エピローグ
もう、コリゴリだ。
小さな箱に閉じ込められるわ、食事は口に合わないわ、散々だ。
こんな短期間で故郷に帰りたくなるとは自分でも信じられない。
ミンナを探そう。
決心してからの行動は早く、鼻で潮風をキャッチすると全速力で港に向かった。
自分の縄張りだった港を闊歩していると、海の底へおもりを沈めている鉄の塊のひとつに目が離せなくなった。
そこにミンナがいた。
リレー方式で箱を陸に揚げていた。蓋がずれているところから歩脚の先がハサミになっている生き物が見えた。
(いい匂いはするけれど、人間はあんなグロテスクな生き物を喰うのか?)
鉄の塊を撫でるように舞う風に誘われて鼻がピクピク動き、男たちの汗臭さ、塊の内部から懐かしい香りがして故郷を無性に恋しくさせた。
耳をピンと立てる。もっと確実な情報がほしかった。ほどなく話し声を受信して男たちが呼び合う名前を聞き取ると思わずニヤけてしまう。
イズマイロフ、ケルジャコフ、スメルチン……ミンナに間違いなかった。
四つの脚を折り曲げて雪の上で体を丸めた。興奮を抑えるのに雪の冷たさがちょうどよかったのは僅かな時間で、海から吹いてくる風が壊郷の念よりも体の温かみを奪い、寒さだけを意識させる。
尻尾をマフラー代わりにしていたら毛が鼻の穴に入りくしゃみが出た。仕事にひと区切りついた一人の男がこっちに気づく。
脈ありだと根拠の無い自信がわく。
待機していた陸を走る鉄の塊に箱が整然と隙間なく並べられるとミンナとは対照的な顔立ちをした背の低い男が身振り手振りで値切り交渉を開始した。
背の低い男が指を三本立てケースに入った飲み物を差し出すとミンナの代表者が渋りながらも握手に応じた。どうやら言葉の壁を乗り越えて交渉が成立したらしい。
陸を走る鉄の塊に乗って背の低い男が引き上げると、海に浮かぶ鉄の塊でささやかな宴がはじまり、アルコールの匂いがする液体を浴びるように飲んではしゃぎ過ぎた男が代表者に注意されることがあっても、周りの男たちは指をさして笑い場が白けることはない。
鉄の塊に歩み寄った。
「見ろよ、汚ったねぇ犬がやってくるぜ」
一人の男が嘲るように笑うと他のミンナもつられて鼻で笑った。
「なに言ってんだ。かわいいじゃないか」
擁護してくれたのはクシャミしたとき目が合った男。
「ワン!」
ひと声吠えるとその男が鉄の塊から降りてきた。
「おい、毛が抜けてるぞ」
「きっと皮膚病だぜ、触らないほうがいい」
「気にすることないぞ」
ミンナの忠告を無視してその男は話しかけてきてくれた。
「狂犬病じゃないのか?」
「馬鹿野郎。日本には一九五七年以降、狂犬病の発生は認められていないんだぜ」
両手で掴まれたまま顔を左右に揺さぶられ、手荒なスキンシップを受けているうちに男が首のアクセサリーに気づき、興味を示した。
「おい、首輪にカラシニコフって彫ってあるぞ!」
その一言でミンナが集まる。
「なんだって?」
「本当だ。ロシア語だ」
「どれどれ」
「地球上に一億丁存在する我が母国から生まれた銃の名前をつけるなんてセンスあるな」
「世界で最も人を殺している銃だ」
「女、子供でも簡単に扱えるからな」
「中東で子供がカラシニコフをぶっぱなしている映像をニュースで見たぜ」
自分の名前と意味をはじめて知った。
「気に入った、おまえを連れていくぞ」
抱きかかえられ鉄の塊に乗ることに成功した。新しい飼育者を得た喜びに心が躍った。
数時間後に鉄の塊は海上を走りはじめた。
気分が悪い。動き出したばかりだから乗り物酔いじゃない。
涎がとめどなく口から流れ落ちる。強烈な眠気も襲ってきた。このまま眠ってしまうと二度と目を覚ませない気がして体が震えた。エンジンオイルの臭いが圧縮された空気の塊となって鼻を再起不能にさせる。内部が鉄製の扉に閉ざされているために外に出て新鮮な空気を吸うことも許されない。
ミンナの作業服、長靴、机、椅子、目に入るものすべてが敵に見え、咬みついて振り回し、爪を立てて隔壁を削っても気分が晴れない。
敵……敵……敵……敵……。
どこを見ても敵だらけ。
思い切り吠えて虚勢を張った。
何回も何回も吠えた。
異常を察したのか奥から早いリズムで足音が聞こえてきた。
物陰に隠れた。
相手は背中を向け無防備。
咬みつくチャンス!
後肢に体重をかけていつでも跳びかかれる体勢をとった。
〈了〉
エピーローグにて「狂犬病予防業務日誌」は完結しました。全部読むと一時間程度かかりますが、お付き合いしてくださった方ありがとうございます。ホラー(連載)で「無期限の標的」
とホラー(短編)で「水たまり」「娘、お盆に帰る」「人類、最後の言葉」「彼女の好きなモノ」など多数投稿しています。また恋愛(短編)でも「木漏れ日から見詰めて」という作品が投稿済なので読んでくれた方は感想をよろしくお願いします。必ずコメントを返信します。