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~魔法都市香港へようこそ~

2019年6月11日に誕生した我が家の未来『泰正』に贈る

プロローグ


 バンコクの郊外。今、サクチャイは、くりぬかれた寺院の壁に収められる父の骨壺を眺めながら、膝が震えるのを止められなかった。自分の人生は、およそ彼の名前の由来である勝利とはかけ離れた敗北だらけの人生であった。そのうっ憤で、家族、特に父にあたって迷惑をかけたかもしれない。しかし、最低限ブッダの教えは守っていたつもりだった。

 彼の家は裕福ではなかったので、亡くなった父の葬式は3日間しか執り行うことができなかった。最終日に火葬となる前夜、見知らぬ男がやってきて、父の体の一部を売ってほしいと申し出てきた。

その提示された金額に、彼はその邪悪な申し出を退けることができなかった。どうせ火葬されば灰になってしまうのだ。彼はそう自分に言い聞かせて、遺体の一部を凌辱するような行為に素直に応じてしまった。

火葬を終え、遺骨を納めた壁に蓋をし、モルタルで塗り固める作業を眺めながら、ついに彼は我慢の限界に達し、人目はばからず泣き始めた。周りの参列者は、父親との惜別の涙なのだろうと考えたが、サクチャイの涙はそんな生易しいものではなかった。腹の底から恐怖を感じていたのだ。

自分が犯した罪は、もう贖うことはできない。数年後に壁から父の遺骨を取り出して、散骨している自分など想像できなかった。漆黒の闇の奥から、ヤック(夜叉)が自分を喰らいにやってくる。もしかしたらそれは今夜かもしれない。自分は想像を絶する痛みの中で、ヤックの鋭い牙で切り刻まれ死ぬのだ。そして、何度生まれ変わろうとも、必ず自分を喰らいにヤックが現れるに違いない。その恐怖と痛みが永遠に続く来世が、彼を待ち受けているのだ。




〈九龍城砦〉


 香港の夜の闇の中を歩くふたつの人影。一つの影は、もう一つの影をさらに深い闇へと導く。先導するのは痩せこけた男。想像もしたくないが、この男はとても悲惨な少年時代を送ったにちがいない。導かれている纐纈モエにはそれが分かった。


 彼女は眼科医、それも間もなく60に届こうとしているベテランだ。仕事がら、数多くの患者の瞳をのぞき込んでいるうちに、瞳の奥にある光でその人の性格や生い立ちが想像できるようになっていた。

 彼の瞳の奥にはどうしようもない絶望と狂気が潜んでいる。そんな男を信用して後に付いていくなんて…自分はどうにかしている。しかし、そんな彼女の後悔などお構いなしに、男は密集する高層ビル群に歩みを進める。都市計画とは無縁なこの一画で、ビル群の中でも一位二位を争う怪しいたたずまいの集合住宅。彼はその一室に彼女を導いていたのだ。

 モエは、この近寄りがたい独特の雰囲気を放っていたこのエリアが、どの政府の統治も届かない文字どおりの無法地帯「九龍城」という場所であることは後になって知った。巷では、犯罪者や売春宿、麻薬の売人などが集まる「魔の巣窟」と呼ばれ、多くの映画作品やゲームの舞台となったことで世界的によく知られる有数のスラム地域だ。

ここの正式な地名は九龍城砦(クーロンじょうさい)。ジャンボ機が旋回しながら着陸するという「香港カーブ」で知られた旧「啓徳(Kai Tak)空港」の近くに存在している。ここでは、120×210メートルという狭いエリアに500を超えるビルが密集し、一時期は5万人にもなる住人が生活を送っていたという。

 寄り添うように建てられた通称ペンシルビル。文字通り鉛筆の先のように、細く尖がったビルに住人が密集したため、平均人口密度はおよそ畳2枚分に1人。このとても信じがたい人口密度のゆえか、香港政府の規制も行き届かず、衛生法なども順守されない状態となっている。実際、九龍城砦ではゴミの収集が行われないため、古くなったテレビや古い家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミはビルの屋上に放置され、公共通路といえば異臭を放つ塵が散乱している。

 そんな荒廃とした環境ではあるが、実際のところ、多くの住民はごく普通の生活を送っていたようだ。確かに「犯罪の巣窟」という側面がなかったわけでないが、その極端な極悪なイメージは映画やドラマなどによって定着したといえなくもない。


 しかし、地名も、場所の由来もしらぬモエは、ただただその場の雰囲気に飲まれていた。ともすれば逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて男に従った。彼女には男についていかざるを得ない理由があったのだ。


 やがて男は、言いようもない匂いと湿った空気に満たされた小さなダイニングキッチンへ彼女を導くと、薄汚れたダイニングテーブルの椅子を顎で指し示す。そして、彼女が腰かけるのを見届けると、男はキッチンの入口にある柱に寄りかかり、目をつむって動かなくなった。

 モエの膝は、テーブルの下で小刻みに震えていた。なんとか震えを止めようと試みた。それも徒労に終わると、もういい。どうせテーブルの下で見えないのだから、とあきらめた。重要なのはテーブルの上に露見する上半身だ。彼女はそう自分に言い聞かせて、深く深呼吸し顎を上げ、そして胸を張った。弱い自分を他人に見せたくない。彼女が夫を失ってから今まで、自分に課していたコンプライアンスである。

 どれくらい待っただろうか。やがて白い長いひげを蓄えた老人が、少年を引き連れてキッチンに現れた。少年は老人の中国服の袖をしっかりとつかんではいたが、落ち着かない目であちこちを見ていた。よく観察すれば青年に近い年齢なのだろうが、少年としての印象が強いのは、彼が知的障害者であるからかもしれない。

 老人は、ダイニングテーブルのモエに対峙する位置に座ると、じっとモエを見つめた。モエはその瞳の中を探り、この老人とのネゴシエーションを有利に運ぶヒントを得ようと試みた。だが、ただそこには漆黒の闇しかない。いったいどんな生き方をしたら、こんな深い闇を瞳に宿すことができるのだろうか。もしかしたら、想像もつかないほどの残忍なことを見続けた結果なのか…。自分は無事にホテルに戻れるのだろうか。いや、無事に戻ったところでここへ来た目的を果たさなければ生きていく意味もない。


「空を舞う鳥が、なぜか海の底に潜ってきよった…こんなところに長居すれば溺れ死ぬのは承知だろうに…」


 老人が口を開いた。流ちょうな英語だった。モエも英語で応えた。


「…用がなければ、こんな恐ろしいところには来ません」


 モエは、第一声が震えずに言えたことは、奇跡だと思った。老人は返事もせずに黙ったままだ。


「私は纐纈モエ。あなたは、香港マフィア14Kのドラゴンヘッド(頭首)さんよね」


 モエの問いにも、老人は何の反応も示さなかった。どれくらい沈黙が流れただろうか。老人の傍にいた少年が、焦れて老人の袖を何度か引いた。老人は、困ったように眉間にしわを寄せたが、少年を怒るようなことはしなかった。

 やがてモエに向き直ってようやく口を開く。その瞳には相変わらず漆黒の闇が漂っている。


「だとしたら…」


 モエは、バッグから写真を取り出すとテーブルの上に置く。そして、今自分が感じている恐怖と不安を悟られぬよう、ゆっくりと低い声で答えた。


「探してほしい人がいるの」




〈香港街景〉


 香港MRT(地下鉄)の中環セントラル駅近辺は、日曜になると出稼ぎフィリピン女性で溢れかえる。

 大抵は、欧米人や中国人の裕福な商人の家庭で家政婦メイドとして働いている人たちである。休みの日曜日にここに集まって、路上や公共通路、付近の公園などに段ボールを敷いて、同郷の人たちとおしゃべりや食事、トランプなどをして楽しんでいる。

 雇い主の家に住み込みで働いている彼女たちは、香港に自分の家がない。そのため、唯一のお休みには、外に出て同郷の友人や親戚と集まって過ごすのだ。

 休日に飼い主の家に居ると、用を言われて休みにならないとか、盗難の嫌疑をかけられるとか、不謹慎な雇用主に言い寄られるとか…。とにかく用もないのに家に居ることは、不必要なトラブルに巻き込まれかねない。そんなことも、彼女たちがここにたむろする一因でもあるようだ。

 大概の人々は、それぞれの仲間のシートに集まって、おしゃべりの散弾銃を打ちまくる。しかし、そんな喧噪のなかで、誰とも話さず大判のスケッチブックを開き、スケッチを楽しんでいる女性がいた。彼女の名は、エラ。本名は、 Elaiza James Dacara。

 彼女も大半のフィリピーナがそうであるように、貧しい家に生まれ、16才で自立し、恋をし、裏切られ、過労による流産を経験し、そして体の回復も十分でないまま、母や家族を養うためにここ香港に出稼ぎにきている。

おしゃべりに余念のないフィリピーナたち。しかし、同じフィリピーナでも、彼女は周りの女性たちと違った雰囲気を持っていた。小さくはあるが、感性と創造性の色彩がその瞳の奥に宿っている。それは、幼い頃から続けているスケッチを描く習慣が、彼女にもたらしたものであろう。彼女は目に映るものを、楽しそうにスケッチブックに描いていた。

 しかし、だからと言ってその習慣が経済的に彼女を豊かにする糧になっている訳ではない。


「ねえ、エラ」


 傍にいた友人が彼女に話しかける。


「なに?」

「おしゃべりより、絵を描いている方が好きなんて…女としては変態よね」

「そうかしら…」

「だって…女は口から先に生まれたって言われるのが通説よ」


 友人が自らの口をとがらせて、エラを責め立てる。


「休みに仲間と集まったこの状況で、口を動かさないでいられるあなたが不思議でしょうがないわ」

「ハハハハ…でも、みんなの話しを聞きながらスケッチするのって、けっこう楽しいわよ」

「そうかしら…楽しいかもしれないけど、ストレスの発散にはならない。女ってね、大好きな人とのおしゃべりで、日頃のストレスを発散した時こそ、本当に幸せを感じる生き物なの」

「そうかしら…」

「あら、だったらエラは、どんな時に幸せを感じるの」

「そうね…まぶしい日差しを手で陰る時かな」


 エラはそういいながら、船長さながら腰に手を当てて遠くを見るポーズをとった。そんなエラの答えと可愛いしぐさに周りはどっと笑い出した。


「…別にあなたの勝手だけど、変な時に幸せを感じるのね」


 エラは笑いながらも、またスケッチを描きはじめる。


「とにかくいい加減スケッチブックを閉じて、あなたも、レチェ・フラン(すごく甘いフィリピン版プリン)を食べなさい。家で奥様の目を盗んで焼くの、苦労したんだから」

「はーい」


 エラは、友達の誘いに笑みで応えながら、仕方なくスケッチブックを閉じた。

 友人から紙皿に盛られたレチェ・フランを受け取った彼女は、プラスチックのスプーンで口元に運んだ。

 その時、甘い香りに誘われた蜂が、スプーンに盛られたレチェ・フランを目指して飛んできていたのだが、彼女はそんな危機に気付くことができなかった。

 日本には「風が吹けば桶屋が儲かる」という落語があるが「香港に風が吹くと…」いったい誰の人生が変わるのだろうか。

 いたずらな、香港の風は、スプーンに盛られたレチェ・フランへ着地しようとする蜂の羽を狂わせ、エラの眼球にハチをぶつけた。本能的に瞼を閉じた彼女であったが、そのことが蜂を興奮させエラの眼球の上でひと暴れする結果となったのだ。


「キャーッ」


 彼女の叫び声は、半径50mにいる人間の注意をひくのに十分なものだった。


「痛い、痛い、痛い。何とかしてーっ」


 エラは、はた目から見ても、異常なほどのパニックを起こしていた。

 両手で目を押さえて、叫びながら地面を転げまわっている。目を擦りながら暴れて2次的な怪我をしかねない。まわりの友達が 彼女を落ち着かせようするが、パニック状態に陥ったエラの体をなかなか抑え込めないでいた。

 エラにしてみれば、闇の世界にはもう二度と戻りたくはなかった。闇の世界にもどるくらいなら、いっそ歩道の石に頭をぶつけて死んだ方がましだ。

 その時彼女は、腕を押さえられながらも、聞き覚えのある言葉を聞いた。


「私は目のドクターだから…安心してください」


 それは日本語であるから、フィリピーナのエラには、その意味が分かるわけはない。

 しかし、彼女はその言葉に聞き覚えがあった。そして、その言葉で奇跡を体験したことを思い出した。彼女はおとなしくなった。


「ちゃんと診てあげますからね…」


 目を閉じたままのエラは、自分の瞼に柔らかい指が触れるのを感じた。その指から伝わるぬくもり、そして目を閉じていても肌で感じられる相手の優しさ。


「うん、大丈夫。蜂は黒いものに対して刺す習性があって、黒目(角膜)の部分が刺されることが多いのだけど、角膜に損傷はないようですね」


 彼は診察をしながらそう言ったが、日本語であるから誰一人理解しているものはいない。周りの女性たちはきょとんとした顔で彼を見つめていた。


「ああ、ごめんなさい…眼球の表面がちょっと傷ついた程度です。充血しているけど、洗浄しておけば大丈夫です」


 彼は英語に切り替えると、持っていた洗浄液で、エラの眼球を洗い、白いガーゼで軽く眼帯を施す。

 洗浄液に白いガーゼ。先輩の医師でもある母親にしつこく言われて、こんなものを持ち歩く習慣が身についた。しかし、無駄だと思っていたこんな習慣が、初めて役に立った。周りの女性たちは、突然現れたドクターが、手際よくエラの瞳を処置するのを感心しながら眺めている。

 ひと通りの処置を終えるとドクターは、エラのこめかみに両手を添えて眼帯の位置の調整し、笑みを浮かべて言った。


「これでOK。そのうちはっきり見えるようになりますよ」


 その声に安心して、エラが、無事な方の目を開ける。そのぼやけた視点の先に、ドクターの顔の輪郭を見た。彼女の胸が苦しくなり、動悸が激しくなる。ああ…ようやく出会えた。理屈ではなく、心が感じた。

 そして、事件は突然起きた。こめかみを支えられていたエラが、突然ドクターに飛びつくと全身の力を込めてしがみついた。

 ドクターは比較的長身で、小柄なエラとは身長差があったが、なんせ目の治療で顔の位置が近かったこともあり、ドクターはそれを避けることができなかった。というか、驚きのあまり動くことができなかったというのが本当のところだ。

 エラは治療した目に一杯涙を溢れさせて、頬をドクターの頬に摺り寄せながら、治療の感謝とは程遠い、強く情緒的なほっぺチュウを何度となく繰り返した。周りを囲む女性たちから、大きな歓声が起きていた。




〈九龍城砦〉


「確かに、人を探し出して消す仕事は多く手掛けてきたが…」


 長い沈黙の後、ドラゴンヘッドはようやく口を開いた。


「探すだけでいいの。消してもらっては困るのよ」


 モエは慌てて相手の誤解を訂正する。


「だが、いくら仕事でも、誰の依頼でもやるとは限らない。お互いの信用が第一なんでね。それが、この海の底で生き残る秘訣なんだよ」

「わかっているわ。いきなり来た見も知らぬ日本人の依頼を、素直に受けてくれるとは思っていない。だから、せめて信用をお金で買えたらと思って…」


 モエは、バックの中から取り出した香港ドルの紙幣の束をテーブルの上に置いた。


「ここに150万香港ドルある。仕事を受けてくれたら、これを着手金として支払うわ」


 札束を見てドラゴンヘッドの漆黒の瞳の奥にわずかながら生気の光が宿った。そして、せき込むほどの大笑いを始めた。交渉に乗ってきたと勘違いしたモエはさらに言葉をつづける。


「そして、見つけてくれたら、これとは別に成功報酬として220万香港ドルをお支払いします」


 どや顔のモエであったが、ドラゴンヘッドの瞳に宿った光が、実は邪悪な光であったことに気づくのに、そう長い時間はかからなかった。


「世間知らずにもほどがある…こんな大金をこんなところに持ち込むなんて…。いいか、よく覚いておきなさい」


 ドラゴンヘッドは、札束を自分の方へ引き寄せながら言葉を続けた。


「私たちが大切にしている信条がもうひとつある…それはな、できるだけ楽して儲けろってことなんだよ」


 ドラゴンヘッドが入口に立っている男に、顎でサインを送る。


「これ以上、話しを聞く必要もあるまい」


 男が音もなくモエの背後に回りこんだ。


「この金はあんたを無事に空に帰す代金としていただくよ。ただし、おとなしく戻るのか、海の底で獰猛な魚たちの餌になるのかは、あんた次第だがな…」


 やはり犯罪組織のドラゴンヘッドには、まともな取引なんて通用しない。彼の恐ろしい言葉に、モエは腰から下が震えて、立ち上がるのも難しい状態なっていた。しかし、気丈にも臍から上は、なんとか持ちこたえている。消えかかる勇気の灯を無理やり焚きつけて彼女は言った。


「ここに来たら、無事には帰れまいと予想はしていました。それでも、ここにやってきたのは、ドラゴンヘッドならドラゴンヘッドとしてのプライドがあると信じたからよ。お金を受け取るなら、その仕事はきっちりやるべきじゃないかしら」


 モエの精いっぱいの訴えにもまったく意に介せず、非情なドラゴンヘッドは黙って立ち上がった。その時だ。それまではおとなしくドラゴンヘッドの袖を握っていた少年が、その手を離すと、テーブルを回ってモエの腕にしがみついた。そして、ドラゴンヘッドに向かって唸り声をあげたのだ。


「ううう…」

「なんだ、小松鼠シャオソンシュウもう帰って寝る時間だぞ」

「ううう…」


 ドラゴンヘッドが必死になだめるが、少年はモエの腕にしがみついたまま、動こうとしない。


「小松鼠、お前のおかげで思わぬ金が手に入ったが、もう話しはおしまいだ。こっちへ来い」


 言うことを聞かない少年に、焦れたドラゴンヘッドは、今度は口調を荒げて諫める。

 だがそれでも、少年は動こうとしない。恐怖で足をすくませていたモエだったが、老人と少年の意味不明の中国語のやり取りにも関わらず、少年が自分の味方になってくれているのではないかと感じることができた。


「おい、ミセス・コウケツ。うちの小松鼠に、いったい何をしたんだ」


 常日頃からドラゴンヘッドの言葉には、従順に従う小松鼠。 しかし少年が初めて見せた反抗に、彼はその困惑の矛先をモエに向けた。


「シャオソンシュウくんっていうのね」


 少年が味方についてくれたと思うと、モエも多少落ち着いてきた。しがみつく少年の手を優しくなぜながら、言葉を続ける。


「ドラゴンヘッドさんに会いたいと思って、危なそうな人を見つけては尋ね歩き…そんなことをしながら街を彷徨っていたら、いきなり彼が近づいてきて連絡先が書かれたメモを渡されたの」


 小松鼠を見ると、興奮しているせいか髪が乱れている。モエは彼の髪を手すきで整えてあげた。


「そうしたら今度はドラゴンヘッドさんを連れて現れてくれたのには驚いた…。シャオソンシュウくんと会ったのは今で2度目だけど、お名前も今知ったくらいなのよ」


 ドラゴンヘッドは舌打ちをすると、首を左右に振りながら、元の椅子に座る。それを見た少年は、安心したように、今度はモエの袖を握って、彼女の横に座った。


「やれやれ…孫にせがまれて…仕方なく来てはみたものの…」


 老人は、モエの横に座る少年にあらためて目を向けた。


「お分かりだと思うが、この子は少し知恵が遅れておる」


 ドラゴンヘッドの瞳に家族愛の灯を見て、モエも少し心が緩んだ。


「シャオソンシュウくんはドラゴンヘッドさんのお孫さんだったのね?」


 少年は、視点を定めず、あちこちをせわしなく見回している。モエに見つめられて、若干照れているしぐさにも見える。ドラゴンヘッドはモエの問いに答えもせず、言葉を続けた。


「しかしな…頭に知恵が詰まっていない分、その隙間に…なにか大切なものを隠し持っているのじゃないかと思う時がある」




〈香港街景〉


 エラが我に帰って身を離すまで、それは長い抱擁だった。


 眼科のドクターであるタイセイは、その間彼女を跳ね除けることができなかった。彼も30代も半ば。女性に関してそれなりの経験はあったが、女性からこれほど熱くそして情感を込めた抱擁を受けた経験はなかった。また、抱擁でこんなに癒しを感じたのも初めてだった。だから、エラが我に返って抱擁を解いた時、ちょっと残念な気もしたが、それも不謹慎だと慌てて気持ちを立て直した。


「ごっ、ごめんなさい」


 エラは、顔を真っ赤にして、ただひたすら謝る。そんな彼女を見て、周りの友達たちが一層はやし立てた。


「ドクターの…その…彼女か、奥さまに…本当に失礼なことを…」


 タイセイは確かに、20代の最後の歳に結婚していた。しかし1年もたたぬうちに、タイセイは新妻が実は自分ではなく、医者を夫にしたかったのだということを、そして新妻は、彼の結婚の本当の動機は、単なる母親への嫌がらせだったのだという衝撃的な事実を、お互い気づいて離婚していた。

 タイセイは過去の記憶をかき消すかのように首を振りながら答える。


「いや、幸か不幸か…3年前に離婚して以来、そのどちらも僕にはいません」


 エラはただただ顔を赤く染めてうつむいていた。タイセイもそんな彼女が気の毒になって助け舟を出す。


「日本では人前でこんな熱いハグをする習慣がないので驚きましたが…眼の治療費を、こんな素敵なハグで支払っていただけるなんて感激です。ありがとうございました」

「別に、治療費の代わりってわけじゃ…ちゃんと治療代をお支払いします」

「いや、医師のルールでね。その国の医師免許がなければ、治療をしてお金は貰ってはいけないんです。だから気にしないでください。お役に立ててよかったです。それじゃ」


 タイセイは会釈をすると、踵を返してエラから離れていった。


「ちょっと、エラ。このまま帰しちゃっていいの?」


 グループの仲間たちがエラのわき腹を肘で小突く。


「けっこうポギ(イケメン)だし、ドクターでお金もありそうだし…なにより、彼女も奥さんもいないんじゃ…ここで逃がす手はないわよ」


 囲む友人たちがエラをけしかけるが、エラは全く別なことを考えていた。

 あのドクターに以前会った記憶はまったくない。しかしあの、ようやく出会えたような感じ…あれはなんだったのだろうか。

 運命の男に出会ったのか?いやこの感じは、異性に惹かれるのとは全く異質なものだった。今それを解明しないと、きっと一生後悔する。

 エラはスケッチブックを抱えると、タイセイの後を追った。彼女の友達たちは、飛び出していくエラの後ろ姿に声援を送ったのは言うまでもない。


 エラは、ガイドブックを見ながら歩いているタイセイにようやく追いついた。


 さて、どう説明したらよいものか…。彼の背に声をかけることに躊躇していたので、ある程度の距離を置きながらタイセイの後を付いていくという状況がしばし続いた。

 外国の旅行者に共通であるが、スリ等のトラブルに合わないようにと、周りの状況に神経をとがらせているタイセイにとって、そんなエラの存在に気づかないわけがない。


『どうしよう…危ない人に関わっちゃったかな』


 感謝の気持ちの表れだったのかもしれないが、相手は見も知らぬ自分にいきなり抱き付いてくるような女性だ。目の応急処置も終わって、自分に何の用があるというのか…。後をつけてくる理由がさっぱりわからぬ彼は、とにかく気づかぬ振りを通すことにした。とにかく…ガイドブックを頼りに歩みを速め、楽しみにしていた香港観光を無事完遂させるのだ。

 もともと彼は、たった1日ではあるが、新旧の香港の佇まいが楽しめる中環セントラルエリアの街歩きで、香港観光を楽しもうと心に決めていた。いわゆる名所で混雑が筆致の山頂ビクトリアピークを避けたのは、喧噪を嫌う彼の性格による。

 本来は上環(Sheung Wan)駅から中環セントラル駅への散策であったはずだが、タイセイのMRTマップの見間違いで一つ手前の駅で降りてしまった。それで、エラとの出会いが生じたわけだから、ドラマというのは果たして、こうした小さな間違いから生まれてくるものだ。

 タイセイは、早歩きで德輔道中を西へ移動する。

 足は長いがタイセイより小柄なエラは、そのスピードについていくのに苦労しているようだ。いいぞ、このままいけばいつか振り切れるかもしれない。

 タイセイは永吉街ウインカッツストリート、そして摩羅上街キャット・ストリートへ。

 ここは女性ものの雑貨にしろ、価値不明な怪しいアンティックにしろ、雑多な品物が無造作に、まさにゴチャッと積まれた店が立ち並ぶ。まるでおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさがある街だ。

 タイセイはそれとなくエラの様子をうかがった。彼女は、なぜがキッチュな雑貨との出会いに夢中になって、店先ではしゃいでいる。もうタイセイのことなど忘れているようだった。今だ!。タイセイはそんなエラを残し足早に街を離れた。


 次の目的地は、荷李活道ハリウッドロードのスタート地点にあるショップ「HULACAMP」。 オーナーは、パキスタン人でありながらも香港の業界屈指のビジネスマン。国籍に問わず誰でもビジネスを起こせるのは、さすが国際商業都市香港といえる。

 このオーナーは、日本の新しいものに目がなく、それらを収集して、遊び心満載でここにショップを作った。商品のメインは、カシオの時計とハリオガラス。日本では違和感のある品揃えぞろえだが、それがここではいたって自然に陳列台に並んでいる。

 不思議なことにカシオは日本のブランドなのに、日本で手に入りにくい限定モデルがこの店にずらりと揃っている。もちろん、タイセイのお目当ては、日本では手に入らないモデルのカシオ時計だった。

 ひとしきり買い物を楽しんで、お気に入りの時計を腕に巻いたタイセイは、満足げに店を出る。次の目的は荷李活道ハリウッドロードに対して細く平行に位置する新街ニューストリート

 さて、歩みを進めようとするのだが、なぜかその一歩が踏み出せない。そういえば彼女はどうしたのだろうか。自分を見失って諦めて、どこかに行ってしまったに違いない。それで「良かった」という気持ちに、妙な「気がかり」の風が吹きつける。足が勝手に摩羅上街キャット・ストリートへ戻る道へ動いていった。


 摩羅上街キャット・ストリートの入口についたタイセイは、店が立ち並ぶ方向を恐る恐るのぞいてみた。

 彼女の姿はなかった。当たり前の結果に、ただうなずくタイセイ。それは、見方によれば、何かを自分に言い聞かせている仕草と言えないこともなかった。

 さて気持ちも新たに、次の街へ行くかと摩羅上街キャット・ストリートに背を向けた瞬間、遥か遠方の道端でスケッチブックを胸にだきかかえ、途方に暮れたようにしゃがみこんでいる彼女を視界の端に捉えた。

 キッチュな雑貨に心を奪われて、タイセイを見失った彼女は、せっかくきれいに付けた眼帯もはぎ取って、彼を探して走りまくったに違いない。汗ばんだ額と乱れ気味の髪、そして息で大きく上下する彼女の肩がそれを物語っていた。

 継母と連れ子の姉たちにメイドとして奴隷のようにこき使われ、結局、舞踏会に行けず、家の屋根裏部屋に取り残されたシンデレラ。落胆するエラの姿は、なぜがタイセイにそんなイメージを想起させるのだった。日本流に表現すれば、わずかではあるが、彼女に情が湧いてきたというところだろうか。もっとものちに彼は、そんなおとぎ話をイメージしてしまったのは、香港に来る途中で全日空の機内で観た映画のせいだとぼやいてはいたが…。


 タイセイはうずくまるエラに近づくと大きくふたつ咳をした。

 その音につられてエラが顔を上げる。その視線の先にタイセイをとらえると、もしかしたら泣いていたかもしれない潤んだ瞳に、パッと灯が灯った。実はタイセイのまったくの勘違いであった確率が高いのだが、男は本当に馬鹿だから、こんなことで簡単に警戒という名の扉のロックを開けてしまうのだ。

 エラは跳ね上がるように立ち上がった。

 タイセイは彼女に近づくと、また、優しく彼女の瞳をチェックし、眼帯をセットしなおす。そしてそれをやり遂げると、何も言わずに回れ右をして歩み始めた。今度の彼の歩みは、ゆっくりとしたものだった。その背は、エラについておいでと語りかけていた。


 新街ニューストリート普仁街ポーヤンストリート、そして太平山街タイペンサンストリートへ。タイセイは歩みを進め、エラはその背に従っていった。


 新街ニュー ストリートは、ギャラリーからレストラン、アンティーク家具など、香港の新鮮な感覚が集う隠れ家スポット。

 高級志向の人々は、セントラルに留まり、歩ける距離ながらここまで足を伸ばしてこない。だからだろうか、ストリートはリーズナブルでアットホーム、そしてお得な発見がある香りがしてくる。

 新街ニュー ストリートから進み、普仁街ポーヤン ストリートに入った交差点。交差点といっても車が往来するような交差点ではないのだが、360度見渡しても楽しい景色が広がる。

 交差点の角に何やらおしゃれなお店。そのまま進行方向をみれば、お寺らしきものが数件。山側には、のどかな風景。こんな場所をエラが喜ばないわけがない。

 さっそくスケッチブックを取り出しては、鉛筆を走らせていた。タイセイは、今度はエラを見捨てることなく、近くの縁石に腰を掛けて、エラがスケッチをしている様子をのんびりと眺めていた。

 しばらくして、我に返ったエラが慌ててスケッチブックを閉じて、きょろきょろタイセイを探す。そして縁石に腰かけている彼と目が合うと、エラの瞳がくりっとひかり、タイセイはまたゆっくりと歩みを進めはじめた。


 新街ニュー ストリート普仁街ポーヤン ストリートの交差点から太平山街タイペンサン ストリートに進む。いわずと知れた、ソーホーエリア発祥の地。SOHOはここ、South of Hollywood road(サウス オブ ハリウッドロード)の略式と言われている。


 太平山道タイペンサン ストリートの脇道の壁を見ると、どこかのアーティストが描いたのだろうか、それともお店の人が遊びでデコレーションしたのだろうか。斬新で、面白いモチーフのアートがたくさん描かれている。通りぬけてしまうだけではもったいない路地アートが満開だ。いつ消されてなくなってしまうか分からない。それを覚悟で描かれたアートたちを眺めていると、香港という中華圏のど真ん中にいることを忘れてしまいそうだ。

 カラフルで、ビビットな壁面アートに囲まれて、もうエラは有頂天。こっちのアートに飛んできては、壁の前で首を左右にかしげて見入ったり。あっちのアートにへばりついては、壁面を指で触れてみたり。さながら、百花繚乱の野に舞う蝶々のように飛び回っていた。


 タイセイはだんだん、誰の楽しみで街歩きをしているのかわからなくなってきた。だいたい、なんで香港に住み働いている人の方が、香港に初めてきた旅行者の自分より、街並みに大きな関心を抱き、街歩きを喜び、楽しんでいるのか…。

 しかし重ねて言うが、本当に男は馬鹿だから、無邪気に喜んでいる女性の姿を見ると、自分も何となく楽しいかな…なんて思ってしまう。エラはそれなりの大人なのだろうが、楽しいもの、美しいものが目に映ると、周りのことを忘れてすぐ夢中になる、まるで少女のような性格であることが計り知れた。


『そういうことなら、とことん楽しませてあげるよ』


タイセイは指笛を吹いて、エラの注意をこちらに向けると、ちょっと足を速めて歩き始めた。


 太平山道タイペンサン ストリートは、進んでいくうちに、必列者士街ブリッジエス ストリートにつながっていく。ここは古い建物や、学校が並び、映画の撮影などにもよく使われる地区。

 車の交通量も少ないので、リラックスしたぶらぶら歩きをつづけると、士丹頓街スタントン ストリートへつながる。そしてふたりは、エラが随喜するにまちがいなしのPMQにたどり着いた。


 PMQは小規模ながら、食事から、ショッピングまでなんでもござれの複合商業施設。PMQの名前はPolice Married Quartersの頭文字から取られている。つまり、ここはかつて既婚者向けの警察宿舎だったのだ。

 1951年に建築されたこの建物はシングルルーム140室、ダブルルーム28室を備え、当時のセントラル警察署からも程近い距離にある便利な宿舎で、中国人警官、といっても当時の警察は中国人以外にもイギリス人やインド人の警官も在籍していたのだが…その彼らが夫婦で住むことを許されていた。

 もっとも、本当の狙いは、より美しく環境の整った宿舎を建てることによって、多くの警察官を募り、また在籍している警官の士気を高めることにあったそうだ。

 やがて時がたち、政情も変わり、2007年までに、ここに住んでいた警察官たちは全員出て行ってしまった。以降、この場所は長い間利用計画が決まらず放置されていたが、2014年6月、歴史とクリエイティブが共存するトレンディスポット、"PMQ"として新しく生まれ変わったのだ。


 新生PMQの特徴は、何と言っても、かつて宿舎だった小部屋をショップに内装替えして、さまざまなアーティストやデザイナー、クリエーターたちがその自慢の作品を披露していることだ。

 それぞれの空間はかつて同じデザイン、同じレイアウトの部屋だったとはとても思えないほど、各オーナーのこだわりで様変わりしていた。

 それを見るだけでも、もうエラは十分ワクワクしたり、感心したり。さらにショップで、独自のセンスで世界各国から集めてきたおしゃれな商品や、ほかでは絶対に手に入らないオリジナルデザインの一点もの商品が並べられているのを見ると、もうエラは涙ぐんで、ショップからなかなか出てこない。


 さすがのタイセイも疲れ果てて、PMQ のレストラン「ISONO」に陣取り休むことにした。なるほど、このレストランでも、店内のインテリア、売られているパンやスイーツなどに、ちょっとしたクリエイティビティが感じられる。


 どれくらい経っただろうか、スケッチブックを胸に抱きしめてエラがようやくショップから中庭に姿を現した。

 中庭の見えるバルコニー席に陣取っていたタイセイにはそれが良く見えた。またもや、彼を見失って慌てているようだ。タイセイが指笛を吹いて、その存在を示す。

 彼の姿をレストランに見出した彼女は、安心したようだったが、彼のいるレストランには近寄らず、中庭の縁石に腰を掛けてしまった。それを見て、レストランの席で見ていたタイセイがやおら席を立った。

 エラは驚いた。彼が自分の存在を知っているということはわかっていた。だから今まで、後をついていくことを許してくれたことには感謝している。しかし、だからと言って彼が自分とのコミュニケーションを、積極的に望んでいるとは到底思えなかった。その彼があからさまに自分に向かって歩いてくる。なぜか、心臓が高鳴り、慌てるエラ。腰を浮かせて、逃げ出そうと思った瞬間、エラは彼に手首をつかまれた。そしてカフェレストランに引きずりこまれてしまった。


 タイセイはバルコニーの席の椅子を引いて、エラに座るように促す。

 座る時に、男性にエスコートされ椅子をひいてくれるなんて…エラには初めての経験だった。エラは、目の治療をしてもらった時に聞いた、あの優しい声を聞いた。


「こんなとことで偶然お会いするなんて…奇遇ですね」


 エラは、顔を真っ赤にしてうつむきながら、弱々しい返事を返す。


「嫌味を言わないでください」


 彼女は付いて歩いている理由を説明したいのだが、彼女が幼い時に出会い、そして決して忘れられないでいたものに、ようやく出会えたような感じを解明するため…なんてわかってもらえっこない。


 黙り込んでしまったエラに、タイセイはまたもや助け舟を出す。


「仮に、僕の後をつけていたのだとしても…僕に興味があってのことではないのは、はっきりわかりますよ」

「どうして?」

「だって僕より、街並みや、雑貨や、壁に描かれたアートの方が興味あるみたいだから…」


 見抜かれたエラに一言もなかった。一応言い訳を言っておこう。


「だって…こんな素敵なところ…こっちへ来て初めて来たんです」

「えっ、こっちで働いてどれくらい経つんですか?」

「2年くらいかしら…」

「そんなに香港にいるのに、初めてなの?」

「ええ、平日は住み込みのメイドで働いて、休日には公園でみんなと過ごして…2年間そんな毎日で…街歩きなんてしたことないから…」


 タイセイは驚きを隠せなかった。過酷なメイドの仕事。彼女は本当に魔法使いに会う前のシンデレラだったのだ。


「それが、今日初めて街のいろいろなモノが見られて、スケッチもできたし…なんだか、とっても嬉しくて」


 エラは嬉しそうに、スケッチブックをパラパラとめくった。


「それはよかったですね。でも、朝からお昼過ぎるまで歩いたんだ。おなかすいたでしょう。食べる時ぐらい、一緒のテーブルについてくださいよ」


 タイセイはレストランのフロアスタッフを呼ぶ。


「でも…恥ずかしいけど…こんな高級なレストランで食事ができるほど、お金持ってないんです」

「いいですよ。気にしないで。朝にいただいた治療代のお釣りだと思ってください」


 エラは、情緒的な抱擁を思い出して、さらに顔を赤く染めた。

 タイセイはそんなエラを笑顔で見つめながら、ふたりのために、グリンピースとイカスープ、そしてメインにジューシーで柔らかいサーモン、柔らかく煮込まれたビーフとトリフ味のマッシュポテトを注文した。もちろんハウスワインとパンも忘れるわけがない。


 運ばれてきた、グリンピースとイカスープは、エラにとっては過去に経験したことのない、それはおいしいスープだった。空腹も手伝ってか、ふたりとも、ものも言わずにスープを平らげる。そしてメインが運ばれてきた。エラの前に柔らかいサーモン、タイセイの前に煮込まれたビーフ。

 それを見て、エラは目を輝かせながら言った。


「どちらも、本当においしそうだわ…」

「…なんなら、もう一人前ビーフ頼んで、両方とも食べます?」

「そんな、たくさん食べられません…お金ももったいないし」

「では、どちらを食べたいか決めてください」

「うーん…そうだ。途中で交換して、それぞれの味を楽しみませんか」

「えっ」


 タイセイは一人っ子のせいか、人と分け合って食べたという記憶がない。短いとは言え、結婚した相手との生活の中でもそんな記憶はなかった。自分の前に出された食事は自分のもので、当然自分が食べる。それが当たり前の生活であった。


「欲張りですね…」

「だって…ひとりでひとつのものを食べるよりは、二人で二つのものを分け合って食べる方が…なんか…こう…いろいろ味わえて…幸せに感じませんか」


 タイセイにいたずら心が湧いてくる。


「でも…おいしいものを途中でやめられるかどうか…自信ないな…」

「…嫌ならいいです…ごめんなさい。勝手なこと言って…」


 女性は自分の本心は瞳の底に隠すという。過去交際した女性たち、かつて妻となった女性、そして自分の母も含め考えても、確かにその通りだと思っていた。

 しかし、この目の前に居る女性はどうだ。考えていることが、こんなに正直に瞳に映る女性には会ったことがない。涙とは言わないまでも、落胆した気持ちで目を潤ませるエラを、タイセイはまじまじと見つめた。


「わかりました。では、こうしましょう…好きなところでストップと言ってください。がんばってナイフとフォークを置きますから」

「えっ…いいんですか?」

「ええ、その代わり…食事を分け合う相手の名前も知らないのも変ですよね」


 タイセイは姿勢を正して自己紹介する。


「僕はコウケツタイセイです」

「わたしは、Elaiza James Dacara.(エライザ・ジェームス・ダカラ)」


 こうして二人は初めてお互いの名前を知って握手をした。


「これでミス・エライザと私はお友達です」

「ですね…」

「友達って、案外すぐ出来るもんですね」


 そう言ってほほ笑むタイセイ。エラはなぜか顔が上気してくる。それを悟られまいと彼女は声を高めた。


「そんなことより、早く食べましょう。おなかがすきました」

「ですね…それでは、よーい、ドン!」

「なんです?それ?」

「あっ、いや…日本のスタートの合図です」

「わたしはフィリピーナですからそんなの分かりません」

「そうですか…ならばミス・エライザの国のスタイルだと、なんていうんですか」

「Time Start Now!」

「なるほどね…あれっ…今ので始まっちゃったんですか…」


 無心に食べ始めているエラを見ながら、呆れ顔のタイセイ。


「ねえミス・エライザ。いくらスタートの合図があったとは言え、早食い競争じゃないんだから…お話ししながらゆっくり食べてもいいんじゃないですか」

「じゃあ…ストップ」

「いや、そういうことじゃなくて…えっもう交換ですか?」

「約束したじゃないですか」

「でも…まだ自分は何も食べてなくて…」

「安心してくださいドクター。ストップは何度でもかけますから、またビーフは帰ってきますって…」


 嬉々としてお皿を交換するエラ。


「だから…自分が言いたいことは、そういうことじゃなくて…」

「わぁ、このビーフおいしい。こんな柔らかいお肉、食べたことないわ。ドクターも食べてごらんなさい」


 エラは小さなお肉をフォークにさしてタイセイの口元に差し出した。


「えっ、いいですよ…お皿が返ってきた時に食べますから…」

「ほら、早く」


 エラは全く人の話を聞いていない。なのになぜ腹が立たないのか。タイセイは不思議に思いながら、エラの差し出す肉を口の中に入れた。


「どう?本当においしいでしょう」


 そう問いかけるエラの瞳は、ともに食事する楽しさにクリクリと輝いていた。

 タイセイは今まで、誰かとともに食事をすることとは、同じテーブルでそれぞれの食事を味わうことであると思っていた。しかし、こんな風にテーブルに乗っている食事を分け合って味わうというのも悪くはないなと感じていた。

 実はこれが、はるか昔に味わっていた家族の団らんというものであったのだが、父を早く失った彼は、そんな昔を思い出せず、その温かみを今初めて知ったような気になっていた。


「ミス・エライザ。提案があるんだけど」

「なんです」

「お皿の交換もいいのだけど、持っているフォークにそれぞれのソースが付いてしまって、味が混ざってしまうだろう」

「ええ…でしたら、お皿と一緒にフォークとナイフも交換します?」

「いや…今みたいに…お互い食べさせてあげればいいじゃない」


 言ってしまって、タイセイはすぐに後悔した。

 恋人でも家族でもない女性に、なんて提案を持ち出してしまったのか。自分に下心があるんじゃないかと、警戒されるに決まっている。

 ばつが悪くて目を伏せながらフォークとナイフを忙しく動かした。


「早く」


 タイセイが目を上げると、エラが顔を寄せて口を開けている。


「何してるんですか、早くください」


 エラにせかされて、タイセイはサーモンの小片をエラの口の中に入れた。


「うーん…おいしいけど…どちらかといえば、もう少し脂ののった部分の切り身が欲しかった」

「何言っているんです…脂が多い部分は食べ過ぎると体によくないですよ」

「このおいしい食事を前にして体の心配ですか…」


 エラの瞳が少し拗ねているようだった。


「でしたら、次にドクターに食べさせるべきはこれですね」

「それ…ビーフじゃなくて、付け合わせのニンジンですよね」

「それが?」

「僕はニンジンが苦手で…」

「だったら…」


 エラは器用にナイフを使い、ニンジンを牛の姿に切り抜いた。


「ほら、これでビーフになった」

「いやいや、やっぱりニンジンだし…」

「ドクターの体を心配しているんです」

「負けました…」


 タイセイは抵抗をあきらめ、目をつぶってエラの差し出す牛型のニンジンを口の中に入れた。


「さあ、ミス・エライザの番ですよ。このサーモンのどこが食べたい?」

「ドクターが2番目においしいと思うところをください」

「1番じゃないの」

「そう言って何番目に美味しいところをくれるのか…試しているんです」


 馬が合うというのはこういうことなのだろうか。今朝出会ったばかりのふたりではあるが、旧知の友達であるかのごとく会話のキャッチボールをしながら、笑顔でメイン料理を楽しんだ。




〈九龍城砦〉


 ドラゴンヘッドの言葉を聞きながら少年を見つめていると、モエにも自然に愛おしさが湧いてくる。思わずバッグからハンカチを取り出すと、少年のよだれを優しく拭った。


「小松鼠があんたの味方についているのなら…話しの続きを聞かねばなるまいな」


 そう言いながら、元の席にもどるドラゴンヘッド。しかし、モエに向き直った彼の瞳は、相変わらず漆黒の闇に覆われている。その瞳を信用していいのか、それとも一層の警戒をすべきなのか、モエは計りかねていた。


「で…誰を探しているんだって」

「私の息子よ」

「続けてくれ」

「香港で世界眼科学会に参加するために香港に来ていたの。学会の閉会後に1日香港観光をして帰国する予定だった。それが…突然消息を絶った」

「消息を絶ったのはいつ?」

「学会が閉会した翌日の夜…きょうで10日になるかしら」

「香港警察には連絡したのだろう?」

「ええ日本国総領事館を通じて…」

「総領事館と香港の警察が動いているなら、彼らに任せておけばいい…」

「総領事館は香港の警察と協力して全力で探してくれると言ってくれたんだけど、言っているだけで、不思議なくらいまったく進展がない。たまらず昨日香港に入ってきたわけ。それで、こちらでいろいろ聞いてみて…私もやっと気づいた…」


 モエは、ダイニングテーブルから身を乗り出してドラゴンヘッドに言った。


「香港はアジア有数の犯罪都市。海の底でものを探すには、海の底の住人にお願いするしかないって…」


 ドラゴンヘッドは、腰につけた巾着からキセルを取り出した。雁首につめこんだ刻みたばこに火を付けると、吸い口から煙を口に含ませる。


「どうなの?得意な仕事だって言っていたけど、口先だけなの?」


 モエは、煙を口から吐くだけで一言も発しないドラゴンヘッドに焦れて、挑発する。


「香港の畏敬と恐怖の象徴であるドラゴンヘッドに向かって、そんな口がきけるとは…あんたの強気はどこから来るのか、ぜひ知りたいもんだな」


 ドラゴンヘッドは、入口の男に短い中国語を投げつけた。

 男はうなずくと、テーブルの上に置かれた写真を自分のスマホで撮影し、札束を持ってキッチンから出ていった。キッチンでは、写真だけが置かれたテーブルをはさんで、ドラゴンヘッド、モエ、そして彼女の袖をしっかりと握った小松鼠だけが残された。

 ことの成り行きを計りかねて、モエは不安そうにドラゴンヘッドを見つめた。


「仕事は受けようじゃないか。ただし、さっきの150万香港ドルは、必要経費だ。別に着手金150万香港ドルを用意してほしい。勿論あんたの言った成功報酬もな」


 モエは、大きく安堵のため息をついた。小松鼠も、彼女の取引が成立した安堵を、握っている袖越しに感じたのか喜んでいるようであった。


「ありがとう。なら、ホテルに戻って、待っていてもいいわね。お金の準備も必要だし… 」


 モエが席と立とうとすると、ドラゴンヘッドがそれを押しとどめる。


「そういうわけにはいかん。あんたは、ここを動かないでくれ」

「…どうして?」

「まだ、あんたを信用している訳じゃない。わしたちが動いている間は、あんたをわしの目の前に置いておく方が安心だ」

「でも…いつまで?」

「結果が出るまでだ」

「結果って…何日かかるかわからないじゃない」

「いや、12時間以内で結果は出る」

「どういうこと」

「14Kの本気をなめてはいかんよ…香港はわしらの棲みかだ。生きていようが、海の底に沈んでいようが、この香港に居るのなら、12時間以内で見つけられないわけがない」


 ドラゴンヘッドはキセルの灰をテーブルの角でたたいて床に落とした。


「もし、12時間以内に見つけられないとしたら、息子さんはもはやこの香港には居ないとしか考えられない…いずれしろ、仕事はそこで終わりだ」


 ドラゴンヘッドの勝手な理屈に、腹を立てながらも、彼が言った『本気』という言葉が、頼もしく聞こえたのも事実であった。




〈香港街景〉


 PMQのレストラン。食後のデザートとコーヒーが運ばれたエラとタイセイのテーブルに、初老の紳士が声をかけてきた。


「纐纈先生ではないですか」


 タイセイは、声をかけてきた主を見ると、スプリングがはじけるように席を立つ。思わずエラも席を立とうとしたが、初老の男が彼女を押しとどめて、一礼をする。


「せっかくお食事をお楽しみのところ申し訳ない。レディ、どうぞお許しください」


 さすが中国人とはいえ英国式のマナーを身に着けた生粋の香港紳士。エラを淑女として扱ってくれるその振る舞いに、タイセイの顔もほころんだ。


「梁裕龍(LEUNG Yu Lung)先生。昨日はどうもありがとうございました」

「いえ、何度も言いますが、お招きして本当によかった。お招きするにあたっては演題の医学的エビデンスが不十分だと、口うるさく反対する評議員もおりましたが、結果は予想通り、大変興味深い研究内容だったと、学会員の評価が高いです。ご推薦した自分としては、鼻が高いですよ」

「わたくしこそ。数ある大先生の研究の中から、私のような若造の論文を取り上げていただいたことを、大変ありがたく思っています」

「ところで…」


 梁裕龍先生は、エラとタイセイを見比べながら言った。


「今日は、プライベートですかな?」

「ええ、帰国する前に1日ぐらい香港観光でもしようかと思いまして…明日帰国します」


 梁裕龍先生は、エラに興味があるようだったが、話しかけていいかどうか躊躇しているようだった。


「あっ、気づきませんで失礼しました。ミス・エライザ、こちらは梁裕龍先生。昨日まで開催していた香港眼科学会のプレジデント。梁先生、こちらは、ミス・エライザ。彼女は…」


 タイセイはどう紹介するか迷った。

 香港でどこかの家庭のメイドをしていることはわかっていたが、それ以外のことは全く知らない。だいたいさっきミスと紹介したが、本当にそれでいいかも実は知らないのだ。


「彼女は…アーティストで、今日は香港の街のアートについて、いろいろ教えていただいています」


 アーティストという紹介に、エラはびっくりした眼でタイセイを見返す。


「これはこれは…芸術家にお会いできるなんて、大変光栄です。やはり、我々無粋な医者とは違って、クリエイティブなオーラが漂っておりますな」


 梁裕龍先生は、うやうやしく手を差し出す。

 タイセイのひとことで、自分に魔法がかかったのだろうか。貧しいメイドが、香港新鋭のアーティストに見えるらしい。エラは申し訳なく思う反面、偽とはいえアーティストという肩書に少しばかりの心地よさも味わっていた。


「梁先生も学会が無事終わって、ひと安心ですね」

「ええ、ただ学会の準備で長く家庭を構わずいたので…。罪滅ぼしに今日は妻の使いでアンティックの家具を調達です。しかし…纐纈先生のお姿を見つけて、思わず声をかけてしまいました」

「わたしも、香港を離れる前にもう一度梁先生にお会いできてうれしいです」

「実は…ちょっと伺いたいことがあって…プライベートな時間で申し訳ないのですが…少よろしいでしょうかな?」

「私は構わないのですが…ミス・エライザ。よろしいでしょうか?」


 タイセイは同席の女性にお伺いを立てる。もちろん、エラに断る理由もない。


「ええ、どうぞ、梁先生お座りください」


 エラは梁裕龍先生に椅子をすすめた。


「纐纈先生が研究されている『網膜神経を形成するマイクロRNA群』についてなんですが…」


 いきなり、早口で語り始める梁裕龍先生。


「そのマイクロRNAの一種 『miR-124a』が、脳や網膜といった神経回路の形成と神経細胞の生存に、非常に重要なものであるとおっしゃっていましたよね」

「ええ、具体的には、脳では『記憶』に重要な海馬の神経回路形成に、そして網膜では『視力と色覚』を司る神経細胞に、大きくかかわっているのではないかと考えています」

「人は網膜に映ったものを、大脳で解析して、その記憶を海馬に蓄積する。それを可能にする神経の形成に『miR-124a』は深くかかわっているということですね」

「そうです…実はそればかりではなく、それが私がメインで研究している『網膜再生』におけるゲノム編集に、とても有効に作用するのではないかと考えています」


 エラは早口で語り合う二人を交互に見ながら、梁裕龍先生の同席を断るべきだったかもしれないと後悔しはじめた。


 ふたりの会話に出てくる古代文明の呪文のような単語の羅列は、エラを船酔いに似た気分にさせた。だが、出来るだけ寛容な笑みを口に浮かべておとなしく聞いていた。

 一方でエラが今にも吐きそうな気分でいることは、タイセイも察していた。こんなつまらない話しで申し訳ないと思うのだが、梁裕龍先生に同席を了解してしまった以上、話をやめて帰れとも言えない。

 彼はエラが心配になって、梁裕龍先生が話している最中でも、ちらちら彼女を見て気遣った。


「確かに…神経形成における『miR-124a』の役割の探求は、非常に興味深い研究であると思いますが…一方でそれが生み出すたんぱく質のことについては、オーラルセッションではまったく触れておられなかったですね」


 タイセイは梁裕龍先生の言葉に意表を突かれて息を飲み込んだ。


「どうして…それをご存じなんですか?」

「いや…論文でちょっと目にした気がして…」


 もう、エラを気遣う余裕を失っていた。タイセイはそのたんぱく質のことは研究室の同僚にも話していないし、論文にも一切書いていない。偶然に発見したたんぱく質だから、彼以外このことを知っている人間はいないはずなのだが。


「私はそのたんぱく質についても、大変興味がありましてね。セッションでお聞きできるかと期待しておりました」

「その…たんぱく質については…まだ研究としては不十分で、学術発表には値しませんよ」


 彼の抑制的な発言にも関わらず、梁裕龍先生は多少押しつけがましくタイセイに迫る。


「いや、すでに纐纈先生はそのたんぱく質の存在と機能を確認されているのでしょう?」


 タイセイは押し黙ったまま何の返答も返さなかった。しかし、梁裕龍先生は少し動揺している彼の表情を見て、自分が正しいことを確信し一方的に話し始める。


「『miR-124a』が発生するたんぱく質の発見は、今世紀最大の医学的発見であると言えませんか?…なぜなら、視覚認識から記憶のプロセスを解明する重要なカギとなるたんぱく質を発見されたのですから」

「いや…だから、過大評価していただいても…」

「いやいや、過大評価とは思いません…纐纈先生が仮説を立てられた視覚認識のプロセスはこういうことですよね。網膜にものを映すと、その神経細胞を形成する『miR-124a』が特殊なたんぱく質を発生する。そのたんぱく質を、神経細胞にある、translatorトランスレーターが電気に翻訳して脳に伝え、大脳が解析するとともに、電気的なデータとして海馬に蓄積する」


 タイセイが落ち着かない様子で頭を掻き始めた。

 話の内容がわからぬエラではあるが、今度はエラがタイセイを心配し始めた。彼は明らかにイラつている。その原因が、梁裕龍先生の雄弁さであることは容易に理解できた。


 しかし、梁裕龍先生はそんなタイセイの様子にもお構いなしにしゃべり続ける。


「…そして、この仮説は、実は人類に歴史的変革をもたらすことになる…それは、記憶は電気的データだから、人が死んで生体機能を停止すると、つまり電気が切れたら海馬からすべてのデータは消えてしまう。しかし、たんぱく質は有機物ですから、死後も網膜に残る。別な言い方をすれば、今まで存在していないといわれていた『網膜記憶』が、実はたんぱく質という形で存在していた。そして、それを解析すれば、死後であっても目に映った記憶を復元することができる…」


 そう、だからこそタイセイはこのたんぱく質の発見と研究に疑問を抱いていた。

 死んだ人の目に映ったものを復元して、なんの有益なことがあるのか。たとえそれが、殺人事件の犯人探しであろうと、死後に個人の記憶を、ここまでだったら垣間見ていいという倫理的ボーダーラインは、いったい誰が決められるのか。

 どんな目的があろうと、個人の視覚的記憶は死後に他人に確認されるべきではない。幸福であろうが、不幸であろうが、人生で蓄積された個人の記憶は、その人の死とともに消滅すべきである。タイセイはそう信じていた。


 恩義のある梁裕龍先生とはいえ、こう強引に話をすすめられては、そろそろ耐え難いところまで来ていた。そんなタイセイをエラが救った。


「梁先生。それって…当然生きている人にもいえますよね!」


 今度はエラが身を乗り出して梁裕龍先生に迫る。その迫力に、さすがの梁裕龍先生も話の腰を折られてしまった。


「どういうことですかな。ミス・エライザ」

「つまり…目が何かを覚えていて…その網膜記憶ってやつですが…その網膜記憶に従って…頭ではっきりと説明できないことでも、体が勝手にやってしまう…」

「体が勝手にやってしまう?たとえば?」

「…たとえばがっちり抱きついて、ほっぺチュウをしまくっちゃうとか…」


 エラの発言は、タイセイのいらだちを一瞬で吹き飛ばしてくれた。


 彼女は、目の治療後に起きたあの時の情緒的な行動は、脳から命令された意図的なものではない。網膜に残ったなにがしらかの記憶が、勝手に自分にやらせたのだと言いたいのか…。


 エラ…君はなんと豊かな発想力の持ち主なのだろう。

 だが、今回はとんでもなく飛躍しすぎだよ。ましてや、梁裕龍先生は朝の事件を目撃していない。

 いかに聡明な梁裕龍先生といえども、エラの質問を理解するのは不可能だった。

 案の定、彼は新鋭アーティストから投げられた質問を前に、その雄弁だった口をあんぐりと開けて、言葉も出ずにエラを見つめるだけだ。

 タイセイはしばらく笑いを噛みしめていたが、場の雰囲気も変わって、やがて梁裕龍先生も我に返ったようだ。


「いや…すっかりおふたりの邪魔してしまって…申し訳ないことをしました」


 エラの質問に答える代わりに、来た時と同じようにレディに礼を尽くして、テーブルから離れていく梁裕龍先生。


「なんで、私が質問しているのに、梁先生は何も答えもせず急いで帰っちゃうんですか?」


 心配げなエラの問いに、タイセイはいよいよ大笑いをはじめた




〈九龍城砦〉


「タイスケさん、あなた本当にパソコン直せるの?」


 モエは自分の夫に、お茶を出しながら疑いの目で声をかけた。彼は、口をとがらせ頬を膨らませながら、パソコン相手に奮闘している。その表情は、彼が物事に多少困惑している時に出る表情であった。出会った医学生時代からまったく変わらない。彼の心が手に取るようにわかる。だからこそ、そんな彼をより愛おしく感じるのだ。


 モエは夫の膨らんだ頬を眺めながら、助け舟を出す。


「無理だったらいいのよ。買い替えれば済むんだし」

「いや、諦めるのは早い…」


 その時モエは37歳、開業した眼科医院も好調で脂ののったドクターとして、多くの患者さんを相手に忙しい毎日を過ごしていた。一方、夫のタイスケも大学医学部附属病院のエース心臓外科医として活躍していた。

モエの診療所は和歌山にあり、タイスケの附属病院は岡山にある。

 それぞれの事情から、タイスケは岡山へ単身赴任を余儀なくされていたが、眼科医院の休院の時には、モエはできるだけ夫のアパートへ行くようにしていた。普段は厳しく、気丈で、頼りがいのある院長なのだが、夫といる時だけは、なんでも夫に頼って甘えん坊になる。


「こうなったら最後の手段でこのパソコンを初期化するしかないな」

「でも…初期化したら、入っていたデータは全部なくなっちゃうのでしょ」

「ああ、でも重要なデータは外部ディスクにストレージしてるのだろ」

「そうだけど…昔あなたと旅行に行った時の写真をデスクトップ画面にしていたの…それはちょっと惜しい気もするけど」

「確かそれは、俺の外付けハードディスクにとってあったと思う」

「だったら構わないわ」


 タイスケはメンテナンスCDを挿入すると、起動画面から初期化ボタンを押した。パソコンはジリジリ音を立てながら、自動で作業を始めた。


「ところで、我が家の御曹司の様子はどうだ?」


 時間を持て余したタイスケがモエに声をかける。


「だんだん私への反抗がきつくなっている気がするわ。この間なんか、自分やお父さんより仕事の方が大事なのか…なんて責めるのよ…」

「そりゃいかんな…今度帰ったら、よく言い聞かせよう」


 タイスケはそう言いながら、ジリジリと音をたてるパソコンの画面を心配そうにのぞき込んでいる。モエはそんなタイスケの横顔を、しばらく眺めていた。


「ねえ、あなた…」

「なんだよ…」

「あの…」

「今更、新しいノートパソコン買うなんて言うなよ」

「違うわよ…」

「だったら、なに?」

「私…仕事辞めて、家事に専念したほうがいいかしら」


 タイスケは、驚いたようにモエの顔をのぞき込む。


「なたが、そうして欲しいなら、わたし…仕事に未練はないわ」


 思いのほか真剣な問いかけに、タイスケもしばらく返事ができないでいた。


「どうなのよ?」


 タイスケは、あらためてモエに向き直って、彼女の両手を握った。


「正直に言おうか」


 夫に手を握られるなんて久しぶり…おおいに照れるモエだったが、それを悟られまいと平然を装う。


「ええ、お願い」

「学生の頃から…お前は臨床医として、並々ならぬセンスの持ち主だと感じていたんだ」

「あらやだ、臨床にセンスなんてあるの?」


 茶化すモエを制して、タイスケは笑いながら言葉をつづけた。


「いいから聞けって…ひと時は、そんなお前に同じ医学生として嫉妬も感じたこともあったっけ…」

「…今更、カミングアウトしてどうするのよ」


 不機嫌そうな彼女の口調は、タイスケに手を握られた上に、そんな誉め言葉をかけられて、益々照れ臭くなった反動だろう。


「いやいや、ほんとだよ。だからさ、生まれ持ったセンスを患者さんのために役立てなければ、与えてくれた医学の神様に申し訳ないと思うんだ」

「あなたの口から、ヒポクラテスが出てくるとは思わなかったわ」

「要するに結論はだな、お前は家事のセンスが全くないのだから、何に気兼ねすることなく、センスのある方をまっとうすればいいってこと」

「ひどいこと言うわね」


 モエが笑いながらタイスケを非難する。


「…俺も出来るだけ和歌山に帰って、息子の面倒を見るよ」

「できない約束はしない方がいいわよ…わかったから、もう手を離して」

「嫌だ…いつでもお前の手を握れるわけじゃないのだから、もう少しいいだろ」


 モエは顔を真っ赤にしながらも、タイスケの手を振り切ることができずにいた。そんな暖かな時が流れ、やがてパソコンの音が止まった。


「おっと、再インストールが終了したみたいだな」


 タイスケは、名残惜しそうにモエの手を離し、メンテナンスCDを取り出してパソコンを再起動した。


「どうだ、正常に走っているだろ。しかも軽くなったみたいで前より早くなった… これで新品同様だな」

「タイスケ君、えらいっ…。また使えるように修理してくれてありがとう」


 モエの賛辞に、タイスケはもっと褒めてくれといわんばかりに鼻を膨らませて顎を上げる。自分以外には決して見せることがないこのかわいい表情。


「どうってことないよ…」

「じゃ早速、デスクトップ画面を二人の旅行写真に差し替えてくれる」

「よっしゃ!」


 タイスケは外付けハードディスクをパソコンに接続し画像を探し始めた。しばらくして手を止めると、映し出されたなんの親しみもないデスクトップ画面を眺めながら、タイスケが言葉をつづける。


「でも、修理したというよりは、なんか新しいパソコンが生まれたって感じがしないか」

「…どういうこと?」

「確かにマシンそのものは今まで使っていたものなんだけど、中に入っているOSはまっさら…いわば、生まれたばかりの赤ちゃんみたいなものだ」

「それで?」

「このパソコンを使用していくというプロセスは、まさに生まれた赤ちゃんにあらためて経験と学習を重ねさせて、立派な成人に育てあげるようなものだ…」

「…なにがいいたいわけ?」

「もし、OSが人間にとっての魂だとしたらだな…」

「魂だなんて…科学者だったあなたが、いつから神秘主義者になったの」

「もともと科学者の祖先は、魔法使いか錬金術師だっただろ。根は一緒だって…」

「そうかしら…」

「経験と学習を重ねその魂が育っていく過程で…古い魂が宿していた過去の記憶など必要があるだろうか」

「タイスケくんたら…変なこと言いだすわね…」

「もし今のお前の頭に、見も知らぬ以前の人の記憶の断片が残っていたら嫌だろ」

「なんか気味悪いわね…」

「だろ…だから、デスクトップ画面を前のパソコンとおなじ画像にするなんて、やめないか?」


 タイスケの言葉に、モエは暫し考え込んだ。やがて合点がいくとあきれ顔で彼に言った。


「保管していたはずの旅行の写真データが見つからないって素直に言ったら」

「うう…面目ない…」


 モエは、肩をすぼめてしゅんとした夫の言に、口に手をあててコロコロと笑った。タイスケもそんな妻を見て安心したのか、頭を掻きながら豪快に笑い始めた。

 その時だった。


「ゲホッ」


 タイスケの口から鮮血がほとばしった。その量は半端ではなかった。その血で目の前のノートパソコンが真っ赤に染まった。


「どうしたの、あなたっ!」


 モエは驚きのあまり、医師としての冷静さを失った。


 夫の口からとめどもなく流れ出る鮮血をなんとか止めようと 、医学的効果もないのに、自らの手で夫の口をふさぐ。しかし、ふさいだ手の指の間から夫の血液が漏れ出し、その出血は止まりそうもない。やがて血液は、口内に溢れ、気管をふさぎ、夫はもがき苦しみ始めた。


「あなた、あなた、しっかりして…」


 モエは自分の声で目が覚めた。少年が心配そうに彼女をのぞき込んでいる。

 周りを見渡せば、ここは九龍城のアパートのキッチンである。彼女も現実に起こっている事態をゆっくりと思い出してきた。


「あら、私ったら寝ちゃったのかしら…探し始めてどのくらい経ちました? 」

「1時間かな…しかし、あんたも、こんなところでよく寝られるもんだな。いい根性しているよ」

「家族以外に寝顔を見られるなんて…はずかしいわ」


 ドラゴンヘッドはキセルにまた刻みたばこを詰め込みながら言った。


「だいぶうなされていたようだが…」

「普段見もしないのに、久しぶりに夫の夢を見たわ」

「日本であんたの帰りを待っているのか?」

「いえ、40そこそこの若さで、食道静脈瘤という病気でね。大量に出血してショック死」

「そうか…そんな病気だったら、お別れの挨拶もろくにできなかったのだろう」


 モエは、その小さな肩を一層小さくして、ぽつぽつと語りはじめた。


「お別れの挨拶どころか…連絡がとれなくなったのを不思議に思って…夫の住んでいるアパートに行ってみたら…鮮血で真っ赤に染まった布団の上で…あおむけで…両目を大きく開いて…死んでいたの」


 ドラゴンヘッドはモエの語りの邪魔をせず、黙って彼女の言葉を待った。


「死ぬ時に傍に居てあげられなかった。傍にいなかったのに、その時傍にいた夢を見るの…へんね…どうしてかしら」


 モエがテーブルに置かれた息子の写真を取りあげた。


「お葬式の時、みんな慰めてくれた。けれど、心の中では思っていたはずよ」


 彼女は写真に写る息子を指でなぜながら言葉をつづける。


「私の息子だけが、はっきりとみんなの思っていることを口にしてくれた。お父さんが死んだのはお母さんのせいだ。お母さんが、そばにいてあげなかったから、お父さんは死んだのだ…ってね。それ以来、息子は私を許してくれないの」


 言葉の意味を知ってか知らずか、小松鼠がモエの小さな肩をぎゅっと抱きしめた。モエはうなずきながらそんな、少年の優しさに応える。


「その写真に映っている青年が…その息子なのか」


 ドラゴンヘッドの言葉に、モエはキッと姿勢を正した。


「そうよ。だから、私は…私のいないところで家族を失うなんて、もうまっぴらなの」




〈香港街景〉


「ところで…ミス・エライザ」


 PMQのレストランをあとにしたふたりは、士丹頓街スタントン ストリートの緩やかな坂を下っている。いまのふたりは、PMQに入る前とはちがって、肩をならべて歩いていた。


「どうぞ…エラって呼んでください」

「ああ、それでは…エラ」


 タイセイはエラが大事に抱えているスケッチブックを見ながら言った。


「君は絵を描くことが本当に好きなんだね」


 エラが恥ずかしそうに、スケッチブックを背中に隠す。


「ちょっと見せてもらってもいいかな?」


 最初は渋ったものの、再三のタイセイのお願いに根負けして、エラはスケッチブックを彼に差し出した。


 タイセイは学生時代から、理系一筋で育ってきた男だ。一般教養としての美術史とそれぞれの時代にちらばる代表的な作品と作者は知識として知ってはいたが、実際に作品を前にしてその芸術性を見分ける目や耳があるはずはなかった。しかし、エラのスケッチブックに描かれた絵に、彼は少なからぬ興味を覚えた。

 それは、一ページに一つの風景や作品が描かれているのではなく、エラの目に映ったものやことが、まるで切り取られた写真のコラージュのように、ページ一杯に散らばっているのだ。

 スケッチブックに見入るタイセイを黙って許していたエラだったが、ついに恥ずかしさに耐え切れず言い訳っぽく口を開く。


「目に映ったものを、ただ描きちらしているだけですから…」


 タイセイは、エラの作品から顔をあげると、目を輝かせて彼女に話し始めた。


「パッチワークってあるでしょ」

「パッチワーク?」

「ええ、使い古しの布を集めて、縫い合わせるやつです」

「それが…?」

「縫い合わせた布の柄は、それぞれまったく関連性はないのだけれど、出来上がってみると、それでひとつのアート作品になっている…そんな、絵ですよね」


 タイセイはあらためてスケッチブックの絵に見入りながら言った。


「ぼくは絵のことはよくわからないのですが…なんか凄くいいような…そんな、評しか言えない自分が情けないのですが…」

「そんなに見ないでください…恥ずかしいです…」

「今更ながら…さっきエラをアーティストだって紹介したことに、間違いはなかったと安心しました」


 エラはついに恥ずかしさに耐え切れずスケッチブックをタイセイから奪い返した。


「いえそんな…私は出稼ぎのメイド、アーティストってわけじゃないですよ」


 照れくさいのか、早足になったエラを、笑いながら追うタイセイ。やがて、ふたりは閑静な高級住宅街、ミッドレベル・セントラルに佇む白亜のカトリック教会にたどり着いた。


 エラは無言で胸の前でクロスを切り、膝を曲げてこうべを垂れた。敬虔なクリスチャンであるフィリピーナであるからこその、自然なしぐさであった。


「ちょっと入ってみましょうか」


 タイセイが気軽にエラを誘った。


 そこは、天主教聖母無原罪主教座堂(Cathedral of the Immaculate Conception)。長さ83メートル、幅40メートル。白く輝くゴシック・リヴァイヴァル建築のその教会は、最大千名を収容できる大聖堂である。

 ゴシックの特徴的な柱に支えられた高い天井。その天井窓から差し込む光は、間接光となってやわらかく室内や祭壇を浮き上がらせる。派手なステンドグラスなどなく、室内に溢れる光があくまでも白いことが、この空間の荘厳さを際立たせている。

 アジアと言えども、長年キリスト教文化の国に統治された香港の教会である。さすがにその空間には、歴史的な重みがあるとタイセイは感じていた。


 エラが祭壇の前のイスにひざまずくと祈り始めた。

 クリスチャンでもないタイセイは、隣のイスに座って、手持無沙汰にそんなエラの姿を眺めていた。

 ようやく長い祈りを終えたエラに、タイセイは話しかけた。


「ひとつ聞いてもいいいかな…」

「なんです」

「そのスケッチブックに描かれている絵の中で…」

「また絵の話しですか」

「いや…気になったことがあって…」


タイセイがエラのスケッチブックに視線を送った。


「同じような人物が何回も出てくるんだけど…誰?シルエットから察するに、多分女性だと思うんだけど…」

「ああ、この絵ですね…これは私のマリア様ですよ」


 エラはタイセイの問いに答えるのに重ねて、祭壇上のイエス・キリストを見上げた。


「でも…なんで顔がぼやけているの?」


 繰り返されるタイセイの問いに、答えていいかどうか戸惑っていたエラだったが、覚悟を決めたのかゆっくりと語り始めた。


「実はわたし、小さい頃に目を怪我して…その怪我が原因で両目とも見えなくなったのです。でも突然私のマリア様が…」


 エラは胸の前で手を握ると、感謝の祈りをはじめる。タイセイは、突然口をつぐみ祈りはじめた彼女に戸惑ったが、仕方なくその姿を見つめながら話の続きを待った。

 祈りが終わったエラは、ようやくその顔を上げて口を開いた。


「マリア様が現れて、わたしの眼に奇跡を起こしてくれました。目が見えるようになったのです。ただ…どうしてもそのお顔が思い出せなくて…」

「エラがいくつの時の話しなの?」

「確か…6歳か7歳の頃です」

「そんな昔のこと…覚えてなくて当然だよ」

「いえ、見えなかった目が、見えるようになって…、その時はじめて目に映ったのがマリア様なのですから、忘れるはずありません」

「治ったばかりの時だから、人物の認識は出来ても、顔の細部は焦点が合わずボケていたのかもしれないね」

「そうでしょうか…」

「うーん、顔だけ記憶がないのか…」


タイセイはにやにやしながら言葉を続ける。


「本当に不思議ですね。エラの網膜記憶は、脳の命令がなくても体を動かせるくらい強力なのにね」

「意地悪言わないでください…」


 顔を赤らめながら、エラはスケッチブックに手を伸ばすと、ページをパラパラめくった。


「何日かたって、入院していた病院のベッドで目が覚めると、マリア様がいなくなった代わりに枕元に小さなスケッチブックと色鉛筆がありました」


 マリーはスケッチブックに描いたマリア様の像を指でなぜながら、話を続ける。


「あとで看護師さんから、それはマリア様が残したプレゼントなのだと聞きました。それ以来、目に映るものをスケッチブックに描くことが楽しくて…」

「なるほど…」


 術後、ともすれば自らの目を雑に扱う子どもの患者さんへ、適度な角膜のリハビリを促すために、スケッチブックを与えるなんて…。このドクターには並々ならぬ臨床のセンスを感じる。タイセイはもし自分が臨床の道を選んでいたら、こんな芸当を思いつくことができるだろうかと感心した。


 すると、エラがキリストを見つめていた澄んだ目を、いきなりタイセイに向けた。その黒真珠のように輝く瞳に見つめられて、タイセイの鼓動がなぜか高まる。


「ところが…ドクター・コウケツ」

「ちょっと待ったエラ。もう友達なのだから、君も僕をタイセイって呼んでくださいよ」


 社会的地位の高いドクター相手に、そんな呼び方していいのか、躊躇するエラであったが、話したい欲求が勝ったのであろう、彼女は言葉をつづけた。


「実はタイセイ…今朝…そのマリア様に出会えた気がしたんです」

「どこで」

中環セントラルで…」

「それで?」

「はい…マリア様だと思って思わず抱きついたら…タイセイでした…」

「ちょっと待ってよ。マリア様って女性だろ。僕は男だよ」

「ええ…よく考えればその通りなのですが…」

「同じ眼科医だから、錯覚したんだよ」

「いえ、いくら錯覚したといっても、男と女の区別くらいつきます。とにかくタイセイの姿が目に映った瞬間、頭で考える暇もなく体が動いちゃって」

「ああ…それで、あの網膜記憶の話しに飛びついたんだ」

「ええ…」

「なるほどね…そういうことか…」


 自分がエラのマリア様に思えた理由が知りたいから、後を付けてきたのか…。自分の男性的な魅力をわずかながら意識していた彼のプライドが、少しばかり擦りむけてヒリついた感じがした。

 そんな気持ちから出たのか、彼の小さなため息をエラは聞き逃さなかった。自分は何かまずいことを言ってしまったのであろうか。彼の横顔を心配そうに伺うエラ。

 やがて、タイセイも自分が不可解な振る舞いをしていることに気が付いた。そうだ、エラが自分についてきた理由を聞いて、なんで気落ちする必要があるのだろうか。別な理由を期待していたのであろうか。


「それで?」


 タイセイも気を取り直して、笑顔でエラに問いかける。


「それで、なぞは解けましたか?」

「いえ…なぞは深まるばかりです…」


 エラは力なく視線を落とす。

 タイセイはエラのスケッチブックを取とると、やおら立ち上がった。


「エラ、そんなことはもうどうでもいいじゃないですか」


 タイセイの鼻息の荒さに驚くエラに構うことなく、彼は言葉を続ける。


「…さあ、もっとたくさん美しいもの、楽しいものを見に行こうよ。そしてスケッチブックをいっぱいにしましょう」


 タイセイは彼女の手を引いて、教会を飛び出していった。




〈九龍城砦〉


 調査が始まってから、2時間。

 手持無沙汰になっていたモエは、小松鼠にあやとりを教えていると、あの男が現れた。男は、ドラゴンヘッドの耳元でなにやらつぶやくと、ドラゴンヘッドは小さくうなずく。

 調査の進展があったのか。モエは固唾をのんでドラゴンヘッドの言葉を待った。


「10日前…確かにあんたの息子は香港の市内観光をしていたようだな」

「なっ、なにかわかったの」


 せき込むモエを押しとどめて、ドラゴンヘッドが言葉をつづける。


中環セントラル駅の広場で、あんたの息子を見たものがいる」

「それで…」

「德輔道中を西へ移動して、荷李活道ハリウッドロード の店で時計を買ったらしい」

「それから…」

「PMQのレストランで食事をして…どうも、街歩きを楽しんでいたようだな」

「ああ…あの子、小さい時から、ひとりで街をぶらぶらするのが好きだったから…」

「だが…ひとりじゃなかったらしい」

「えっ、どういうこと」

「連れがいた」

「一緒に学会に参加した仲間かしら」

「あんたの息子は結婚しているのか?」

「一度結婚はしたことはあるけど、虫の好かない嫁でね…すぐ離婚したわ。あの子が私にした唯一の親孝行ね。で…なんで?」

「連れは女性らしい」

「あら、誰か日本から連れてきたのかしら…付き合っているひとはいなかったと思うけど…」

「日本人じゃない」

「まあなんてことでしょう… 海外で女遊びするような子じゃないんだけど…それからどうなったの、行った場所わかったの?」

「そう慌てるな」


 入れ込むモエを楽しむかのように、ドラゴンヘッドはゆっくりとキセルにたばこを詰めると、煙の中に我が身を漂わせるかの如くゆっくりとキセルを吹かした。


「今、その後の足取りを追わせているが…」


 ドラゴンヘッドはモエの顔を正面で見つめながら、言葉を止めた。


「どうしたの」

「いや…この仕事を続けるには…あんたもわしらもそれなりの覚悟が必要になりそうだ」

「どういうこと」

「厄介な奴らの顔が見え始めた」

「この香港であなたたち以上に厄介な人たちがいるのかしら」


 ドラゴンヘッドはモエの皮肉にも反載せず、話し続ける。


「あんたの息子さんの街歩きを尾行しているやつがいてね…それが中国人民解放軍総参謀部第二部の連中だとわかった」

「誰それ」

「いわゆる中国のCIA(Central Intelligence Agency/中央情報局)みたいなものさ」

「えええっ!」

「いくら日本総領事館が依頼しても、香港警察の捜索が遅々として進まない理由がなんとなくわかってきたよ…」


 ドラゴンヘッドの言葉に、モエは腕組みをして考え込んでしまった。


「いずれにしろだな…」


 ドラゴンヘッドがずる賢そうな目でモエの思考を中断させる。


「本土の役人が絡んでいるとなると、かなり危険だ」

「なによ…おじけづいて仕事を放り投げる気」

「いや、わしらが一番嫌うのは、わしらのシマで、本土の奴らに好き勝手されることなんだよ。しかしな…」

「しかし…なに」

「必要経費がもっと必要になる」

「なによ、ここにきて値段を吊り上げるのは、フェアじゃないわよ」

「いや…死人が出てもおかしくない仕事だってわかったのだから、危険手当を要求するのは当然だろう」


 ドラゴンヘッドが平然と放つ言葉に、モエは背筋が寒くなる思いがした。彼女は息子もこの仕事に関わる人も、誰も死んでは欲しくない。


「それとも、もしあんたがもうここでやめて欲しいというなら、話は別だが…」


 ドラゴンヘッドは意地悪な顔で彼女に問いかけた。


「ドラゴンヘッドさんに会うとなった時から、とっくに覚悟はできているわよ」


モエは背筋を伸ばして毅然と言い返す。


「ますます頼れるのはドラゴンヘッドさんだけって状況なのだから…ドラゴンヘッドさんの仲間も、誰も死ぬことなく、生きた息子に再会できると信じているわ」


なにが相手であろうと、ここでやめるわけにはいかないのだ。




〈香港街景〉


 天主教聖母無原罪主教座堂(Cathedral of the Immaculate Conception)を出たエラとタイセイは、中環セントラル駅に戻ると、地下鉄MTR荃湾(Tsuen Wan)線で旺角(Mong Kok)駅へ。香港島から九龍へと渡った。


 ふたりは、花園街で、中華文化色満載のカラフルなTシャツ、シャツ、セーター、パンツ、コート、イブニングドレス、ネグリジェ、子供服、アクセサリー、雑貨、靴、タオル、シーツ、カーテン、古着、下着・・・などなどに首まで埋もれてはしゃぎまわった。

 花園街からすぐ西隣の道へと歩みを進めると、そこは通菜街。通称金魚街といわれている人気スポットだ。

華やかな色彩をまとう大勢の金魚たち。それが、ビニール袋に入れられて、店の軒先一杯に吊るされている。エラが驚きの声を発した。


「なんて金魚ショップが多いんでしょう…綺麗ですけどびっくり」

「ああ、いかに多くの香港人が金魚を飼っているのかがよくわかるね」

「そういえば、私の働いている家でも金魚が泳いでいるわ」

「香港では自宅だけでなくオフィスでも、玄関を入るといきなり巨大な水槽がおいてあったりするらしいね」

「単なる家の飾りとは思えない…なにか意味があるのかしら…縁起がいいとか…」

「金魚がお金を呼ぶと思われているんだよ…だから」


 しかし、タイセイの解説も最後まで耳に届く間もなく、さっそくスケッチを始めるエラ。夢中になるあまり、いつまでたっても動く気配がない。しばらくそんなエラを眺めていたタイセイだったが、いよいよ我慢の限界。


「エラ、金魚たちのスケッチはここまで。次へ行くぞ」

「あっ、まって…もうすこし…」


 タイセイは路上に座り込むエラを無理やり担ぎ上げて、地下鉄に乗せ、尖沙咀站(Tsim Sha Tsui Station)へ。


 今度は、ザ・ペニンシュラ香港(香港半島酒店)の入口へ到着。だが、エラは風呂を嫌がる猫同然に、街灯にしがみついて離れない。


「どうして?…たくさん美しいもの、楽しいものを見たいのだろ?ここのザ・ロビー(The Lobby)で、クラシック音楽の生演奏をバックでいただくアフタヌーン・ティーは、最高らしいよ」

「だからと言って…私だって一応女です…女はTPOを大切にする生き物なのです」


 動くもんかと、さらに歯を食いしばって街灯にしがみつくエラ。

 

「どういうこと?」

「今の私の恰好では…このホテルに入ることなんて、到底できません」


 憮然とするエラ。


「なぁんだ、そういうこと…」


 タイセイはホテルを諦めて、エラを道向かいのそごうデパート・ロンシャンショップへ(Longchamp - SOGO Ladies TST)へ導く。


 ロンシャンのパリプレタポルテを前にして、タイセイは、気に入ったものを選んでとエラに言う。しかし、こんな店に来たこともない彼女は驚きのあまりフリーズするしかない。 仕方がないので、タイセイ自ら指示を出し、片っ端から試着させた。ザ・ペニンシュラ香港でアフタヌーン・ティーする女性にふさわしい服とは…。


 それから30分後、ザ・ペニンシュラ香港のザ・ロビーに、クラシカルなイスに腰を掛けているエラの姿を見ることができた。

 エラは初めて足を踏み入れた環境に茫然としているものの、その身にはタイセイのセンスで選んだドレス(ノースリーブのワンピース)とおしゃれなサンダルをまとっていた。

もともとフィリピーナは足が細い。多少肌の色がブラウンでも、痩身で上背のあるエラには、パリのプレタポルテが良く似合った。


 ティーセットやスイーツがテーブルに運ばれてくると、ようやく我に返ったエラはティーポットを優雅に扱って、タイセイにお茶をサーブした。


 メイドとして働くエラには、テーブルワークはお手の物だ。しかし、今の彼女の指先からは、普段の仕事を超えた、言うに言われぬ女性の美と気品が感じられた。それは、いくらパリのプレタポルテに身を包んだからと言って得られるものではないだろうに。

 タイセイはそんなものを感じるのは、老舗ホテルの歴史が作り出した魔界さながらの環境で、たっぷり妖気に浸かってしまった影響だろうと勝手に解釈していた。

 ここは、1928年12月11日の開業以来、90年の永い間、数々の人生の喜怒哀楽の舞台となった、ザ・ペニンシュラ香港のロビーなのだから…。


「ティーカップに紅茶を入れることが、そんなに珍しいのですか?」


 自分を見つめるタイセイの視線に、照れたエラが言った。


「あっ、いや…エラがさ…妙にこのホテルに馴染んでいるなって思って…」

「そんなことありませんよ」

「いや、そうして背筋を伸ばしてサーブしている姿なんて、まんまこのホテルを長年贔屓にしている宿泊客だよ」

「冗談でしょ」


 エラは照れくさそうに、額に落ちてきた髪を、その細い指で耳の裏にすき上げる。


「タイセイが私に魔法をかけてくれなければ、こんなホテルには入れませんよ。実は…今日初めてこのホテルの門をくぐったのです。さっきから、心は落ち着かなくてドキドキです」

「そうか…なら、記念なんだから、ヘアやメイクにも手を加えたらよかったかもしれないね」


 エラはサーブの手を止めて、真顔でタイセイに訴える。


「私にこれ以上の魔法はかけないでください。魔法に頼って美しくなった王女は、魔法が解けた時には決まってお婆さんになってしまうって…だいたいおとぎ話しはそういう結末でしょ…私、ホテルを出る時が怖いです」


 胸に手をあてて祈り始めたエラの純真さに、タイセイも自然と顔がほころぶ。


「はは、…大丈夫だよ。魔法を使わなくても、エラは十分美しいよ」


 エラの胸が小さくキュンと鳴った。『今、私を美しいって言ったの?』彼女は顔が赤く上気するのを誤魔化すために、いそいそとお茶のサーブを再開した。


 一方、タイセイは自分の口から出た言葉に驚いていた。こんな歯が浮くようなセリフを女性に吐いたのは初めてだ。彼は驚きと後悔に目を伏せて、ティーカップを口に運ぶ。

二人の間に気まずい沈黙が流れた。我慢できずに、今度はエラが口を開いた。


「タイセイは、女性に魔法をかけるのが得意なのですか?」

「いや…女性からそんなこと言われたのは初めてだよ。女性の気持ちが全くわからない唐変木だとはよく言われるけどね…」


 エラは、すねた小さな子どもを見る優しい目で、彼を見つめて言った。


「そうね…確かにタイセイは女性の気持ちが本当にわからない唐変木ね…」

「えっ?なんかエラの気分を害するようなこと言ったかな?」


 しかし、エラの口からは答えの言葉は出てこなかった。

いつの時代も、女性にとって魔法とは、ときめきの世界へ導く入口なのだ。魔法にかけられた女性は、そこで出会う人やモノに心を躍らせ、どうして平静でいられようか。案の定、エラは目の前の男にも、ときめきを感じ始めている自分が怖かった。本来明日いなくなるような男が、女性に魔法をかけるべきではなかったのだ。

 心に重い施錠をかけながら、エラはせっせとタイセイのカップに紅茶を注いだ。沈黙する彼女に戸惑い、彼は周りを見渡しながら話題を変えることにした。


「まいったな。エラに比べて、このホテルに自分こそふさわしくないような気がしてきたよ」

「なぜ」

「自分の服装やしぐさに、エラのような優雅さがみじんも感じられないから…」

「そんなことないですよ」

「いや、このジャケットだって地味でくたびれているし…」


 確かにタイセイは、今まで自分の外見など気にするタイプの男ではなかった。なのになぜエラを前にして、いまさら自分の身なりが気になるのだろうか。それは今まで味わったことのない羞恥なのだ。


「では、今度は私が魔法をかけてあげます」


 エラはスケッチブックから、まだ描いていない真っ白な紙を引きちぎると、器用に折りたたみ、タイセイの胸ポケットに差し込んだ。


「これで、タイセイはエリザベス王女の前に出てもおかしくない、紳士になったわ」


チーフに見立てて、エラが差し込んだ紙の白が、確かにタイセイのジャケットのモスグリーンを鮮やかに際立てる。


「ティーをご一緒できるなんて、光栄でございます。女王様」


顔に満面の笑みを広げながら、大業なしぐさで礼をするタイセイ。なんてかわいい笑顔なの…。心にかけた施錠が砕けそうになったエラは、あわてて視線をそらす。礼を返すのも忘れてせわしくティーカップを口に運ぶ作業を続けた。


 アフタヌーン・ティーを飲み終わると、二人はザ・ペニンシュラ香港を出て、アベニュー・オブ・スターズ(星光大道)へ。


 ここは、「香港映画の父」と呼ばれ、1913年に香港初の長編映画「荘子試妻」の監督を務めたライ・マンワイに始まり、ジャッキー・チェンやチョウ・ユンファといった最近の国際的スーパースターに至るまでの、100年を超える香港映画の歴史をたどることができる楽しい通りだ。

 ブルース・リー、アニタ・ムイ、マグダル、などの各像が配置されている場所では、対岸の高層ビル群を背景に、観光客が像のポーズをまねて記念写真を撮る姿が多く見られる。


 御多分に漏れず、タイセイもなじみ深いスターの前でポーズするが、その姿を早速エラがスケッチし始める。ロンシャンのワンピースを着て、眼帯をしながらも熱心にスケッチするエラの姿は、周りの観光客の目を引いた。それなりに人も集まってきてしまったので、恥ずかしくなったタイセイは、ポーズを解く。


「あん、もう少しで終わるから、動かないでください」

「…といわれても…」


 頭を掻きながらエラに近づき、スケッチを覗き込んで彼女に話しかけた。


「ところでさ、エラ…映画はよく観に行くのかい」

「今は忙しくてなかなか行けないけど…昔は、何度か母につれられて映画館に行ったわ」

「そう…ぼくも映画館の雰囲気が好きでね…よく映画を見にいったよ。ある時期なんて毎週観に行っていたな…」

「私の家はお母さんが働いていて忙しかったし、お金もなかったから…三カ月に一回ぐらいだけど、とても楽しかった」

「ふーん…うらやましいな」


 そう言ったきり、タイセイが黙り込んでしまったので、エラもスケッチの手を止めて、彼を見た。


「何がうらやましいの?3か月に1回しか行けない私より、毎週のように行けるタイセイの方がよっぽどうらやましいわ」

「僕の場合…観に行く時はほとんどひとりだった」

「友達とか彼女といかなかったの?」

「そんなに友達が多い方じゃなかったし…ましてや彼女なんて…」

「ご両親とは観に行かなかったの」


 夕日も沈みかかる香港の街の空を見上げながら、タイセイはぽつぽつと話し始めた。


「うちは、父も母も医者で…とても忙しい人たちだったから…一緒に行った記憶はないな」


 香港のビル群に沈む夕日を見つめる目が、寂しそうにその最後の光を反射させた。


「…父は遠いところで難しい手術ばかりしていたし、母は患者さんの目ばかり診ていた。それも毎日ね…」


 そう語るタイセイの眼の中に、今度は憤りの閃光が走るのを、エラは見逃さなかった。


「家族を放っておいて、他人の目ばかり診ている母親なんて…。きっと家族を愛することよりも、患者さんから尊敬されることの方が大切だったんだね。結局それで、父を亡くす結果になったのだから、母にとっては自業自得だよ」

「たった一人のお母さんなのに…ひどいこというわね。タイセイらしくない」

「らしくないって…今日会ったエラに、自分のどこがわかるのさ」


 タイセイの言い草に、エラが悲しい瞳で見つめ返してくる。

 タイセイは即座に後悔した。しまった、言い過ぎた…。彼は自分の失言を挽回するかのように、笑顔でエラの手を取った。


「さあ、ここはこれくらいにして、次の場所へ移動しよう。次は、Star Ferry Pier(天星碼頭)だよ」


 今度タイセイがエラを誘ったのは、シンフォニーオブライツ・ハーバー・クルーズ。ふたりは尖沙咀から19:55発のスターフェリーに乗船した。


 シンフォニーオブライツとは、ギネスブックにも世界最大と認定された、港湾の街を背景とした光と音のショーである。このクルーズでは、そのショーを、香港の象徴であるスターフェリーからじっくりパノラマで堪能できる。漆黒の夜空と、ビル群を照らすライトやレーザーの美しい演出は圧巻であり、まるでひとつひとつのビルが生きて歌っているかのようだ。

 エラは、スケッチをすることも忘れ、すっかりこのシンフォニーオブライツの虜になっていた。

 一方タイセイはきらめくビル群への関心は薄いようだった。どうも彼が虜になっていたのは、都市に施された美しい演出よりも、ライトを反射するエラの潤んだ瞳のようだった。


 ザ・ペニンシュラ香港での時もそうだが、エラと会ってからというもの、美しいという意味が、今まで自分が使っていた意味と全く別の意味で感じられるのはなぜだろうか。

 かつて、妻であった女性も、それなりに美しい女性ではあった。しかし、目の前にいるエラは、それと同じ意味での美しさではまったくなかった。「美しい」という言葉は実に多様なものを表現する形容詞であることを、いまさらながら理解できたタイセイであった。

 ロンシャンのワンピースを華麗に着こなして、スターフェリーの木製のベンチに優雅に腰かけているエラ。その外見から、中環セントラルの公園で、デニム姿で抱きついてきたエラとは別人のようだと、人はいうかもしれない。

しかし、彼は12時間彼女ともに過ごして気付いた。彼女はロンシャンであろうと、デニムであろうと、変わることもなく、人をやさしくするオーラをいつも発光している。それはきっと、一度光を失ったエラが、再び光を取り戻した奇跡を心から感謝するとともに、その感謝を周りの人たちにおすそ分けする無欲で純粋な生き様が、きっと彼に伝わってくるからなのだろう。このやさしいオーラこそ、エラの美しさなのだ。

そして世の中には数多くの美しいものがあるが、今目の前にしている美しさほど、自分に好ましいものはないのだと、心に思うタイセイであった。


彼女が夜空から視線を戻し、微笑みながら彼の瞳を見つめ返してきた。

タイセイは、はっとした。自分はどんな顔をしてエラを見つめているのだろうか。出会ったばかりの女性に対して、はなはだ不謹慎な表情をしていたのではないだろうか。


「クルーズのサービスについている軽食をもらってくるよ」


一生に出会えるか出会えないかの運命の女性を目の前にしていたのにもかかわらず、その女性から逃げるように、席を立ってカウンターへ向かうタイセイ。

カウンターでチケットに印鑑を押され、パイナップルケーキとクッキー、そしてミネラルウォーターのペットボトルを手にして戻った頃には、タイセイも多少冷静な自分を取り戻していた。


やがて、1時間のクルーズも終わり、Star Ferry Pier(天星碼頭)へ戻ると、二人は肩を並べて彌敦道ネイザンロードを北上し、iSQUARE(アイスクエア)へ。タイセイは、このショッピングモールの30階にあるルーフトップバー『Eye Bar』へと、エラをエスコートしていった。


 ここは、香港の100万ドルの夜景を堪能出来るおしゃれなルーフトップバーで、それなりにお値段は張るものの、カップルには随喜のナイトスポットである。

 絶景の夜景を眺めながらも、エラはもうスケッチブックを開くことはなかった。夜景もそっちのけでタイセイを相手に、おシャベリに余念がない。家族のこと、自分のこと。思いつくままにタイセイに話す。タイセイの前では、口から先に生まれた女性らしく振舞えるのはなぜだろう。エラは、しゃべりながらもそんなことを感じていた。一方タイセイは、もっぱら聞き役で、夜景とエラを交互に見ながら、それぞれの美しさを堪能していたのである。


 エラがこれまで、どんな環境でどんな人生を歩んだのか知っても、タイセイがエラに感じる美のオーラはなにも変わらなかった。エラの話で、彼女が今は独り身であることを知った。そのことで、なぜか嬉しくなっている自分を感じたが、そんな気分になるのも不謹慎だと自分に言い聞かせ、彼はせわしなくグラスを取って口に運ぶ。


「ところで…タイセイは公園で、私の目を治してくれたでしょ」

「いや、治すって程じゃないけど…」

「いつも、あんな病院で使うようなお薬とかガーゼとか持って歩くの」

「まあね…僕と同じ目のドクターである母から、うるさく言われてね…」

「へぇ…立派なお母さん。ならば、お母さんのお陰でわたしは助かったのね」

「患者さんにとっては立派かも知れないけど…」

「おやおや…また、お母さんをけなすのですか」


 もう同じ失敗はしたくない。今度は失言しまいと彼は口をつぐんだ。


「タイセイは困ったときは、いつもそんな顔をするんですね」

「顔って?」

「口をとがらせて…頬を膨らませて…」


 そんなことは誰にも言われたことがない。自分にそんな癖があったのかと驚いたが、たった12時間ではあるが、癖を指摘するほど自分に関心を持っていてくれていたのかと嬉しくもあった。


「人を愛そうとしない人は、愛されていることにも気づかないものですよ」


 いきなりのエラの言葉は、タイセイの胸にグサッと刺さった。

 タイセイだって女性を好きになったことはある。ただ、あらためてその女性を『愛していたのか』と問われると、胸を張ってそうだと言える自信もない。


「まってよ。僕だって恋愛経験ぐらいあるよ」

「そうですか…言い過ぎたわ。ごめんなさいね」


 しかし、エラはなんとなくわかるきがした。この人は本当に人を愛することに臆病で、それができなかったのだろう。だから…自分が母から愛されていることもわからないのだと…。


 いきなりエラのスマートフォンのアラームが鳴った。


「いけない」


 あわててスケッチブックを抱えて立ち上がるエラ。


「いきなり、どうしたの」

「終電の時間だわ」


 タイセイが腕時計を見ると、カシオの表示は深夜の0時30分を表示していた。


「遅くまで付き合わせてしまってごめん。タクシーで送っていくよ」


 いや、いつまでもタイセイと一緒に居たくて、帰ると言い出さなかったのは自分だ。できるなら、このまま夜明けを見るのも厭わなかったが、実際これ以上彼と一緒に居たら、自分にかけられた魔法が呪いとなって、自分を一生苦しめるにきまっている。


「そんなことまでしなくていいの」


 エラは、彼の引力から逃れるようにルーフトップバーを出て、地下鉄へ向けて急いだ。タイセイも慌てて後を追う。

 香港MTR(Mass Transit Railway)尖沙咀駅。エラは、地下へ降りる階段の前で立ち止まると、タイセイを振り返った。


「ドクター…ドクターに抱きついてしまった謎は、いまだに不明ですけど…目を治してもらってから今日一日、私に魔法をかけてくれてありがとうございます。本当に楽しかったです。今日のことは一生忘れません」


 打って変わったエラのよそよそしい口調に、タイセイは寂しさを感じた。しかし、彼も自分の日常を取り戻そうとするかのように、エラの眼帯を取り目を診察して言った。


「もう眼帯を取っていいですよ。最初は焦点が合わせづらいかもしれないですけど、そのうちはっきり見えるようになりますから…」


 エラは笑顔でうなずいたが、眼帯を取った瞳は、少し潤んでいるようだった。


「おとぎ話では、魔法は魔法をかけた人しか解けないって…知っていました?」

「…どういうことかな」

「私に別れの呪文を言ってください。そうすれば、いやがおうでも魔法が解けて、もとの世界に戻れますから」


 そう言うエラの真剣な瞳に、タイセイの胸は締め付けられた。

 しばらくして、彼の口から絞り出すように声が漏れた。


「さようなら…エラ…元気で」


 彼女は、微笑みとも苦痛とも思えるような表情を浮かべると、片手を挙げて小さく振る。


「さようなら…ドクター…」


 エラはタイセイに背を向けると、湖に身を投げるように階段を駆け下りていった。


 こうして香港のシンデレラは、地下鉄の闇の中に消えたのだった。おとぎ話では、この後彼女が階段に残したガラスの靴を手掛かりに、王子が探しに行くのだが、香港のシンデレラは地下鉄の階段に、何か証拠を残すようなことはしなかった。

 だが本当に定められた男と女というものは、そんなものがなくてもまた巡りあう運命なのである。




〈九龍城砦〉


「平凡な眼科の研究医が、なんでその…中国のCIAとやらに尾行されなければならないのかしら?」


 ひとりごとのように思わずモエの口に出た問いだが、ドラゴンヘッドは親切に拾ってくれた。


「そんなこと、わしらがわかるわけがあるまい。おたくの息子がこの香港でスパイ活動でもしたのなら話は別だが…」

「タイセイがスパイですって!」


 モエは思わず立ち上がった。

 テーブルの上でぎゅっと握った震えるこぶしを小松鼠がなだめるように、その手で包み込む。モエはその優しさに我に帰って、自信なさそうにつぶやいた。


「タイセイに限って、そんなこと…」


 ドラゴンヘッドが笑い出した。


「おやまあ…いつも強気のあんたが、俗世間の母親同様に『我が子に限って』なんて言いだすとは思わんかった」


 ドラゴンヘッドの皮肉に、プライドが蘇ってきたようだ。モエは胸を張って果敢に言い返す。


「でも…尾行されているのが、一緒に連れだって歩いている女性だって可能性も、否定できないでしょ…」

「まあ、そういうこともありうるが…」

「タイセイはきっとその女のせいで何かに巻き込まれたのよ…その女、いったい誰なのかしら…キャッ」


 思わず悲鳴をあげるモエ。彼女をこのキッチンへ導いてきたあの暗い男が、知らぬ間に彼女のそばに立っていた。


「脅かすのはやめてちょうだい」


 抗議をするモエを気にも留めず、一枚の写真をテーブルに置くと、また音もなく立ち去って行った。残された3人は写真をのぞき込む。


「これ、確かに息子よ」


 モエは叫び声を上げた。部分を拡大したようで、多少ぼやけてはいるが、写真には身なりの綺麗な女性と楽しそうにアフタヌーン・ティーを楽しんでいるタイセイが、確かに写っていたのだ。久々に見る息子の姿になぜか目が潤んでくる。


「これは何処なの?」

「ザ・ペニンシュラ香港のラウンジだよ」

「いつ撮ったの?」

「10日前」

「誰が撮影したの?」

「店の監視カメラの映像を拝借した」

「さすがK14ね…ところで…ここに写っている女性が、一緒に街歩きしていたって女性なの?」

「うむ…どうもフィリピン人らしいな」

「フィリピーナなの…」

「総参謀部の標的がもしそのフィリピーナだとしたら、この女は相当な危険人物にちがいない」

「なんで」

「国家的な事件でなければ、総参謀部第二部がわざわざ香港に来て動いたりせんからな」


 ドラゴンヘッドが新しい煙草をキセルに詰める。


「国家的大破壊を招く女テロリストなのか。はたまた、亡国の薬、麻薬を大量に扱うマニラコネクションの情婦なのか…。まあ、面は割れたから、遅かれ早かれわかることじゃ」


 モエは彼の言葉を聞いて大きなため息をついた。


「ああ…昔から、あの子にまとわりつく女に、ろくな女はいない」




〈香港街景〉


香港のタクシーは、日本の個人タクシーと似たものと考えると理解が早い。12時間で300香港ドルほどの リース料を払い、運行免許を持っている組合から車を借りて個人が営業をする。それは、まさに露天商のようなもので、親方から営業免許から車など一式を借りて働く。

レイモンドは多少焦っていた。今日車を借り出して、もう12時間になろうとしているのに、今日自分に課した稼ぎの額に達していないのだ。レイモンドは彼のイングリッシュネーム。生粋の香港人である。


 タクシーは、24時間運行だが夜間の割増料金なんてない。夜だろうが、昼間であろうが、その一日の労働に見合う稼ぎがなければ、家に帰るわけにはいかない。今日は、久々に子どもたちとTVゲームをやろうと思っていたのに…。


香港のタクシー事情をちょっと話しておくと、香港のタクシーは3色の車体で区別される。

「赤」の車体は、香港島と大陸側の九龍地区を営業エリアとしている車両。「青」の車体は、空港があるランタオ島を営業エリアにしている車両。そしてもう1種類、大陸側の中国と接する新界を 営業エリアとしている「緑」の車体。この「緑」タクシーは街を流さず、主に空港で客を待つことが多い。中国本土に行くには、この「緑」のタクシーに乗り、国境の検問所か検問所のある鉄道の駅(上水駅)に行かなければならない。

 レイモンドの車は、「赤」。昼間はビジネスマンや香港島を徘徊する観光客を狙っての営業だが、今日はいつになく実入りが少なかった。もう夜も更けて、ひと通りも少なくなってきた街ではあるが、家に帰る前に、なんとか少しでも多くの客を拾わなければと、ハンドルを握る手も汗ばんでくる。


 ちょうどMTR尖沙咀駅に差し掛かったところで、ひとりのビジネスマンを拾った。彼は英語で、北角ノースポイントのHarbour Plaza (北角海逸酒店)へと行先を告げた。流ちょうな英語ではあるが、けっしてネイティブなものではない。


『どう見ても日本人だな…しかも、高いホテルに滞在しているから、金もあるに違いない』


 レイモンドはバックミラーで客を盗みしながら考えた。もしかしたら、多少稼ぎが狙える客を拾ったのかもしれない。

通常なら、中央海底トンネルを抜けて湾岸沿いに走れば、12分75香港ドル程度の料金だが、東回りで東海底トンネルを使えば、37分150香港ドルくらいは稼げる。せこいといえば、せこい話だが、そんなことをしなければ、今日の稼ぎは上がりそうにない。

 彼は、ネイサンロードを左折すると、中央海底トンネルをパスして、そのまま直進し東回りのルート2号へ向かった。

 バックミラーでそれとなく客の様子を窺ったが、客は何か考えごとに没頭しているようで、ルートの変更など、まるで気にしていないようだった。

 レイモンドは安心して九龍城街市を左に眺めながら、プリンスエドワード東ロードを気持ちよく走った。


しばらくすると彼は、後ろから妙に車間を詰めてくる黒塗りの車に気付いた。いやな予感がした。その車から離れようとアクセルを踏みかかったとたん。今度は彼の車の前方に、やはり同じような黒塗りの車が割り込んできて、加速を阻まれた。そして、左右を見回すと、いつのまにか自分の車が4台の黒塗りの車にとり囲まれている。

4台の車は次第に車間を詰めてくる。意図的に自分の車に何かをしようとして迫ってきていることは明白だ。タクシーを狙ったギャングなのか。レイモンドは、パニックに陥った。スマホで助けを呼ぶ余裕さえ失っていた。

身動きの取れなくなった彼の車両は、ただ黒塗りの車の進む方向に従わざるを得ない。彼の車はついに幹道を離れ、人がいないShun Lee Tsuen Sports Centreの駐車場で停止させられた。

 ドアから飛び出して逃げるべきなのか、それとも誰も入ることができないようにドアのロックを堅持して、立てこもるべきなのか。レイモンドは、目から出血するような勢いで眼球を動かし、自らの取るべき行動を考えた。しかし、当然のことながら、そんな状態では整理できた結論など出るはずもない。ましてや、恐怖にすくんだ手足は、ただ震えるばかりで動かすこともままならないのだ。


 先頭の黒塗りの車から、男たちが出てきた。その中のひとりがレイモンドの車に近づくと、後部シートの窓を人差し指の関節でコツコツとたたく。この男たちの目的は自分ではなかった。客は窓を開け男はなにやら見知らぬ言語で話し合っていたが、客は特段抵抗もせず素直に男とともに黒い車に乗り移っていった。

その車が走り去るのを見ながら、エドワードはこの後に待ち受ける自分の運命を思った。解放なのか、それとも抹殺なのか。

 今度は彼のそばにいた男が、窓を叩いた。エドワードはゆっくりと窓を開ける。男は、胸の内ポケットに手を入れた。やはり、俺は頭を撃ち抜かれるのか。気を失いかけたエドワードに、男は75ドルの札を差し出す。


「おい、Harbour Plazaまでは普通にいけば75ドルの料金だろうが。わざわざ遠回りしやがって…観光客からぼったくった金で、太古の益発大廈アパートで待つ家族を喜ばすつもりだろうが、そうはいかねぇよ」

 

 自分のすべてを見通されている。しかも、客を乗せてから今まで、ほんの短い時間で、車両ナンバーから、ドライバーの素性と住居まで調べることができるとは…。

エドワードは、今夜の出来事はもちろんのこと、尖沙咀駅で拾った客、そしてこの男たちの存在は、なかったことにするのが一番だと悟った。


その日の夜 エラはなかなか寝付くことができなかった。目をつぶると、今日一日過ごしたタイセイの姿が、走馬灯のように瞼の裏を駆け巡るのだ。どうせ寝られないなら…。エラはベッドから起きだして、スケッチを取り出すと、脳裏に残る彼の姿をスケッチし始めた。

香港の街を背景に、タイセイの様々なしぐさや表情を書き写していくと、宝物のような一日が丁寧に思い起こされる。目に飛び込んできた蜂は魔法使いの手下なのだろうか。一介のメイドが魔法をかけられて、新進気鋭のアーティストに変身。そして王子様と出会う。それから王子様とともに、香港の美しくも不思議な街をめぐり、愛らしい雑貨や日頃触れることのない人々に出会い…多少現実の時間運びとは前後していたものの、シンデレラになった気分の今日一日を、エラは楽しく思い起こしていた。

 エラはスケッチを描きながら、なぜか涙ぐんでいる自分に気付いて驚いた。楽しい思い出のはずなのに、なぜこんなに切ないのだろうか。

 タイセイに出会うまではなかったのに、心に大きな穴が開いてしまったようだった。いきなり私の心に飛び込んできたタイセイ。さんざん私の心の中で暴れて、帰って行ってしまった。そのあとにできてしまった心の空間を、いったい何で満たせばいいのだろうか。

 所詮、香港に旅行に来たドクター。結局国に戻ることはわかっていたはずなのに…。彼を心の中に受け入れてしまった自分が悪いのだ。なぜ受け入れてしまったのだろう…。そう、探していたものに出会ったようなあの不思議な感覚。ただ、それはきっかけにすぎない。心の中でその存在を大きくしたものは、また別のものだった。エラはただそれが何かを突き詰めることが怖かった。

 エラはスケッチを放り投げると、ベッドに身を投げた。ああだれか、私の頭をフライパンで殴って気絶させて。そうすれば、今夜を乗り越えることができるのに…。




〈九龍城砦〉


 遊び疲れてしまったのか、小松鼠はモエの膝を枕にして寝てしまった。モエは彼の髪を手ですきながら、机越しに対峙するドラゴンヘッドを見つめていた。


「ところで唐突だけど…実は私…」


 ドラゴンヘッドは手を挙げてモエを制する。


「…あんたの素性など興味もない。口を閉じろ」

「ごめんなさい…わたし言いたいことを、我慢するようにと親からしつけられてないの…」


 モエが鼻で一笑する。

 ドラゴンヘッドは彼女のそんな反応を見て、自分への恐怖心が薄らいできていることを悟った。さて、もう一度脅しあげた方がいいのか…。


「わたしは眼のドクターなの。仕事がらどうしても、会った相手の眼の健康状態をチェックしてしまうんだけど…」


 ドラゴンヘッドは話の方向を感じ取って自然と眼をそらす。


「ドラゴンヘッドさんは、蛍光灯のわずかな光で、時々とてもまぶしそうに眼を細めるけど…」


 彼はそっぽを向いたきり返事もしなかった。


「まぶしい以外に、時々目がかすんだり、小さな文字が読みづらかったりしない?」


 相変わらず無言。


「もしかしたら、加齢性の白内障ではないかしら…ちょっと診せてごらんなさい」


 ドラゴンヘッドの顎を取り、こちらへ向かせようとするモエに、彼は顔を遠ざけてあからさまに嫌がった。


「白内障はね、眼の中でレンズの役割を果たしている水晶体のたんぱく質が、年齢とともに変性し、白く濁ってくることによって起きる病気なの。症状が進み、日常生活に支障がある場合は、眼内レンズをはめ込む手術をするんだけど、手術時間は15分ほどで、日帰りでの手術も可能よ。進行がそれほどではなければ、点眼薬や内服薬が用いて進行を遅らせるという方法もあるし、野菜や果物、海草などの食品に含まれる色素の一種であるルテインを積極的に摂取して進行を遅らせることもでき…」

「いい加減にせんか」


 ドラゴンヘッドもついに我慢の限界がきて、モエのおしゃべりを遮った。


「目の診療をして欲しいなんてだれも言っておらん」

「でも…」

「だいたい人が老いれば、目も悪くなるし、歯も抜けるし、足腰も弱くなる。その進行を遅らせてなんの得があるんじゃ」

「逆らうわけじゃないけど、死ぬ直前までからだのあちこちのパートが健全で、自立した生活ができることは、悪いことじゃないと思う」

「…先生もわかっておろうが…人間は不死ではない。だから人間は老いることによって、時間をかけて死ぬことを準備していくのだろ。老いの進行を止めたら、どうやって死ぬ準備をしろというのだ」

「だからって、治療して直るものを放っておくってのも…」

「いいかい。体の不具合もない内は、死ぬなんて考えられないものだ。だからいっこうに死の準備ができない。いくらピンピンしても、コロリの時にその準備もできていないのは残酷でもあり、悲惨だ」


 モエは、なぜか血に染まった夫の姿を思い出した。


「…老いて不具合が生じることは、我欲に満ちた現世への未練を少しずつ断ち切って、来世へ向かっていく準備なのだ思わんか?」


 漆黒の海の底で老いさばらえたドラゴンヘッドの言葉には、妙な重みがある。

モエは亡くなった夫を思った。モエの夫は若くしての突然死。自らの死を迎える直前まで、死ぬなどと考えてもいなかったはずだ。だから、ドラゴンヘッドの言うように、自らの死への準備などできていなかったであろう。きっと現世への未練を強く抱いたまま、来世へ旅立ったに違いない。彼の苦しみを思うと胸が張り裂けそうだ…。


 黙り込んでしまったモエに、ドラゴンヘッドが多少ためらいがちに話しかける。


「で、一応聞いておくが…その目にいいという…ルテンとかルーテルとかいうやつは、どんな食い物に含まれているんだって?」




〈香港街景〉


結局気絶させてくれる人もいないまま夜が明けた。エラはベッドから這い出て、メイドの仕事に精を出した。体を動かしている方が、昨日から早く遠ざかれるような気がしていた。朝食を作り、掃除、洗濯。雇い主の家族のために、一心に家事をこなすエラ。エラの雇い主は日頃からのエラの働きぶりに何の不満もなかったが、今日はいつに増して精が出ていると喜んでいた。

しかしエラの努力もむなしく、その日が終わってベッドに横たわっても、気絶できない夜に変わりはなかった。いい加減、あの日から一向に遠ざかれない自分に腹が立ってくる。

夜が明けて、翌朝もがむしゃらに仕事をしたエラは、休む間もなく近くの市場へ買い物に出た。市場のあちこちを歩き回り、さすがに肉体的疲労を覚えたエラは、休みがてら昼食をとろうと馴染みのカフェの席についた。


 席について彼女は愕然とする。体を止めると、タイセイの姿がまた脳裏にちらつき始める。だめ、だめ。早く食べて、家の仕事に戻らねば…。


「あら、エラ、久しぶりじゃない」


 同郷の幼馴染であるピンキーが声をかけてきた。彼女は昔から、野心的で他人を見下したように話すのでエラもちょっと苦手だった。ここ香港でも、その野心をどん欲に発動し、メイドから雇い主の愛人の座を手に入れ、毎日を遊んで暮らす地位を手に入れていた。

 ピンキーは、エラに断りもせずに同じテーブルに腰を下ろした。


「こんな市場で会うのも、珍しいわね、ピンキー」


 エラの問いかけを聞いているのかいないのか、彼女はコンパクトを熱心にのぞき込み、メイクの崩れをチェックしていた。


「買い物?」

「ええまあね…急なんだけど、先週ダーリンのお得意様達が大勢来てね。しばらく、家を使うからって追い出されちゃったの。ダーリンから借りている家だから、文句も言えず、彼らが帰るまでしばらくは近くの安ホテル暮らしよ」

「ふーん、大変ね…。でもホテル暮らしなら自炊する必要はないでしょう?」

「それがさ、お得意様の世話をするのにメイドが必要なんだけど、急にはメイドもみつからず、しょうがなく私が買い物ってわけ」


 もとメイドでありながら、家事が好きでないピンキー。彼女に世話されるゲスト達が気の毒に思えた。

 ピンキーはようやくコンパクトをバックにしまい、エラに視線を向ける。


「あいかわらず、生活に疲れたメイドの雰囲気満載ね」


 連夜の睡眠不足で、若干目の下にクマができているかもしれない。一昨日はロンシャンのワンピースを身にまとって、ザ・ペニンシュラ香港でお茶した、などとピンキーに言っても、きっと信じてはくれまい。


「まだ、趣味のスケッチ続けているの」


 エラの脇の席にあったスケッチブックを、断りもなく取り上げた。


「あっ、ちょっと…」

「あいかわらずね…上手なのか下手なのか」

「人に見せるものではないから…」


 エラの動揺も無視して、スケッチブックを勝手にぺらぺらめくるピンキー。


「お金にもなんにもならないスケッチなんて、よく続けられるわね」


 もう我慢も限界だ。スケッチブックを取り戻そうとして、エラは席を立ちあがった。


「ちょっとまって、この絵…」

「なによ。なんか文句あるの」

「文句じゃなくて、この絵の人」


 ピンキーは、エラが眠れぬ夜に描いたタイセイのスケッチを指さしていた。


「この前、急にひとりゲストが増えたんだけど…この絵、そのひとに似てる気がする」


 エラの体がフリーズした。


「このひと日本人でしょ。中国語のゲストたちに交じって、ひとりだけ日本語喋ってたもの」

「えっ…でも…日本人って言っても、いっぱいいるから…」


 ちょっと考え込むピンキー。


「それに、この絵の人は、もうとっくに日本に帰っちゃてるし」

「そうなの…」


 ピンキーは興味を失ったように、スケッチをエラに投げ返した。


「きっと人違いね。うちのゲスト達は、今も図々しく私の家でくつろいでいるわけだし」

「そうよ」

「ダーリンのお得意様だから悪口も言えないけど…みんな笑いもしない暗いやつばっかりでさ。到底堅気とは思えないわ、ほんと。…そうそう、その日本人もさ、地味なジャケットの胸ポケットに紙のチーフをしている変な奴だったもの」


 エラの息が止まった。息をすることを忘れるくらいの衝撃ってあるものだ。ただ、息を吐かなければ声は出ない。吐く息と同時に出たエラの声は、叫びにも似て市場中に響いたと言っても嘘にはならないだろう。


「ねえ、そのお得意様のお世話、私に手伝わせてくれない」

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