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73 イカそうめん

 エミリーとソルーガとソニャーナは、ジョッキで乾杯してからビールをゴキュゴキュゴキュと飲み干す。

 そしてプハァァァッとお決まりの声を幸せそうに漏らした。

 タクトは酒が飲めないし、飲んだこともないが、何だか羨ましくなってしまう。

 普通の水を飲んでいる自分たちが少々虚しい。


 が、そんな惨めな思いも終わりである。

 なぜなら、マスターがイカの刺身を運んできたからだ。

 これでビールに対抗できるはず。


「おまちどおさま!」


 大皿がテーブルの真ん中にドカンと置かれる。

 そこには美しく盛られた大量のイカそうめんがあった。

 添えられた青じその葉っぱが鮮やかにイカを引き立て、更にタクトが以前教えたとおり、千切りにした大根もある。

 これだ、これ。

 これぞ日本人の心。


 無論、これだけでは刺身の完成とは言いがたい。

 マスターは六人分の小皿を並べ、そして黒い液体が入った瓶を置く。

 そう。

 醤油、だ。

 醤油がなければ始まらないだろう。


 ただし、この世界には大豆を発酵させる文化がないので、魚と塩を漬け込んで発酵させた魚醤である。

 独特のコクがあり、大豆の醤油とは異なる味だが、それもまた美味いのだ。

 ここにアレさえあれば最高なのだが――。


「おい、タクト。今日はお前さんが食べたがっていた、アレもあるぜ」


 なん、だと?

 まさか。

 まさか、あるのか!?


「ワサビ、だ。行商旅団から買ってきた」


「うおぉっ!」


 タクトは悲鳴が口から飛び出すのを止めることが出来なかった。

 だって、刺身に、醤油に、ワサビだぞ!

 この組み合わせ。

 転生してからの十四年、ずっと夢見てきた。

 次元回廊を開くまで実現不能だと諦めていたが……この世界にも八百万の神の加護が届いていたらしい。


 ほら、見るがいい。

 マスターが手に持っている緑色の物体。

 イボのついた茎に、その何倍もの大きさの葉っぱ。

 これぞワサビに相違ない。


「確か、この茎をすり下ろすんだったよな?」


「はい……はい! その通りです!」


「ちょっと待ってろ。おろし板を持ってくる。お前が自分でやるんだろ?」


「それはもちろん!」


 タクトは頬を涙が伝わっていくのを感じた。

 それを皆が不思議そうに見つめているのも分かっていた。

 みっともない。

 それでも止められない。

 セラナたちだって、食べたら分かる!


 一度厨房に戻ったマスターが再びやって来ると、ワサビは葉がとられ茎だけになっていた。

 そして、おろし板も一緒だ。


「タクトくん……どうしてそんなに目を血走らせているの……?」


「まるで、初めて女の裸を見た少年のような瞳じゃぞ……」


 そんなことを言っていられるのも今のうちだ。

 見るがいい。嗅ぐがいい。

 これがワサビの力なり!


 じょりじょり、じょりじょり。

 ごりごり、ごーりごり。


「はにゃにゃ? 急にツーンとした匂いがしてきたにゃん!」


「しかし、いい匂いだ……オラ、こんな匂い初めてだ……」


 すりたてのワサビの香りが、店内に広がっていく。

 マスターを含めた全員が、興味深げにタクトの手元を見つめ、そして鼻をくんくんと動かす。

 やがてワサビは、おろし板の上でペースト状になった。

 タクトは箸を使って、それを刺身の皿のふちに乗せてやる。

 そう〝箸〟である。

 街の木工職人に頼んで、この店用に特注したのだ。

 やはり、刺身を食べるときは箸でなければならない。


「皆さん。ワサビは醤油に溶かさず、刺身に少量ずつ付けて、その反対側に醤油を付けて食べて下さい。それが一番風味が出ます」


「めんどくさい奴じゃのう」


「タクトくん、刺身番長ね」


「タクトくんとの付き合いも長いが、こんなに必死な姿を見るのは初めてだよ」


 無知な彼女らは、タクトのこだわりに呆れた顔で応える。

 やれやれ、だ。

 いいから言われたとおりにすればいい。

 そして敗北を認めろ。


「箸、使いにくいにゃー。フォークがいいにゃー」


「オラと兄者にもフォークだ。こんな二本の棒で食えるか!」


「……罰当たりな。まあ、いいでしょう。セラナさんとエミリーさんは?」


「ふふふ。私は何度もこの店に来ているから、箸の使い方などお手の物さ」


「私も箸に挑戦してみるわ!」


 ララスギア在住の女性二人は頼もしい。

 それでこそアジールの常連だ。

 タクトは嬉々として箸を渡す。


「それでタクトくん。箸ってどうやって使うの?」


「こうです、こう」


 タクトはセラナの目の前で、箸をパカパカ閉じたり開いたりしてみせる。

 セラナは、見よう見まねで何とか箸を操ろうとする。

 剣士だからだろうか。上達が早い。

 危なっかしいが、一応は箸の動きになっている。


「おいおいタクトくん。もう食べていいのかい?」


「お腹ぺこぺこにゃん」


「ああ、申し訳ありません。では皆さん。どうぞ」


 彼女らはタクトの指示どおり、イカを醤油につけ、その上にワサビをちょんと乗せ、ぱくりと一口。

 その瞬間、全員の顔に花が咲いた。


「あ、甘いにゃぁっ!」


 そう。イカの刺身は甘いのだ。

 もちろん、その種類や鮮度によって味は違ってくる。

 釣ったばかりのイカは透明で、もっとコリコリした食感だ。

 だが、この刺身は漁村から運ばれてきたものなので、少し白くなっており、柔らかく、そして甘い。


「これは美味い。ビールが進むのじゃ!」


 ソルーガはイカそうめんにフォークを突き刺し、グルグルとパスタのように巻き付ける。それに醤油とワサビを付けて口に入れ、もにゅもにゅと噛んで飲み込み、続いてビールをがぶがぶ。


「マスター、ビールおかわりじゃ」


「オラにもビール!」


「では私も頂こう!」


 ビール三人組は、酒も早いしイカも早い。

 うかうかしていると、全て食べられてしまう。


「ああ、ところで。ソルーガくんにソニャーナちゃん。どうしてここにエルフがいるのか、もし良かったら教えてくれないか? まあ、無理にとは言わないが。ぐびぐび」


「ぐびぐび。うむ……お主は悪い人間ではなさそうだから個人的には教えてやってもいいのだが……ぐびぐび。秘密を漏らすと村全体を危険に晒すことになりかねないのじゃ……ぐびぐび」


「兄者の言うとおり。済まんが細かいことは秘密だ。まあ大雑把に言うと、親切なタクトとセラナに助けられた縁で遊びに来たと、そういうわけだ。親切な二人はこうしてイカとビールまで奢ってくれた。いやはや、人間も捨てたものではないな。ぐびぐび……ビールが美味い!」


 いつの間にか奢ることになっていた。

 しかし二人が金を持っているとも思えないので、誘った時点で覚悟はしている。


「ふーん。タクトくんとセラナちゃんはエルフを助けてしまったのか。凄いな。きっと将来大物になるぞ」


「タクトはマオのマスターだから既に大物にゃん!」


「はっはっは。確かにそうだな!」


 タクトが大物かどうかはともかくとして、セラナは実際に大物になるだろう。

 この前の校内トーナメントのおかげで協会の注目も集めたし、順調に成長していることは空島で証明された。

 タクトのサポートさえあれば、今すぐでもダンジョン探索が出来るくらいである。

 それに、ミスリルのインゴットはセラナがいなければ見つからなかったはずだ。

 ほとんどノリでセラナを同行させた今回の旅だが、連れて行って本当によかった。

飯テロ回なのであえて夜中に更新しました

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