15 空腹少女
この世界でも活版印刷が百年ほど前に発明されており、おかげで庶民でも手頃な価格で本を買うことが出来る。
しかし印刷された文字や図形には魂が宿らない。格調が低い。端的に言って買う気にならない――という主張は根強かった。
ようは紙の本と電子書籍の対立に近い。
そして、もっとも手書き信仰が強いのはやはり、魔術師だった。
そこで活版印刷の代わりに魔術師が生み出したのが、写本用小型ホムンクルスである。
形は人間そのものだが、手の平に乗る程度のサイズで、明確な自我はない。
ひたすら文字と図形を書き写すことに特化した脳を持ち、しかもキャラメル一つで十時間は働き続けるという燃費の良さ。
この写本用小型ホムンクルスの素晴らしい所は、活版印刷やその他印刷技術では潰れてしまうような細かいものも正確に写し取ることが可能ということだ。
トゥサラガ王国の紙幣には、その特性を利用し芸術的と言えるほど微細な模様が描かれている。
印刷で複製するのはまず不可能で、写本用小型ホムンクルスを使ったとしても、そのインクと紙を再現するのが困難を極める。
ゆえ、魔術師に言わせれば、トゥサラガ王国の紙幣は霊魂が宿っている――らしいのだが、タクトは全くそうは思わない。
そもそも、グリモワールが魔力を放つのは、優れた魔術師が執筆したからである。誰が書いてもグリモワールになるわけではなく、よって手書きが至高という理屈にはならないだろう。
それに、だ。
タクトは本を読むのが好きだ。
もっと沢山の本に触れていたい。
そのためには、もっともっと活版印刷を活用すべきだ。
魔導書だって内容が同じなら、写本である必要は皆無とタクトは主張したい。
魔導書以外の本は、もうほとんど活版印刷になっている。
一体いつまで魔術師だけが古くさいことを言い続けるのだろうか――。
そして、とある昼下がり。
タクトは喫茶店の野外テーブルで、文庫本を読んでいた。
さっき普通の古書店で見つけ、百イエンで買ってきたばかり。
まだ三ページしか読んでいないので、どんな話なのかは分からない。
タイトルも作者も、店頭で初めて見た小説。
何気なく手に取り、表紙に書かれていた美味しそうなレモンの絵に引かれて買ってしまったのだ。
そうやって知らないジャンルの本を買い、この喫茶店で読むのがタクトの趣味である。
リサーチせずに買うのだから、もちろん当たり外れが大きい。
が、それを含めて楽しい。
他の魔術師のように活版印刷を忌み嫌っていたりもしないから、選択肢は無限大だった。
「あれ? タクトくん」
四ページ目をめくったとき、どこかで聞いたとこのある少女の声がした。
顔を上げて、その方向に目を向けると、ララスギア魔術学園の制服である白いローブを着て、木製の杖を持つ、銀髪の少女が立っていた。
「セラナさんじゃないですか。あの本、役にたってます?」
「たってるたってる! 読み進めるたびに知識がたまっていく感じがして凄いわ! 昨日とか、夜中に庭で雷撃魔術を試してたら寮長に怒られちゃった」
「ああ……昨日の夜、学園の方でチカチカ光っていたのはセラナさんの仕業だったんですね。それは怒られますよ」
「えへへ、ごめんなさい」
セラナは舌をペロリと出して笑う。
どうも、真面目に反省していないらしい。
しかし、セラナにあの本を売ってから、まだ三日しか経っていないのだが。もう実践するところまで行ったとは驚きだ。
もしかしたら、タクトが思っている以上に天才なのかもしれない。
学園の購買部で手に入る魔導書で満足できなくなったのも当然だろう。
「それで、セラナさんはこれからどこに?」
「校内トーナメントに備えて、アミュレットを作ろうと思って。ほら、あの本の三章にアミュレットの作り方のってたでしょ。だから材料になる宝石を、テーゲル山に取りに行くのよ」
「え? これからですか?」
「そう。これから」
セラナは澄まし顔でそう答えた。
しかしテーゲル山は歩いて行くと、往復するだけで六日はかかる。
セラナ一人で宝石を探すとなれば、更に何日かかるか見当も付かない。
なのに、セラナの姿はどう見ても山登りをするような装備には見えなかった。
「今からじゃトーナメントまでに帰ってこられないんじゃないですか? それに食料とかどうするんです?」
「い、急げば間に合うんじゃないかしら!? 食料は現地調達!」
「セラナさん……山を舐めてますね」
「うっ……だって仕方ないじゃない……装備を調えようにも……お金が……」
涙目になったセラナは、そう呟いた瞬間に、ぎゅるるるるとお腹を鳴らす。
あっ、と声を出し、慌ててお腹を押さえるが、残念。もう聞いてしまった。
「タクトくんの前で……恥ずかしい……」
「セラナさん。ご飯食べてないんですか?」
「あの本買ったらお金なくなっちゃったのよ……」
「いや、しかし。学園の学食って確か、安くて美味しいと評判でしたよね。三食全て学食にすれば、食費をかなり押さえることが出来るんじゃないですか?」
「そうよ。だから今まで何とかなってきたんだけど……タクトくんみたいな可愛い子が、まさか五千イエンもぼったくるとは思っていなくて……」
「ぼったくってませんから。あと可愛いとか言わないでください」
「じょ、冗談、冗談! そんな本気で怒らないで。怒った顔も可愛いとか思ってないから! 全然!」
セラナは手をパタパタと振り、一生懸命、弁解する。
しかし、ここらで一発シメておかないと、ずっと可愛い可愛いと言われ続けることになりそうだ。
心を鬼にして、きつく怒ろう、と思った瞬間――。
ぎゅるるるるるん!
と、セラナのお腹が低音をかき鳴らす。
「あ、あぅ……やだどうしよう……変ね、昨日のお昼、友達にコロッケ一つ恵んでもらったのに……」
この少女は昨日の昼からコロッケ一つで過ごしてきたのか。
「……セラナさん。もういいです。何も言わずに、そこに座ってください。奢ります」
「えぇっ!? 悪いわよ、そんな。本をまけてもらって、おまけにご馳走になるなんて……私にも一応、プライドが……」
「この二十四時間で食べたのがコロッケ一つと暴露しておきながら、今更プライドも何もないでしょう」
「違うの。そう、あれよ。ダイエット」
「セラナさん、痩せてるじゃないですか」
「でも、着やせするタイプだって言われたことあるわよ!」
知るか、そんなもの。
とにかく今のタクトは『こいつにスパゲティを食わしてやりたいんですが、かまいませんね』という気分なのだ。
「いいですかセラナさん。例えば土砂降りの雨の日。凍えて震える一匹の捨て猫を見つけたとします。あなたは見捨てて立ち去ることが出来ますか?」
「無理! 絶対に連れて帰るわ。うちの寮、ペット禁止だけど」
「でしょう? 俺は今、そんな気分なんですよ」
タクトがそう告げると、セラナは眉を八の字にし、悲しそうな表情になる。
「……私、雨の日の捨て猫みたいなの?」
「はい。お願いですから奢らせてください。このままセラナさんを見捨てたら、俺は一生後悔すると思います。ああ、あのとき俺が一皿のスパゲティを食べさせていたら、セラナさんは山で野たれ死なずにすんだんだろうな、と――」
「死なないわよっ! でも、分かったわ……お言葉に甘えて、ごちそうになります」
セラナはようやく観念し、タクトの向かい側に座る。
タクト自身もまだ昼食を取っていなかったので、せっかくだから一緒に食べてしまおう。
「ちなみに、この店はカルボナーラが美味しいですよ。俺はそれを食べますけど、セラナさんは?」
「じゃあ私もタクトくんと同じの!」
「言っておきますけど。美味しいからって泣いて喜ばないでくださいよ。恥ずかしいので」
「泣かないわよ!? なに、その私が泣く前提みたいな言い方!」
「だって、セラナさんよく半べそになってるじゃないですか。それに、普段まともなものを食べてない人って、何食べても泣きそうなイメージがあって……」
「半べそとかなってないし! あとお金がないのは魔導書を買ったからで、いつもはちゃんと食べてるわ! タクトくん、私に変なイメージもたないで!」
と、セラナは半べそで訴えた。