1 『introduction』
お久しぶりです。四作目の投稿となります。
これまでとは打って変わった作品ですが、ぜひ一読ください。
まさかこんな日が訪れようとは。
高鷲悠一は深夜の教室に女の子と二人きりという、非現実的な状況に戸惑いを覚えていた。
――まさか夢落ちじゃないよな?
不意にそんな可能性が頭をもたげた。
疑問を解消するために、悠一を呼び出した張本人の少女に問いかける。
「山吹さん」
「ふぇっ⁉ ……ど、どうかしましたか?」
今の反応だけで十分だ。どうやら夢ではないらしい。
「僕に言いたいことがあって呼び出したんじゃないのか」
「……はい。高鷲くんに言いたいことがあって呼び出しました」
彩里は胸の前の拳をゆっくりと握り締めて、大きく息を吐き出すと、顔を上げて悠一を見据えた。
「あ……あのっ」
白い光に照らし出された紫紺の瞳は不安に揺らぎ、耳は熱を疑ってしまうほどに赤い。
不安げな表情に紅潮した頬。そして明らかな動揺。
「……」
間違いない。彩里は〝告白〟をしようとしているのだと悠一は確信した。
早朝に手紙を見た瞬間から予感はしていた。けれどもその出来事を体験したことがなかったから。十七年無縁だったから、自然と可能性を放棄していた。
彼女の心中を察すると同時に、胸を張り裂くほどの勢いで鼓動が加速していく。手汗がじんわりと溢れ出し、激しい偏頭痛に視界が揺らぐ。
それでも、悠一は虚勢を張って彩里の瞳を見つめ続けた。逸らしてはいけないと思った。本気の思いには本気の思いで答えるのが道理だから。
やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
「わ、私は……ずっと前から高鷲くんのことが――」
――ああ、この瞬間を忘れることは生涯ないんだろうな。
続く言葉を前に悠一は思う。
「――――」
その予感は正しく。
高鷲悠一の世界は、紡がれた彼女の言葉と共に姿を変えた。
※ ※ ※
数時間後に迫った劇的なイベントの存在を、一男子高校生が予言できるはずもなく、故に、高鷲家の一日がなんの変哲もなく始まるのは当然のことと言えよう。
「おにぃ朝だぞ。テンカウント以内に起きなかったら自転車点検の刑だからな」
その日、悠一はゆさゆさと身体を揺さぶられて目を覚ました。冷気を孕んだ空気が肌寒い。カーテンの奥から光の気配は感じるが、部屋はまだ暗いままだ。
そんな意識が曖昧な悠一を、一人の少女が見下ろしている。櫛で解いただけの浅黄色のショートヘアーに、渓流が波打つような翡翠の瞳。妹の葉月だ。
中学三年生の妹は、成長期が後半に近づいてきたこともあって、顔つきはだいぶ女性らしくなってきたのだが、148センチと極めて低い身長のせいでどうも幼く見えてしまう。小学生と言われても騙されてしまいそうだ。
無言のまま視線を外すと、葉月はカーテンに手を掛けて勢いよく開いた。焼き焦がすような朝日の眩しさに目がしょぼしょぼする。
「自転車点検の刑ってどこが罰なんだよ。僕には得しかないぞ」
手で光を遮りながら言うと、葉月はふんぞり返って得意気に鼻を鳴らした。
「いやいや立派な罰だぜ? だってお兄は自転車に跨がる度に『ああ……僕は葉月が点検した自転車を平然と漕いでるのか』っていう不甲斐なさに駆られることになるんだからな」
別にそんなこと思わないのだが。
というか、基本徒歩通学だから、そもそも自転車にあまり乗らない。
「前々から思ってたんだけどさ、他人の善意に対してそういう感情を抱くのは逆に失礼なんじゃないか。ありがとうの一言で僕は十分だと思うんだけど」
事実、悠一はそうだ。過度に感謝されたり、この恩は一生忘れないとか言われたりすると、変にむず痒い気持ちになる。
腕を組んだ葉月は、アヒル口で唸った。
「うーん。確かに善行の対価が曇った表情っていうのは寂しいな。……あたしは善意は善意としてありのままに許容するべきだと思うかな」
さすがは妹だ。兄と思考がよく似ている。もしも妹が見返りを求めて人助けをし出そうものなら全力で止めなければいけないと思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。
「だよな。じゃおやすみ」
これで話題は完結だ。もう二度寝して問題ないだろう。
五月という春と夏の中間期間は寒暖差が激しく体調を崩しやすい。起床と同意に寝冷えに苛まれないために、悠一は布団をしっかり被り直して夢の世界への直行を試みた。
「おう! おやすみ! ……ってなんでさ⁉ 意味不明なんだけど⁉」
うるさい妹だ。
「会話が終わった。僕は無視しないで葉月の話題に乗った。だから寝た。それのどこがおかしいんだよ」
「その思考がおかしいよ! なにが『だから』なのかさっぱりだぜ⁉」
よくも早朝からそんなにヒートアップできるものだ。悠一は欠伸を噛み殺すので精一杯だと言うのに。
「ドア・イン・ザ・フェイスの応用だ。相手の要望をあらかじめ叶えることで、自分の意見を否定できない状況を作り出す。つまり、葉月の会話に乗った時点で、僕の二度寝は確約されていたんだ。だから、一見共通項のない二つの出来事にも因果関係を見出すことができる。ドア・イン・ザ・フェイスの応用っていうか、ただの心理作用を利用したテクニックなんだけどな」
現状に至るまでの過程を詳らかに解説し、二度寝という至高の一時を味わうべく、葉月とは逆の方角に寝返りを打つ。
身体を丸めて快楽に浸っていると、背後から餓狼の如き妹の唸り声が聞こえてきた。
「ぐぬぬ~屁理屈であたしをたばかったな⁉ ごみぃは荒波に呑まれて溺死しろ‼」
勢いよく枕が引っこ抜かれる。その際に頭が四十五度回転してしまい、おかげで悠一はベッドシーツと濃厚なキスをする羽目になった。悠一の唇の後が、ベッドシーツにありありと残される。白地のカバーだからあまり汚したくないのだが……。
「あのな、朝の五分に勝る至高の瞬間は存在しないんだぞ。葉月だって……」
と、二度寝の素晴らしさを語ろうと試みて振り返ると、強い衝撃波と共に視界が黒く染まった。
しばらくして視界が開く。悠一の翡翠の瞳に映るのは、枕を頭上に掲げた妹の姿だ。
「悪いけど僕の部屋には枕が一つしかないんだ。枕投げ大会はまた今度な」
「なんであたしが枕投げをしたいみたいになってるんだよ……」
枕投げ大会なんて修学旅行限定のイベントだろと、葉月は呆れたように溜め息を漏らす。
「じゃあなんで僕の顔に枕を投げたんだよ」
悠一はサンドバッグでもフィールドフォースでもない。
「んー、そもそもその解釈が間違いなんだよな。あたしは投げたんじゃなくて叩いたんだから」
強気に言い切ると、葉月はにっと嗜虐的な笑みを浮かべた。
「どちらにせよ、僕の顔に枕が当たったって事実には変わりないだろ」
「確かに過去の事実は変わらない。けど枕投げとおにぃ叩きとでは、同じヒットはヒットでもまったくの別物なのさ」
「おにぃ叩きってなんだ。もぐら叩きの親戚かなんかか?」
兄をもぐら代わりに叩こうとでも言うのだろうか。そんな自分に損しかないゲームはしたくない。
「……まあそうだな。もぐら叩きではもぐらの殲滅を、おにぃ叩きではおにぃの腐った性根の矯正を目的にしてるから、根本的な部分は同じだな」
「いや違うだろ」
反論すると、葉月は顔をしかめて枕を振り下ろしてきた。枕は悠一の顔にヒット。今のは八つ当たりだと思うのだが。
「おにぃさ、そろそろ目覚めただろ? いい加減、あたしの朝飯作ってくれよ」
「なんで僕が悪いみたいになってるんだよ」
朝食を用意してほしいのなら最初からそう言えばいいのに。
悠一は超能力者でなければエスパーでもないから、口に出して言ってくれないとわからない。
だから悠一の言い分はこの上なく正論だと思うのだが、なぜか顔を枕で叩かれた。やはり腐った性根の矯正というのは建前で、真の目的はストレス解消なのではないだろうか。
「じゃフレンチトースト二枚でよろしくな」
涼しげな表情で葉月が注文してくる。
「またフレンチトーストか」
昨日も一昨日もフレンチトーストで、今日は久々に和食の献立にしようと思っていたのだが、妹の頼みなら仕方ない。鮭のムニエルは明日にお預けだ。
デジタル時計の目覚まし機能を解除して、身体を半ば無理矢理に起こす。
「やっと起きたな。おはよおにぃ」
目が合うと、葉月は八重歯を光らせた。身体を起こして向かい合うまで挨拶をしないというのは、昔から変わらない葉月ルールの一つだ。
「おはよう葉月。あと朝からフレンチトースト二枚は太ると思うぞ」
軽くラーメン一杯分のカロリーは超えている。一枚約300カロリーとして、二枚だと600カロリーだ。
ぼっと葉月の顔が赤く染まった。
「っ⁉ い、いいもんっ! 部活の朝練で一杯走るもん!」
顔を真っ赤にしたまま、頬を膨らませて睨みつけてくる。
「はいはい。陸上部は大変だもんな」
「むー適当だなあ。……そういうおにぃこそ、帰宅部の癖して朝からフレンチトーストなんて糖分の塊を食べたら太るんじゃないのか?」
カウンターのつもりだろうか。不敵な笑みを浮かべている。
「じゃあ鮭のムニエルにするか」
「ごめんなさい。調子に乗りました。朝飯はフレンチトーストにしてください」
数秒前の威勢が嘘かのように、脚を畳んで土下座する葉月。たかだかフレンチトーストのために、こうも易々と土下座してしまうというのはどうなのだろうか。
矜持の欠片もない妹の姿に悠一は深く嘆息した。
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