チートウィンドウ8
宿屋のベッドの上で、はるかは天井を見つめていた。
何かがあるわけではない。
ただぼんやりしているだけだ。
何もする気が起きない。
ダンジョン初挑戦から10日ほど経つが、はるかはずっと宿屋に篭っていた。
ぽっかりと、胸に穴が開いたみたいだ。
はるかは自分では気づかなかったけれど、少し期待してしまっていたらしい。
元の世界への送還魔法の仕掛けそのものはなくとも、何か手がかりになるものぐらいはあるのではないかと。
その期待が破れて、じゃあ今度は中級ダンジョンにでも挑戦しようと切り替えることは、できなかった。
「つかれちゃった」
ぽつりと呟く。
万能ウィンドウのおかげで、苦労らしい苦労はほとんどなかった。
けれど、知らない世界にたった一人で放り出されたストレスは、思った以上のものだったようである。
いつまでも宿屋に引きこもっているわけにもいかない。
そんなことをしていても、なにも始まらないことは分かりきっている。
「うーん」
何か、気分を変えるようにしないとなぁ。
そうだ。
アロマとかどうだろう。
なんの香りがいいかな。
ラベンダー、ローズマリー、サンダルウッド、イランイラン、ゼラニウム・・・。
白檀に興味があるから、サンダルウッドにしてみよう。
ウィンドウの辞典機能で調べると、サンダルウッドの効能には心を静めるともある。
いい感じじゃないだろうか。
目を閉じて。
「わん、つー、すりー」
はい、どん。
しゅわっと良い匂いのミストが降りかかる。
髪に、顔に、胸元に、腕に、かけ布から少しはみ出たつま先に。
匂いを吸い込むと、気持ちが静められるようだった。
魔法ってばすごい。
ほんのちょっとの息苦しさを覚えながら、はるかは笑った。
ひとしきり穏やかな匂いに包まれた後、お腹が空いていることに気づいた。
そういえば、と思い出す。
この10日間、はるかは朝食しか食べていなかった。
それも、おかみさんが声をかけに来てくれてのろのろと起きだしてもそもそ食べるといった具合だ。
窓の外に視線をやれば、どうやら夕方らしい。
ぐう
催促するお腹を撫でて、はるかはベッドを出た。
狭い階段をきしきしいわせながら下りていると、おかみさんが顔を覗かせて、はるかを見るなりほっとしたように笑った。
「おでかけですか」
「いえ。お腹が空いたので、食堂で何か食べようと思って」
「まあ、そう。今日はじゃがいものグラタンがお勧めよ」
にこにこ笑いながら空いている席に誘導してくれる。
「じゃあ、それをお願いします。あと、果実ジュースも」
「ええ、ええ。すぐに作らせるわ」
厨房に伝えに行ったおかみさんは、果物がのった皿を持って戻ってきた。
リンゴモドキだ。
皮をラビラビの耳に見立てて切り込んでいて、実の部分も少し削ってラビラビっぽくしてる。
「待っている間に、よかったら食べてください」
「かわいいー。ありがとうございます」
目を輝かせるはるかを、おかみさんは笑って見ていた。
厨房の奥から客席を覗いていた主人も、はるかの喜ぶ様子を目にして、厨房の作業を再開する。
ラビリンゴモドキに感動しながらも、どこかで見たような気がするなあと思う。
記憶の端に、ここ5日ほどの朝食に出ていた映像がちらちら映る。
わあ。
初めて見たみたいな反応しちゃった・・・。
ちら、とおかみさんの様子を見るが、特にいぶかしんだところはなく、仕事に戻っている。
主人もいつも通り厨房の奥で作業している音が聞こえてくる。
小学生の頃にリビングで母親の料理の音を聞きながら宿題していたのを思い出す。
じわりと涙が滲みそうになるのを、かぶりを振って振り切った。
しゃり
手づかみで食べたラビリンゴモドキは、瑞々しく、さわやかな味がした。
「おいしい・・・」
正直なところ、ここ5日ほどの食事の記憶はあまりない。
食べたことは覚えているけれど、記憶はぼんやりしていて、何を食べたのか、どんな味だったのかは、きわめて曖昧だ。
朝食メニューはそんなに変わらないから、たぶんこれを食べていたんだろうなと、思い当たるものを記憶にあてはめているような、そんな感じでしかない。
魚介のスープとバゲットパンが運ばれてきた。
魚介のだしがきいていて、美味しい。
パンには小さな果物、ベリーモドキが練りこまれている。
「おいしい」
美味しいを味わえる体がある。
それなら、また、がんばればいい。
世界と世界を繋ぐシステムなんて、そんなに簡単に分かってしまっては、どちらの世界も混乱するばかりだ。
きっとまた徒労に終わるかもしれない。
うまくいくばかりで、とんとん拍子に進むばかりで、自分はきっと驕っていたのだ。
何度でも、挑戦しよう。
最初に決めていたはずなのだから。
また、がんばればいい。
器を持って、魚介のスープを喉に流し込む。
程よい熱さと、海の味が、舌を刺激する。
「美味しい」
大丈夫。
美味しいものを美味しいと、まだ、感じられるから。
「あら、ナツさん」
久しぶりにアンナの服屋を訪ねると、相変わらず柔らかい笑顔がはるかを迎えた。
ちょうど服を仕立てている最中だったらしく、木の人型に被せた布に針を刺していた。
「いらっしゃいませ」
キリの良いところまで終えたようで、いくつか針を刺して、はるかを椅子に案内する。
「今日はどのようなご用事でしょうか」
「あの・・・じつは、柔らかい布がほしいんです」
「柔らかい布ですか?」
はるかは顔を俯かせて頷いた。
こんなにもはるかが言いづらそうにしているのは、その用途が用途だからである。
同性相手といえども、思春期を抜け出しきっていないはるかには恥ずかしい。
「せ、せいりの・・・」
「ああ」
口ごもるはるかに、アンナは一瞬目を瞠り、すぐにやわらかく微笑んだ。
はるかはギルドカード上は10歳となっている。
初めての生理に戸惑っているとでも思われているのかもしれない。
いたたまれない感に、顔に熱が募る。
アンナは微笑む口元をそっと手の甲で隠し、温かいハーブティーをはるかに出すと、店の奥に行ってしまった。
はるかが生理に気づいたのは、朝食を終えて一旦自分の部屋に戻った後だ。
こちらの世界に来て以来、生理になることはなく、すっかり生理というものの存在を忘れていた。
当然のことながら、こちらの世界での処理の仕方なんて知らない。
日本で常用していたナプキンを魔法で作れないかと思ったけれど、イメージがうまくいっていないのか、何かが違う。
服を作ろうとしたときにも失敗したし。
なんでかな。
「これはどうかしら」
店の奥から戻ってきたアンナは、薄い布を持っていた。
何層かに折ってもなお、向こう側が透けて見えそうだ。
「少しお値段は張るけれど、ナツさんはあまり金銭的なことは気にしなさそうだから、ちょっと良いものを出してきちゃった」
ふふ、と少女のように笑う。
なにそれかわいい。
茶目っ気のある笑みを見せるアンナに、はるかは胸を打ちぬかれた。
アンナから布を受け取ってみると、手触りの良さに「わあ」と感嘆の声を上げる。
日本のデパートで店員さんの目を憚りながらにぎにぎした有名タオルに比べるとさすがに劣るけれど、それでも自宅で使っていたものよりは良い。
「これ、ください」
気づけばはるかはそう口にしていた。
値段を聞くこともなく言い切ったはるかに、アンナも笑う。
「値段のご案内が最後になってしまって申し訳ないけれど、この布、1枚で金貨一枚なのよ。もちろん、用途によっては切って使えるものだから、そうね、生理用ならば、5枚ぐらい取れるかしら。よろしいでしょうか」
「はい」
金貨一枚とは、たしかに高い。
びっくりはするけれど、出せない金額ではないので、はるかはただ驚くだけだ。
すっごい高級品だー。
だけど納得の手触りだもんね。
金貨一枚を渡して、受け取った布をもにゅもにゅする。
「布はこちらで裁ちましょうか。それともご自分でお好きに裁つほうがいいかしら」
「いえ。あの、アンナさんにお願いします」
まだちょっと気恥ずかしい。
手際よく裁った布を、おまけだと言ってアンナが小さな可愛いバッグに入れてくれる。
そのバッグを受け取ると、ふう、と大きく息を吐いた。
一仕事やり終えたような心地だ。
「すみません。あと、・・・・・お腹が痛くなったときに飲む薬を売ってるお店って、ご存知ですか?」
はるかは残念なことに生理痛がひどい性質だった。
「そうねえ。この通り沿いに薬店があるから、調合してくれるわよ。教会で治癒魔法をかけてもらってもいいし」
「治癒魔法でいいんですか?」
「? ええ。だって痛むんでしょう?」
「? はい」
「なら、治癒魔法で大丈夫よ。田舎の町の神父様だから、腕はそんなに良くないけれどね」
「そうなんですね。ありがとうございました」
治癒魔法なら、自分でも使える。
なーんだ。
一気にはるかは気が楽になった。
日本だったら薬を飲んでひたすら絶えるしかなかったけれど、この世界には魔法があり、自分はその魔法を使えるのだ。
楽勝じゃん。
そんなふうに思っていた時期が、はるかにもありました。
はい、どん。
所は変わって、宿の自室。
はるかはベッドの上で悶えていた。
「ううぅぅぅ」
世にも恨めしい声で唸りながら、お腹に集中しようとする。
けれど痛みのせいでまったく集中できない。
「う、うぅ、ぅぅぅぅぅう」
握り締めた拳がわなわなと震える。
楽勝だと舐めてかかっていたはるかを笑うかのように、準備をする間もなくそれははるかを襲った。
来るかなという予感はあったものの、「まあ、まだ大丈夫、だって魔法があるからね、ちょちょいよ、あははー」とのたまっていたところに、ふとした瞬間に激痛が走ったのだ。
もう、そうなってしまっては遅い。
はるかは治療魔法をかけようとするも、痛みのせいで集中できず、魔法はまるで成功しなかった。
「ううぅ」
はるかは誓う。
次はもう来そうだと思ったら治癒魔法をかけていこう。
魔法は万能のようでいて万能じゃない。
はるかが痛みにうめいている状態では、うまく発動しないのだと、心の底から学んだ。
もう慢心したりしない。
反省するから、どうかこの痛みを消してください。
誰にともなくはるかは心の中で拝んでいた。