
「お前の許可なしには呼吸もできないのかよ……」
相変わらずの暴虐皇女っぷりに悠一は嘆息し、けれども同時に、安心感も覚えていた。 わからないことだらけの今の状況で、クレセという知人がいることだけが、悠一にとって唯一の救いだった。
「高鷲くん。あらかじめ伝えておくけど、今、あなたの解剖実験は保留にされているわ」
「……なんて?」
なんだか物騒な単語が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
「解剖実験。私はそう言ったのよ。この距離で聞こえないだなんて相当に耳が悪いのね」
「聴力は毎年A判定なんだけどな。で、どうして僕は解剖実験の対象になってるんだ?」
一介の男子高校生が、突然、謎の施設に幽閉されて解剖された、なんて話は聞いたことがない。そんな突飛な展開が許されるのは、B級映画だけだ。
「どうしてって、それは勿論、昨夜の出来事があったからよ」
そんなこともわからないのか、とでも言うかのように、クレセはむすっと渋面を作る。
まるで知っていて当然といった口振りだが、
「……僕って昨日の夜なにしてたんだ?」
冗談抜きで本当に記憶がない。というより、昨日の出来事がまるで思い出せない。
欠落した記憶に頭を悩ませていると、クレセが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そういうのいいから。さ、とっと白状して帰りましょ」
「待てよ瑞浪さん。これは冗談なんかじゃなくて……」
「三日月隊隊長瑞浪クレセ! 昨夜、捕縛した高鷲悠一を連れてきました!」
「最後まで聞けよ……」
そんな悠一のぼやきも虚しく、扉に向かって敬礼したクレセが、ひどく冷たい瞳で睨み据えてくる。喋るな。無言でそう告げている。
――理不尽だ……。
彼女には温情が存在しないのだろうか。優しさの欠片すらも感じない。
「おう。入っていいぞ」
扉の向こうから低い男の声が聞こえてきた。固い感じはまるでしない。
「はい! 失礼します!」
クレセが取っ手を引くと、ギィィと鈍い音を立てながら扉が開いた。扉が全自動の医務室よりも明らかに重要そうな部屋なのに、どうやらこの部屋の扉は手動らしい。
「おはようございます火狩大佐!」
「おう。朝から精が出るなクレセ」
その男は壁に身体を預けて、窓の外の朝日を眺めていた。
紅蓮の双眸を備えた精悍な顔立ち。しかし、鋭い瞳からは熱を感じず、まるで一場面を切り取ったかのように動かない男の表情は、悠一に怜悧な人柄を思わせた。身長は恐らく百八十センチほど。糊の利いた黒い軍服のようなものを着ている。
男は半身を捻って悠一を向くと、口の端を僅かに釣り上げた。
「へぇ。こいつが」
男がどこか含んだ笑みを漏らす。たったそれだけの動作。それだけなのに、悠一の全身の筋肉は緊張で硬直し、鼓動は張り裂けそうなほどの勢いで加速していく。
「……よし合格だ」
男は悠一から視線を外すと、机上に置かれた書類らしきものに印鑑を押した。
その書類を、クレセに手渡す。
「いいんですか? こんなにもあっさり許可してしまって」
書類と男の表情を見比べて、クレセは怪訝そうに首を傾げる。
「おう。殺気を飛ばしても逃げ出さなかったし、なにより瞳に光が宿っていた。こんだけ条件が揃ってんなら十分だろ」
はじめこそどこか釈然としない表情のクレセだったが、やがて観念したように「そうですね」と漏らした。悠一が無事と決まったのに、どうしてそんな残念そうな顔をするのだろうか。そこは笑顔になるところだと思うのだが。
「昨日は災難だったな高鷲悠一」
悶々としていると、男が微笑みかけてきた。やはり瞳は笑っていない。
「それが……よく覚えていないんです」
このよくわかない事態を引き起こすトリガーとなった昨夜。
その時間の記憶は、今もまだ抜け落ちたままだ。
「ちょっと高鷲くん。あんた大佐にまで冗談なんて正気なの? 頭おかしいの?」
罵詈雑言がひっきりなしに飛んでくる。なかなか精神的につらい。
「お前にだけは言われたくないな。……けどさ、ほんとに昨日の夜の記憶がないんだ」
「ほう」
男の眉がぴくっと動いた。瞳に興味の色が宿ったように感じる。
「お前ら付き合ってんのか?」
「付き合ってません」
「断じて違います」
言葉が重なった。それがなんだかおかしくて微笑み混じりに横を向くと、クレセは歯を噛み締めて、うぅぅと恨めしい唸り声を上げていた。どれだけ悠一を嫌っているのだか。
「んだよ面白くない。せっかく隊員不足問題解決のつてが見えたと思ったんだけどな」
落胆した表情で男は頭を掻く。まるで締まりのない顔に仕草。気づけば、威圧的な雰囲気はなりをひそめていた。
「人手不足なら、異様に発達した技術を行使してクローンでも作ったらどうですか?」
こんな男との子を宿すくらいなら自害します、なんてクレセは言っている。瞳を釣り上げて、悠一を威嚇しながら……。
「幻影種がクローンみたいなもんだろ。配役は一人で十分だ。……自己紹介が遅れたが、俺は登龍火狩だ。よろしくな悠一」
デスクに手を伸ばすと、火狩は缶コーヒーを投げてきた。偶然にも、それは悠一が週に何度もお世話になっている、ミョウジアコーヒーだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
「おう。ってなわけで今後の話だ」
ドカッと火狩は革張りのソファに腰掛ける。
「高鷲悠一。今日からお前は三日月隊の一員だ。仲間に命を捧げて、仲間のために剣を振るえ。いいな?」
まるで有無を言わせない険のある声だ。
しかし、剣を振るえとはどのようなメタファーなのだろうか。意味を咀嚼できていない以上、はいわかりました、と二つ返事するわけにはいかない。
考え倦ねていると、クレセが慌てたように言った。
「大佐。彼は監視対象で戦闘は――」
「お前の意見は求めていない。俺は悠一に訊いているんだ。……高鷲悠一、ここで覚悟を示せ」
「……」
真剣な顔から迷いなど少しも感じられない。赤い瞳は恐ろしいほどに冷たく、仮に意にそぐわない発言でもしたのなら、首を切り落とされそうな雰囲気だ。
「……わかりました。仲間のために戦うと誓います」
そんな空気に中てられたからだろうか。気づくと悠一は、言葉の意味を理解しないまま意思表明をしてしまっていた。
「それでいい」
破顔するなり、火狩は前に傾けていた身体を後ろに倒した。
「これから先、嘘みたいな非現実がお前を待ってるだろうが、まあ、大丈夫だ。お前はあの人の子だからな」
「それってどういう……」
直後、激しい目眩に襲われて、悠一は前のめりに倒れた。昨夜あったという記憶にない出来事の反動だろうか。指先をかすかに動かすことさえもできない。
それから十秒も経たない内に、悠一の意識は現実から隔絶された。