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45 危機一髪

 タクトは自室にマオを連れて行き、床の上にトゥサラガ王国の地図を広げる。


「それで。問題の魔術師はどこに住んでいたんだ? まさか別の国ってことはないだろう?」


「それは大丈夫にゃ。トゥサラガ王国の中にゃ」


 マオの返答を聞き、タクトはほっと胸を撫で下ろす。

 なにせトゥサラガ王国の外側には、危険極まる渾沌領域が広がっている。

 そこを走破するのは、大海を渡るよりも遥かに困難。

 宇宙空間に比肩するほど、人類の生存に適さない。


 無論、渾沌領域を渡って他の国へ行く方法はある。

 魔術師協会が五つの生存領域に渡って活動しているように、最上級の魔術師なら、想定外の事態が起きない限り渡航可能だ。

 あるいは、今この街に滞在している行商旅団のように、特別な乗り物を使って移動するという方法もある。


 タクトとて、渾沌領域を越えて隣の国へ行ってきたことがある。

 だが、それは単独だからこそ可能な技だ。

 案内役であるマオを置いていくわけにはいかず、さりとて、マオを守りながら渾沌領域を渡るのは、まず不可能といえる。


 実際、行商旅団によって五つの生存領域の間に物流がある以上、あのグリモワールが別の国から来たという可能性もあったのだ。

 しかし幸いにも、全てはトゥサラガ王国の中で完結しているらしい。


「場所は……ここにゃ!」


 マオは〝びしっ〟と擬音が聞こえてきそうな勢いで、地図の一点を指差す。

 そこはトゥサラガ王国の東の外れ。

 生存領域と渾沌領域の境界線。

 カマルの森と呼ばれる場所だった。


「これはまた随分と辺鄙な……と言うより、剣呑な場所に住んでいたんだな……」


 渾沌領域に近いということは、女神の加護が薄いということだ。

 言い換えれば、秩序が薄い。

 呼吸をしただけで死ぬような渾沌領域に比べればヌルイが、それでも〝歪み〟はあちこちにあるはずだ。

 たとえば、野生動物が魔力を持った魔獣と化したり。

 あるいは、時間や距離の感覚が狂ったり。


 だからこそ、普通の人間の足は遠のく。

 魔術師とて、特別な用事がない限り、渾沌領域の境界線などには近づかない。


 そんな場所を拠点としていたのであれば、そこにどんな秘宝が眠っていても、今まで知られていなかったのも頷ける。

 いまだ魔王を封印した魔術師の名は不明であるが、カマルの森にいけば、それも分かるだろう。


「……って、マオに聞いたほうが早いか。なあマオ。その魔術師は何と言う名前だったんだ? あのグリモワールの完成度からみて、かなり高名な人だったと思うんだけど」


「にゃ? えーっと、それは……なんて名前だったかにゃぁ……」


「思い出せない? じゃあ、その人の家は、カマルの森の具体的にどの辺だった?」


「にゃぁ……もうちょっとで思い出せそうなのに……どこだったかにゃぁ? なんて名前だったかにゃぁ……?」


 マオは腕を組み、首を捻り、うにゃーんうにゃーんと唸り始める。

 しかし、いくらここで唸っても、記憶は蘇らないだろう。

 忘れてしまった記憶というのは、思い出そうとして思い出すのではなく、何か、ふとした拍子に湧き上がってくるものなのだ。


 ゆえに、一番いい方法は、現地にマオを連れて行くことである。


 しかしカマルの森まで行くとなれば、少なく見積もっても今日一日を潰すことになる。

 ここから直線距離で約150ラトケメル。地球の単位に直せば300キロメートルといったところ。

 もっともタクトの飛行速度から考えれば、距離よりもむしろ探索にかかる時間こそが問題だ。

 マオがすぐに場所を思い出し、次元回廊にかんする資料なり研究成果なりを見つけることが出来れば、今日中に終わるかも知れない。

 逆に、マオがいつまでも忘れたままだと、手ぶらで帰ってくることになる。


 なんにせよ、アジールは臨時休業だ。

 遠出するわけだから、クララメラにも言っておく必要がある。

 タクトはマオを連れて、クララメラの寝室をノックした。


「店長、入りますよ」


 もちろん返事はない。

 勝手知ったるタクトは、勝手に部屋に踏み込んだ。

 予想どおり、クララメラは熟睡中だ。


 掛け布団はまるまって抱き枕の代わりになっている。

 ネグリジェの裾が捲れ上がり、美しい形の太股が顕わになっている。

 普通の男なら目を奪われるのだろうが、タクトにとっては見慣れた光景だ。

 母親代わりの女性に劣情を抱くほど飢えてはいない。


「店長。ちょっと起きてください」

「起きるにゃ起きるにゃ!」


 タクトとマオは二人がかりでクララメラの肩を揺する。

 それを三十秒ほど続けると、女神はようやく、うっすらを瞼を開いてくれた。


「うーん……何よぉ……まさか、この私を朝に起こすなんて冒涜的なことを考えているんじゃないでしょうね……」


「朝に起きるのは当たり前のことだと思うんですけど。まあ、それはいいです。それよりも、俺とマオで出かけてくるので。アジールは今日、臨時休業にします。店長一人だけになりますけど、いいですね?」


「構わないけど……お出かけ? どこに……? また行商旅団の露店でも見に行くの……?」


「いいえ。ちょっとカマルの森まで」


 と、その剣呑な名を口にすると、流石のクララメラも上半身を起こした。

 眠そうに目を擦ってはいるが、話を真面目に聞く必要があると察したらしい。


「カマルの森って……ほとんど渾沌領域スレスレの場所じゃないの。どうしてそんな場所にマオちゃんを連れて?」


「どうやらそこに、次元回廊にかんする『何か』がありそうなので」


 タクトがそう答えると、クララメラは表情を曇らせた。

 一人置いて行かれるのを悲しんでいるような、タクトとマオの身を案じているような。あるいは、怒っているような。そんな顔。


「それって前に言ってた、マオちゃんの中にある『異世界の魔王』の記憶?」


「はい。カマルの森に行ったからといって、すぐに次元回廊を開けるとも思えませんが。手がかりの一つでもあれば、と思いまして」


 タクトにとって次元回廊を開くことは悲願なのだ。

 かつて自分が守りたかった地球はどうなっているのか。

 残してきた家族や友達はどうしているのか。

 それが知りたくて、この十四年を生きてきた。


 しかし同時に。クララメラにとって次元回廊とは、タクトがこの世界からいなくなってしまうかも、という可能性を意味している。

 だから彼女は、心配するし、泣くし、怒る。


「タクト。あなた、そのままいなくなったりしないわよね……? 私、もう一人は嫌なのよ。私は不老不死の女神になってしまったから……私が人間だった頃の知人は皆、死んでしまったわ。いえ、それどころか――」


 それどころか、女神になった時点で。

 かつて一人の少女だった『クララメラ・ラグナセカ』という存在は、全人類の記憶から抹消されてしまった。

 まるで、何千年も何万年も昔から、ずっとクララメラがここで女神をしていたかのように、人々の記憶が改竄されてしまった。


 親しい友人も。愛しい恋人も。家族も。誰も彼もが自分のことを覚えていない。


 永劫の時の流れに耐えられなくなった女神は後継者を選び、消滅することが出来る。

 女神の座を受け継いだ者は、同じように魂が擦り切れるまで、樹の特異点(ネムス・テラ)から湧き上がるマナを制御し、生存領域を維持し続ける。


 それが女神というシステム。

 どこの誰が作ったのか知らないが、悪辣極まる。

 そして同時に、女神がいなければ人類は渾沌領域に飲み込まれ滅びるしかないという現実も存在した。


 よって、クララメラはこの森で眠り続ける。

 どうせ、誰も本当の自分のことを知らないから。

 どうせ、誰もが自分を置いて死んでしまうから。


 タクトにしても、人間だった頃のクララメラを知っているわけではない。

 かつて私は一人の少女だったと、そう教えてもらったから知識として知っているだけ。想いの全てを共有することは無理だった。

 そして、永遠にクララメラと一緒に過ごせるわけでもない。

 いかに勇者と魔王の力を合わせ持っていようとも、この身は人間。多少、寿命を延ばす術を会得したとしても、やがて朽ち果て土に還る。


 しかし、それでも。

 いや、だからこそ。


 タクトはクララメラを置いて消えるなど絶対にしたくない。

 何百年生きようと、彼女がただの寂しがりやの少女だと知っているから。


「店長。前にも言ったでしょう。俺が次元回廊を開きたいのは〝こちら〟と〝あちら〟を行き来できるようにしたいからです。一方通行など許しません。ゆえに、あなたを一人ぼっちにするなど有り得ません。ええ、絶対に」


 それは母親に向ける言葉というより、むしろ妹を言い聞かせるような。

 あるいは別れを惜しむ恋人をなだめるような、そんな声色。

 タクトはクララメラの手を握り、安心させてやろうとした。

 が、その瞬間。


「ああ、タクトぉぉ! あなたは本当にいい子ねぇぇ!」


 クララメラは絶叫し、タクトを両腕で力一杯抱きしめてきた。


「ちょ、店長!?」


 不意のことに驚いたタクトは、されるがまま。

 顔はクララメラの胸に押しつけられ、その豊満で柔らかい感触が目の前に広がっていく。

 ネグリジェには寝汗が染みついているが、不快な匂いは微塵もなく、むしろ花のようですらあった。


 ――これは、ヤバイぞ。


 家族だから慣れているという理屈が通用する状況ではなかった。

 ただでさえタクトは女性の胸が好きなのに、それが全力で押しつけられているなど。

 反応するなというのが無理。


 しかし、だからといって反応してよいという道理もまた通らない。

 なにせ相手は母親代わりの女性なのだ。

 そういった目で見るべきではなく、そもそも見たくない。


 よってタクトは、自分の下半身が大変なことになりつつあると知られる前に離れようとした、そのとき。


「にゃー! 何だか分からないけど、二人だけで盛り上がってズルいにゃ! マオも抱きつくにゃん!」


 と、マオが叫んで、タクトの背中に体当たりをしてきた。

 その勢いで、三人仲良くベッドの上に転がる羽目になる。


「あら、あらあら。私ったら我を忘れて抱きついちゃったりして。ごめんなさいねタクト。あと、仲間はずれにしてごめんなさい、マオちゃん」


「うにゃー、許さないにゃ。今から二人で私をぎゅーってするにゃ!」


 マオはベッドの上を転がりながら、うにゃうにゃと主張する。

 それを見て微笑んだクララメラは、ぬいぐるみでも扱うように、ぎゅーっと胸に抱く。


 おかげで出発がかなり遅れそうだが、そのお陰でタクトは秘密を隠すことが出来たのだ。

 マオにはいくら感謝しても、しきれない。

 街を出る前に、なにかお菓子でも買ってやることにしよう。

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