第三章 おれは誰?
どうもおれは今日死ぬらしい。
車に轢かれそうになったり、庇から氷柱が落ちてきて背中を掠めたり、死神が手招きしているようだ。
頭が痛い。
一体おれは……犬に襲われて床に後頭部を打って……気を失っていたのは一瞬だったと思うが嫌な夢を見た。忘れよう。自暴自棄になるだけだ。
(犬はどこだ?老人もどこへ消えた?)
頭が重い。
余計なことは考えず、早く日誌を書いて帰ろう。老人が犬の処分依頼にきたことはおれが黙っていれば露見しない。所内は静かだし、きっと犬と老人は出て行ったに違いない。
せめて犬を入れてきた段ボールを片付けて申請書をシュレッダーにかけて証拠隠滅しないと……お金はどうしたのだろうか?ちゃっかり持ち帰ったのか?割れたガラスの後始末と言い訳を考えないと……。
いずれにしても確かめるために正面玄関へ向かわなければいけないと思った瞬間、夜のしじまを電話のベルが切り裂いた。
(まったく!)
心の中の悪態を静め、正面玄関に一番近い総務課の電話に出た。
「もしもしT地域保健所です」
「そちらに犬の処分をお願いにきた人はいませんでしょうか?」
声は中年の女性。初めて聞く声のはずなのに記憶をくすぐられた。でも、その要因がなにかはわからない。電話の相手が早口で尋ねてきたせいもあって、じっくり考えるゆとりがなかった。
「来ていませんよ」
白々と嘘をつく。
「そうですか……」
受話器から落胆した声がもれてくる。
「どうかされました?」
「主人が保健所に犬を連れていくと言ったきり帰ってこないんです」
「それは心配ですね」
と、おれが言ったあと、しばしの沈黙。抑揚をつけずに喋ったので言葉とは逆の意味に、つまり本心では心配なんかしていないことが見破られたかもしれない。
「あのうー、もし主人が保健所に来ましたら、犬の処分を思いとどまるように説得してもらえませんでしょうか?」
心配していたのは旦那よりも犬の方らしく、馬鹿らしくなったおれは「ええ」と生返事をして電話を切った。
名前と住所を聞くのを忘れたことに気づく。メモするべきだったろうか。でも、あの老人の奥さんであることに大方間違いないから申請書を見れば済む話だ。
(なにするんだっけ?)
次にするべき行動が脳の中で行方不明。
(掃除するんだったかな?……どこを?……わからない)。
腕を組んで頭を揺らしてもなにも浮かんでこない。
(帰るとするか……)
事務所を横切り、ドア脇にあるスイッチが目に入ったが電気を点けたまま帰ることにした。『経費削減のご協力』の実施要領で昼休み時間の消灯などを呼びかける偽善的な文書を挟んだクリップボードが回ってくるが、公務員じゃないおれには無関係だ。
裏口……職員専用ロッカー……それほど時間が経っていないのにどこか懐かしい。
そんな想いに耽る暇なく洞窟から助けを求めているのかと勘違いするくらい低くて気味の悪い声が休憩室から聞こえてきた。
男が血を流して倒れていた。畳の吸収力が追いつかず、赤い液体で溺れている感じがするくらい出血がひどい。
血の臭いの生々しさに吐き気をもよおすがなんとか喉元で逆流させてこらえた。酸っぱい臭いが鼻から抜けた。
よく聞くと倒れている男は「誰か……」と呻いている。
「どうしたんだ?」
「さ、さ……刺された」
呼びかけると男は意外にしっかりした口調で伝えてきた。
「あんた、誰?」
素朴な疑問にぶち当たりケガ人に対して素っ気無い口の聞き方をしてしまったが、無意識に出てしまった言葉を訂正するほどおれはお人好しじゃない。
「ここで働いて……いる」
(こんな奴いたかな?)
おれは男の顔を覗き込む。
(覚えがあるような無いような、もっとよく顔を見ないと……)
「どこを刺された?」
ケガの具合を診る真似をして肩に触れ、体を傾け、顔を見やすい向きに変えた。
「痛い!」
男は顔を背けた。
魂を抜かれた。『痛い!』と言った男の苦悶の表情が角膜に焼きついた。
記憶が粒子の粗い一枚の白黒写真となって戻った。男が一枚の用紙をおれに差し出す場面を撮らえた写真が……。
(この男は……そんな馬鹿な!)
声にならない絶叫が頭の中で響いた。脳ミソが溶けてしまったのか、器だけの頭に木霊のように響いて鈍痛となり眩暈するほどの疼きの連打が襲う。
確認する方法はある。
おれは事務所内に引き返して電話をかけた。覚えている番号はたったひとつ。親しい友人もいないし、親戚とも疎遠。自宅の番号だけが迷わずに自然とボタンが押せる。
「もしもし、T地域保健所ですが……」
「も、も、もしもし……あなた?」
電話の相手は慌てて受話器を取りにきたのか息切れしている。
「やっぱりおまえか……」
おれは独り言のように呟く。
「それはこっちのセリフ。さっきの電話あなたの声に似ていると思ったのよ。あなた保健所でなにをしているの?」
驚きと狼狽、そして怒りも入り混じった複雑な声で妻が尋ねてくる。
「は、働いているのさ、臨時職員として」
「なに言ってるの。保健所はとっくの昔に辞めてるじゃない!」
手から受話器が滑り落ちた。
受話口から妻の声がもれていたが、おれを呼び戻す力はない。
いつしか窓際に立っていた。
「老けたな」
周りが暗闇で鏡のように映った自分の顔を見て嘆く。
また写真が一枚追加された。おれが用紙に中野源一郎と書き込んでいる写真だ。
突如としてボールペンを持っている右手が動く。写真が帯状のフィルムとなって断続的な映像になった。目の前に座る男に促されて用紙に記入していくおれ。犬に激突され脳震盪を起こして倒れている男を茫然と眺めているおれ。我に返り自分より一回り大きい男を背負って事務所内で一休みするおれ。男が起きて裏口に向かうのを後からつけたおれ。休憩室でなぜか冷蔵庫に触れた瞬間倒れた男のポケットから千枚通しが落ちたのでそれを拾うおれ。犬や猫の処分には2100円、だったら人間はいくらなのかと疑問を抱き、千枚通しで男を容赦なく刺したおれ。
罪悪感は希薄で犬や猫を殺す手助けをしてきたおれに人間と他の動物との区別などつかなくなっていた。
しばらく正常に流れていた映像が逆回転をはじめて急停止した。静止画像には妻が拾ってきた犬をおれが散歩させている場面が映っている。
完璧に思い出しそうだ。
再び写真が映像となって動き出す。
長時間の散歩のあと、おれは段ボール箱を持ってきて犬を呼ぶ。
犬は白い息を吐きながら素直に段ボール箱に入る。エサがもらえると思ったのかそれとも新しい小屋をプレゼントされたと思ったのかわからないが馬鹿な犬だ。
ガムテープと荒縄を惜しげもなく使い、逃がさないという法則だけで大雑把に梱包する。仕上げに段ボール箱を背負い荒縄で体と一体化させた。
なにしてるの?
妻が寝間着姿のまま家から出てくる。
「おれは出稼ぎでいなくなるし、おまえは来週入院するんだからしかたないだろ。面倒を見てくれる親戚もいないんだぞ!」
そう言うと妻は目に涙を溜め、歯を食いしばって悲しみをこらえる。
前日から何度も繰り返されてきた議論に終止符を打つため、おれは妻に厳しい視線をぶつけた。
同情の余地はない。妻が港で拾ってきた犬は豚のような面構えで大きな声で吠えて近所に迷惑をかける。おれも妻も咬まれた。
なんでそんな犬を拾ってきたんだ。と訊くと妻は“あなたに似ているから”とケラケラ笑った。
家に犬がきてからあまり良い事がない。おれが勤めていた会社が多額の負債を抱えて倒産した。妻はこっちが聞いているだけで不快な気持ちにさせられる嫌な咳をして病院に通い、ついには入院するはめになった。
「可哀相よ。やめてよ!」
妻はとめようとするが、おれが威厳たっぷりに首を振って黙らせた。妻が追いかけてこないことを祈りながら雪道を歩く。
風が吹いていなかったのでそれほど寒さを感じなかった。荷物を持って歩く運動量で上昇した体温が冬の冷たい空気によって首筋から流れ落ちる汗を気化して白い湯気で調整してくれた。帽子を脱ぐとまるで蒸気機関車だ。
保健所までは六キロの道のり。通りによって除雪をしていない歩道があるので長靴が雪で埋まり歩行が困難になる。道路に出ても車のスタッドレス・タイヤで磨耗した路面はツルツルで転んで体が宙に浮かないように摺り足で進むしかなく、雪のないときの倍の時間がかかった。
保健所に辿り着いた頃には太陽はすっかり沈み、グレーの空から雪が降りモノクロームの情景に染めていた。単純に遺影に似ているなと思った。疲れが蓄積されているからなのか暗いことを連想してしまうようだ。立ち止まると膝の痛みに気づき、ズボンを裾から捲って触ると熱を帯びていた。
(さすがに歳だな)
年々頭は固くなり妻と意見が衝突する頻度も増えてきた。この前など妻が買ってきたカレー・ルーが甘口じゃなく中辛だったことで揉めた。本当にくだらないことでケンカしてしまう。六十二歳にして生きている意味がわからなくなってきた。
妻にもう少しやさしくしたほうがいいのだろうか。犬の写真を一枚くらい撮っておくべきだったかな……いや、悲しい思い出がぶり返してくるだけだ。そういえばまだ名前もつけていなかった。
段ボール箱の中で犬はおとなしくしている。作戦は成功だ。段ボールに入れる前に長時間の散歩をさせといてよかった。
クリスマス・イブでも保健所は忙しいのか一階と二階の角部屋に電気が点いている。
しかし建物に入ると中は閑散としていた。事務所には一人だけ職員がいた。若い男が受付にやってきた。対応が不慣れでおれは緊張をほぐしてやろうとわざと老け役で接しやすくしてやった。
気遣いは裏目に出た。蔑んだ目で見ながら申請書を取り上げて好き放題に記入していくので段ボール箱に入っている犬の凶暴性を誇張して作り話を聞かせて困らせてやった。
段ボール箱に閉じ込められていた犬はストレスがたまっていたようで若い男に突進した。休憩室で男を刺してから犬を探しに正面玄関にいくと闇から出現した犬に反応できず、若い男と同じ末路を辿った。
脳を支配していた映像が消え、おれの老け顔が窓に映る。
血のついた千枚通しが手からすり抜け、カランカランと転がる。
ずっと握っていたのに気づかなかったおれは間抜けを通り越して犯罪者となってしまった。
大変なことをしてしまった。
しかし、気持ちのどこかでいつかやるんじゃないかと思っていたことも事実。
「妻じゃなくてよかった」
はっきりとした独り言が口から発せられた。
本心だと信じたかった。