08 クララメラ
店に帰ったタクトは、グリモワールとドーナツを一階に置いてから階段を登り、『クララメラのおへや』と札のぶら下がった部屋をノックした。
「店長、店長。まだ寝ているんですか? もう夕方ですよ。起きて下さい」
返事がない。
タクトはやれやれとため息をつき、ドアノブを回して部屋に入る。
すると風が吹き込んできた。
窓が空いたままで、カーテンがゆっくりと揺れている。
そして、窓の下のベッドで、一人の少女が掛け布団を抱きしめて眠っていた。
年齢は十八歳かそこら。
肩まである髪は水色で、まるで光が透き通っているように見える。
顔立ちは絶句するほど美しく、タクトを拾ってくれた十四年前から微塵も変化していない。
なぜなら彼女は人間ではないから。
トゥサラガ王国があるこの樹の特異点を統べる者。
五大女神の一人。
クララメラの名で祭られる存在にして、タクトの育ての親。
そして魔導古書店アジールの店長である。
「まったく……窓を開けたままで。人間だったら風邪を引きますよ、だらしがない。ほら、起きて下さい。ドーナツ買ってきましたよ」
「う、うーん……あらぁタクト。もう朝かしら?」
「バカ言わないでください。太陽は西から昇りませんよ」
タクトがそう言うと、クララメラは上半身を起こし、むにゃむにゃと目を擦る。
ネグリジェの肩紐がズレ落ち、細く白い肩が顕わになった。
実に艶めかしいが、タクトはもう見慣れてしまった。
家族の無防備な姿など、珍しくも何ともない。
「あら……もう夕方なの? 大変。眠る時間だわ。おやすみなさい」
「いい加減にしないと窓から放り投げますよ」
「暴力はいけないわ。タクトったら反抗期なの? 大変。私、どう接したらいいか分からないわ」
クララメラはおっとりした口調で、激しくズレたことを言い始める。
もともとマイペースな性格なのに、寝起きで頭が働いていないから、なおのこと会話が成立しない。
「反抗期の子供がドーナツを親に買ってきますか?」
「どーなつ……? ええ、ドーナツは好きだわ。タクトは気が利くわね。偉い偉い」
などと言ってタクトの頭を撫でてくる。
相手をしていると本当に夜になってしまうので、少々強引にクララメラの腕を引っ張り、ベッドから起こして、一階まで連れて行く。
そうしているうちに、やっと目が覚めたらしく、うーんと背伸びをしてから、ようやく「おはよう」と言ってくれた。
「はい。おはようございます店長。ほら、ドーナツですよ。お茶も飲みますか」
「もちろん、お願いするわ」
クララメラはカウンターの中にある椅子に座り、それから紙袋を覗き込んで「四つも入っているわぁ」と嬉しそうに呟いた。
まるっきり子供。
三百年以上生きている存在にはとても見えない。
「言っておきますけど店長。うち二つは俺のですからね。食べないで下さいよ」
タクトが魔術でお湯を沸かしハーブティーを煎れながら忠告すると、クララメラは唇を尖らせてみせる。
「分かっているわよ。タクトがくれるって言うなら喜んでもらうけど……優しいタクトはお母さんにドーナツくれるわよね?」
「上げません。俺が食べたくて買ってきたんですから」
「けちんぼねぇ。私はついさっきまで、樹の特異点の制御をしていたのよ? 少しはいたわってくれてもいいじゃない」
そう冗談めかして言ってから、ドーナツをパクリ。その瞬間、この世の幸福を集めて凝縮したような笑顔になる。
「いたわっていますよ。けど、さっき寝ていたのは、本当に寝ていただけでしょ?」
「ばれちゃった? でも、いいじゃない。幸いにもお店は優秀な店員のお陰で、かつてないほど上手くいっているし。ほら、私が眠っている間に、また新しい魔導書を仕入れている。上司が口うるさくしないほうが、部下は育ちやすいのかしら?」
クララメラは手をネグリジェで拭いてから、買ってきたばかりのグリモワールをパラパラ捲る。
手を拭かずに触られるよりはマシだが、服をタオルの代わりにするのは見過ごせない。
「また行儀の悪いことを。女神としての自覚があるのですか?」
「あるわよ? あるからこの土地が生存領域になっているんじゃないの」
それは反論の余地のない正論だった。
彼女が人類にしている貢献を盾にされては、タクトの小言など完全に無力だ。
なにせクララメラが気まぐれを起こして、人類を見捨てたら、三日もせずに絶滅してしまう。
この世界で五カ所確認されている樹の特異点。
そして五人いる女神たち。
数字の一致は偶然ではなく必然である。
樹の特異点から吹き出すマナを制御する存在こそが女神なのだから。
タクトも詳しくは知らないが、この世界の大半は、渾沌領域と呼ばれる恐るべき空間で占められている。
そこには秩序などまるでない。
大地を歩いていたと思ったら、急に景色が変わって崖から落ちて死ぬ。
のどかな草原だったはずなのに、瞬きした拍子に熔岩の海に切り替わる。
凍てつく凍土が一時間後には南国に変わり、地面から空に向けて雷が登り、重力が歪み、光の速度が変動する世界。
言うまでもなく、人間が暮らしていける環境には程遠い。
では、今こうしてタクトがいる場所はなぜ快適なのか。
樹の特異点がマナを吹き出す場所だから?
否。
そのマナを制御し、秩序を構築してくれる存在がいるからこそ、樹の特異点の周辺が生存領域として成立しているのだ。
タクトの目の前で美味しそうにドーナツを頬張っている彼女が、先代の女神から力を継承してから約三百年。
その間、彼女はずっとこの森で、吹き出すマナを制御して秩序を作り出し、トゥサラガ王国を渾沌から守ってきたのだ。
「ん? どうしたのかしらタクト。私の顔をじっと見て」
「いいえ別に。ただ、口の端にドーナツのカスが付いているなぁと思って」
「あら? あらあら本当ね。もったいないわ」
クララメラは舌で唇をペロリと舐め、それから二つ目のドーナツを手に取る。
タクトも負けじと食べ始めた。
それにしても、この店のドーナツはいつ食べても美味い。
いい本を仕入れた祝いなのだから、もっと沢山買ってくればよかった――と、タクトは割と本気で後悔した。