5 『プロローグ』
まさかこんな日が訪れようとは。
瑞浪クレセは正面に立つ艶めかしい女性を前にして、強い緊張を覚えていた。
寒さのせいか、はたまた恐怖のせいか、手がかすかに震えている。
「瑞浪さん……他者との関わりを絶ち、孤独を極めていたあなたが月夜ノ隊の一員だなんておかしな話ですね」
早速攻撃を仕掛けてくるかと思い、彼女が口を開くと同時に身構えたのだが、飛んできたのは異能ではなく皮肉めいた言葉だった。殺意は感じないし、両手に武器も持っていない。どうやら、本当に意思疎通を図ろうと試みているようだ。
緊張を解いてクレセは口を開く。
「おかしいのはあんたよ彩里。まさか〈月人〉が二年間も近くにいながら気づけないなんて、私もまだまだ未熟だわ」
クレセの所属する月夜ノ隊は、秘密裏に幻影種の侵略から地上を守っている組織である。
活動内容は極めてシンプルで、午前十二時から午前一時の間、すなわち『幻想の刻』(インビジブル・タイム)の間、幻影種の攻撃を退けることだ。
幻影種――それは人間の負の感情が具現化した存在だ。
嫉妬や憎悪、悲観や嫌悪、日常の中で生じながらも行き場のない負の感情が、『幻想の刻』に統合して、一つの集合体となり暴動を起こす。それが幻影種である。
不安を煽らないために、法律ではなく条例という形で国民の行動を制限して幻影種による被害を防いでいるのだが、稀になんの気無しに夜の街をフラついてしまう人がいる。そんな国民の保護もまた月夜ノ隊に課せられた義務の一つだ。
長きに渡り、幻影種の発生過程は謎に包まれていたのだが、数年前に一人の隊士が知性を持つ幻影種を捕縛したことで、彼らがどのように繁殖しているのか謎は紐解けた。
幻影種は自分が生み出したもの。そう知性を持つ幻影種が打ち明けたからだ。
以降知性を持つ幻影種は〈月人〉と命名され、非常に高い戦闘能力と人間に近しい人体構造が特徴とされた。
その一件以降、月人が捕縛されたという記録はない。
また、その月人が自分は〈始祖〉の道具にすぎない、と言っていたことから、幻影種を生み出す月人よりも上位の生命体が存在することも明らかになっている。
始祖を討伐して夜を取り戻すこと。
それが樹立以来変わらない、月夜ノ隊の悲願だ。
クレセは毅然とした態度を崩さずに彩里と対峙しているが、胸の内は外見ほど穏やかではない。果たして自分の技術が月人相手にどれほど通用するのか、という不安に駆られていた。
「いいえ。あなたは強いですよ。だって――あなたはこうしてこの時間まで生きているんですから」
そんなクレセとは対照に、まるで緊張など感じさせない恍惚の表情で彩里は続ける。
「知ってますか。普通の人間は六割の善意と四割の悪意で構成されているんです。しかし、月夜ノ隊の方々は違います。八割の善意と二割の悪意で構成される人がほとんどです。だから、名乗られなくても月夜ノ隊の一員だとわかり、無防備な昼間に拷問して葬ることができたのですが……あなたはどうして隊士なのに、善悪の割合が平均的なんですか?」
「そんなの知らないわよ」
善意とか悪意とか、見えないし数値化できないものがどうこう言われても、知ったことではない。というより、どうしようもない。悪意の減らし方も善意の増やし方も知らないのだから。
「そうですか。少し気になっていたのですが、まあいいでしょう」
残念そうに言うと、彩里は地面を勢いよく蹴り上げた。木製の床が凹んでしまうほどの強い踏みきり。二メートル近くあったはずの距離が一瞬にして詰められる。
「――さようなら瑞浪さん」
彩里の右手にはいつの間にかバールのようなものが握られていた。一メートルを悠に越える先端の湾曲した鉄の棒。あんなものをどこに隠し持っていたというのだろうか。
しかし、そんなことはこの際どうだっていい。今は攻撃を防ぐことに集中しなくては。
「第一武器拡張展開!」
クレセが叫ぶと同時に、右手が神秘的な白光を放ち始める。
「なっ⁉」
彩里が驚嘆の声をあげる。異常を感じてバールの静止を試みたようだが――遅い。
鋭い発砲音が空気を震わせた。
「……さすが月人。幻影種とはわけが違うわね」
銃口から溢れる白い煙を確認してクレセは呟く。
クレセの手には二つの銃が握られていた。黒色の銃と銀色の銃――《透火》《麻彼》だ。
月夜ノ隊が発明した〈IOD――image objection device〉の援助により、月夜ノ隊の隊士は各々武器を創造することが可能になっている。武器の形状は隊士の潜在能力や性格によって異なり、隊士のほとんどは剣や槍、鎌など近接戦に優れた武器を創造するのだが、クレセは少数派の拳銃を創造することができた。
初めの内は不満だったのだが、慣れてしまえば小回りの利く優れもので、今や二つの拳銃は身体の一部と言っても過言ではないほどに馴染んでいる。
確実に脳天を打ち抜いたと思っていた。ゼロ距離に不意打ち。二つの条件が重なっていたから、いくら月人といえども回避は不可能だと思っていた。思っていたのに……。
「あの一瞬で二つの拳銃を創造し、防御と攻撃を同時に行うなんて……最高ですよ瑞浪さん。それでこそ、殺し甲斐があるってものです」
手の平の血をぺろりと舐める彩里。手のひらを弾丸に貫かれているにも関わらず、彩里は苦渋の色など少し見せずに、子供のように無邪気な笑みを浮かべている。
「その余裕はなにを根拠に湧いてくるのかしら。片腕で十分だって言うの」
「片腕? ……ああ、ごめんなさい。痛みが新鮮だったのでつい堪能してしまいました」
思い出したように彩里が月影に穴の空いた手のひらをかざすと、赤い液体が床に滴る速度が徐々に遅くなっていき、ついには一滴も流れることがなくなった。
「へぇ、月の光で怪我が治るんだ」
月人の目撃情報を何度か耳に挟んでいたが、月明かりで回復するなんて話は聞いたことがない。もしかすると、月夜ノ隊がまだ保有していない未知の情報ではないだろうか。
「月からの使徒だから当然でしょう。月はいつだって私たちの味方です」
彩里は確かめるように数回拳を握り直す。不便を来した様子は少しもない。はったりでもなんでもなく、月の光で傷が治るというのは事実のようだ。
「さて、続きといきましょうか」
「今度は怪我しても容赦なくトリガーを引くから覚悟なさい」
銃口を彩里の脳天に定める。次は絶対に外さない。
「ふふ。それは楽しみです。……期待を裏切らないでくださいよ?」
ドンッ! と激しい踏みきり音が閑散とした教室に轟く。
――早いッ!
先ほど一瞬で間合いを詰められたのは油断していたからだと思っていたが、身構えていてもとても反応できる速さではない。彩里は既に眼前にいる。
「こんのっ!」
「――おいで《常闇》」
クレセが両手に握った銃のトリガーを連続で引くと、キンッキンッキンッと短い残響が狭い部屋に木霊した。彩里に傷は一切なく、手には光沢の一切ない暗黒の細剣を握っている。
「嘘……そんなはず……」
十センチもない刃渡りの細剣。そんなもので、至近距離で打たれた数発の弾丸を弾いたと言うのだろうか。信じられない……いや、信じたくない。
「やはり良い射撃です。精密で、威力があって、そしてまるで躊躇がない。あなたはさぞ優秀な隊士なのでしょう」
ぶんっ! と彩里が細剣を斜めに振り払う。
振り払う――ただそれだけの動作をしただけのはずなのに、教室のすべての窓が奇妙な音を立てて割れた。つーと冷たい汗がクレセの背を伝っていく。
「次は私の番です」
柄を両手で握り直すと、彩里は剣をゆっくりと頭上に掲げた。
垂直切り――そう考えるのが妥当なのだろうが、刃渡り数センチもない細剣を大振りすることにメリットなどあるのだろうか。細剣の長所は軽さと小回り。いつか月夜ノ隊の細剣使いがそう口にしていた。
長所を潰し、短所を生かすかのような彩里の異様な構えは、クレセに説明のしようがない違和感を生じさせた。彩里がなにをしようとしているのかまるで見当がつかない。そんな不安が隙だらけの彩里に弾丸を撃つことを躊躇わせた。
「――賢明な判断ですよ、瑞浪さん」
ひゅん。
彩里が細剣を振り下ろすと、拍子抜けな風切り音がクレセの鼓膜を揺らした。バットを空打った時の方がまだ大きいのではないかと思えるほどの、小さな風切り音。
しかし――
「もしもトリガーを引いたのなら、あなたを殺す。けれども、万一、トリガーを引かなかったのなら今日は見逃す。そう決めていましたから」
次の瞬間、天井が暗闇に覆い尽くされた。しばらくして暗闇が消える。
「……嘘でしょ」
その光景にクレセは息を呑んだ。
天井から上の校舎が綺麗に跡形もなく消え去っていた。
倒壊音もなく、前兆もなく……まるで最初からなかったかのように。
――もしあの攻撃が向けられていたら私は今頃……。
「名乗るのが遅れてしまいましたが、私はレインと言います。また会いましょう。瑞浪さん」
不敵な笑みを浮かべてそう言い残すと、彩里――レインは忽然と姿を消した。
瞬間移動――なんて可能性を思案したのは一瞬のことで。大穴がなく、窓が一枚も割れていない教室を見渡して、クレセは『幻想の刻』が過ぎたのだと理解した。
「はぁ~~……」
ひどく重たいため息を漏らしながらぺたりと崩れ落ちる。
「あんなの勝てっこないじゃない……」
技量、潜在能力、双方においてレインはクレセを遥かに上回っていた。剣筋がまるで見えなければ、彼女の能力の解明も出来ていない。文句のつけようのない完敗だ。
背中に重心を預けて大の字に寝転がる。汗水か、はたまた冷や汗か。背に貼り付いた隊服は、ぐっしょりと湿っていて気持ち悪かった。