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東雲の姫君  作者: 小花衣 杏佳
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絶世の美女、現る

ほどなくして、大納言家の娘が更衣として雷鳴壺に入内し、右大臣家の娘が女御として登花殿へ入内した。


右大臣家の娘、桂子(かつらこ)は、決して美人ではないものの、高貴な育ちが伺える淑女であった。年齢の割には大人びていたが、時折見せる幼さと小賢しさが、まだまだ女一の宮に及ばない事を示していた。

一方で大納言家の娘、誓子(せいし)は女一の宮を筆頭に後宮中の女を瞠目させるに十分な美貌を備えていた。蘇芳の生地に金糸銀糸で刺繍された豪華は梅襲さえ、彼女の美貌にはとても及ばないように見えた。年齢も女一の宮とさして変わらぬ十八。行き遅れとも言われかねない年齢ではあったものの、大納言は東宮の妃とするためにとっておいた秘蔵の姫君であったとするならば、簡単に納得する事ができた。もちろん、後宮一の美姫と称される女一の宮も負けてはいないが、東宮の好みによって、十分に彼女は寵姫となる可能性はあった。


「大納言家二の姫、藤原誓子でございます」


高めではあるものの、落ち着きのある声音で誓子は言った。御簾越しで表情は分からないが、牡丹や芍薬のような華やかな微笑みを浮かべている事は確かだった。女一の宮は、思わず歯嚙みした。桜に例えられる女一の宮とは対照的な美人である。


「誓子殿、そなたは何が得意かえ?」


「琵琶にございます、御息所様」


「琵琶…なるほど。雷鳴壺は東宮御所からは随分と遠いが、不安はないかえ?」


ちくりとする嫌味の一つでも言わなければ、気が収まりそうになかった。女一の宮がいくら、寵愛深き后とは言われても、それは今まで一人しかいなかったからだ。彼女に寵愛を取られては母中宮に顔向けができない。


「ありませぬ」


きっぱりとした口調で誓子は言った。


「御息所様、失礼ながら申し上げます」


誓子の顔は自信で満ち溢れている。美しい瞳に強い光が灯る。


「皇子を産むのが(わたくし)の努めにございます。ですので、正妃である御息所様に遠慮をするつもりはございませぬ。東宮様のお召しを頂くためならば、何でもいたしましょう」


すなわち、自分のところに夜這いさせるための手段は厭わない。魅惑でも誘惑でも何でもする。御息所よりも東宮からのお召しが多くても、自主規制はしない。と、女一の宮に宣戦布告したのである。周りの女房達が騒めくものの、女一の宮は微動だにしなかった。本音を吐露させる事ができたのなら、それに越した事はないのだ。


「まあ、何と誓子殿は勇ましい。そういう事でしたならば、我とて遠慮はせぬ」


女一の宮をどう誤解していたのかは計りかねるが、この反撃は予想外であったようだ。誓子の表情が明らかに強張った。


「先に言ったのはそなたであろう?ならば、望み通りにしてやろうではないかえ」


「………」


誓子は二の句が継げないようであった。女一の宮の前で硬直している。


「…失礼致しまする」


早々と退散した誓子が、苦々しそうに女一の宮を睨んでいた。


***


女一の宮と誓子の予想に反し、東宮が雷鳴壺の更衣に足繁く通う様子は見られなかった。かと言っても登花殿の女御のもとを頻繁に訪れるわけでもなく、相変わらずの女一の宮一筋であった。むしろ、女一の宮のお召しは、二人の姫が入内する前よりも多くなり、梅壺の中宮を喜ばせるのに十分であった。


「…東宮様」


「どうしましたか、宮」


「あの、雷鳴壺の更衣はお気に召されませぬか」


おずおずと女一の宮が訊くと、東宮は苦笑した。


「それは素晴らしい美人ですよ。宮が嫉妬するのも仕方ないでしょうね。でも、残念ながら彼女とは話していてつまらぬのです」


「つまらぬ、とは?」


「そうですね、話が合わぬ、という事でしょうか」


「端的に言ってしまえば、そういう事でしょうね。私としては、宮の方がずっと素敵な妻ですよ。貴女が正妃で良かったと、心底、思っています」


そう言って女一の宮を抱き締める東宮に、女一の宮は赤面するあまりされるがままになっていた。これほどの言葉を東宮からいただく事になるとは、夢にも思っていなかった。


「東宮様…嬉しゅうございます」


恥ずかしげに女一の宮が言うと、東宮は目を見開いて口を手で覆い、俯いた。


「と、東宮様?」


何か問題があったのかと、女一の宮が慌てていると東宮はますます顔を俯かせた。


「…いや、宮があまりにも、その、可愛らしくて」


女一の宮の顔は、見る見るうちに完熟トマト、いや、トマトは無いので茹でダコとなった。東宮は、愛おしそうに目を細めて女一の宮を見ると、唇に優しい口づけを落とした。


***


それから、間もなくして梅壺の中宮が懐妊した。それを聞いた女一の宮は、喜ぶよりも先に不安を覚えずにはいられなかった。愛娘を東宮に嫁がせたとはいえ、年を取ってからの皇子誕生に、父帝は東宮の座を奪ってしまうのではないか、と懸念したためである。仮に生まれるのが皇子であるならば、という話だが。それよりもショックだったのは、若い自分よりも、母が先に懐妊した事だった。


「宮様、お気になさる必要はございません」


と、顔色を失った主君を慰めるように晴乃が言ったが、女一の宮を安心させるのには、到底、足りるものではなかった。そこに、慌ただしい足音が響いた。女房達の制止の声にも構わず、女一の宮のいる部屋に来るまで足音は響き続けた。

現れたのは、東宮であった。最愛の妻のために政務を放り出して駆けつけてくれたに違いなかった。


「…宮っ」


既に蒼白になって、今にも失神しかねない女一の宮を見て、東宮は申し訳なさそうな表情になった。


「申し訳ありませぬ…」


女一の宮が呟いたのは、謝罪の言葉であった。東宮かその言葉に大きく首を横に振る。


「何を言っているのです。宮は悪くありませぬよ」


「でも、私は入内してから半年も経つというのに、未だ懐妊しませぬ。まして、年老いた母に先を越されるなど…情けのうございまする」


自らを嘲笑するような口調で女一の宮が言えば、東宮はきっと女一の宮を睨むと一喝した。


「馬鹿なことを言うでないっ」


普段は穏やかは東宮が発した言葉とは思えなかった。


「宮、そのように自分を責めるでない」


優しく諭す東宮の言葉に、女一の宮の瞳から、一筋の涙がほろりと溢れた。慌てふためく東宮を他所に、涙は留まるところを知らぬようにして溢れるばかりだった。晴乃が紅絹を差し出さなければ、女一の宮の衣の袖は、ひどく濡れてしまっていただろう。


「東宮様…」


「安心してください。宮は、まだ二十歳にもなっていないのですから、案ずる事などありません」


東宮がにっこりと微笑めば、女一の宮の顔もほころばずにはいられなかった。

しかし、直後、女一の宮は固く目を閉ざし、口を袖で押さえた。


「宮?」


心配そうに女一の宮を覗き込む東宮の目の前で、女一の宮の身体はぐらりと傾いた。

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