第二章 過去の闇
ここから精神崩壊がはじまります。
お……おっ、お……い、おい。
誰かの声がする。嗄れ声で聞き取りにくく、しつこいくらい呼びかけてきて、ついには脳へ浸透してくる。体の組織が根こそぎ毒されそうな汚い声だった。
瞼をなんとか開放させ、相手を見る。目に映ったのは揺れ動く白い天井。
上半身を起こして頭を振ってみる。視界が捉えたのはうねって変形している年老いた男の顔だった。会って間もないのになぜかうんざりする顔だ。
「大丈夫か、ワシがわかるか?」
老人が心配顔で尋ねてくる。
申請書に記入してもらった名前が思い出せず、頷くだけにした。
「ここまで運ぶのに苦労したぞ」
恩に着せる言い方をされ、すっかり見下されている。
周りを見た。事務所内の隅で大の字に寝かされているおれがいた。両脚が伸びきっていることから老人が引きずってここまで運んできたらしい。
「犬は?」
咄嗟に出た言葉だった。目を左右に走らせ、遅ればせながら警戒心を張る。
老人は力なく首を横に振った。
「とにかく捕まえないと……」
頭を強く打ったせいでふらついた。犬を野放しにしておくわけにはいかない。引き取った犬を逃がしてしまっては保健所としての面目は丸潰れ。しかもそれが危険な犬と知られたらおれが始末書を書くだけで済む話ではなくなる。
「無理しないほうがいいんじゃないのか?」
老人が遠慮気味に自重を促す。
「いや、責任問題になりますから」
「ワシが黙っていれば誰にもバレないだろ」
と言った直後の老人の目から放射状に皺が伸びた。秘密を厳守できるとは到底思えない偽りの笑顔。
「襲い掛かってきたあと、犬はどうしてました?どこにいったかくらい教えてください!」
拒否されないためにきつめに問い詰めた。
老人は真顔になる。顎だけを使って腹話術の人形みたいに下唇を上下運動させて喋った。残念ながら出てきた言葉は的外れ。
「早く逃げたほうがいい」
老人に従うことなんてできない。犬の行方を白状しない理由が不明で不可解で不愉快だ。
(構っていられるか!)
犬を探すため正面玄関へ向かおうと一歩踏み出す。靴底に細かくて硬い塊の感覚が伝わってきた。歩くたびにジャリ……と音がする。床を見るとキラキラ光るものが帯状に広がり、裏口へと導いていた。
(ガラスだ……)
目の焦点を合わせる。靴の爪先でそれを擦って再び感触を確かめた。
(どこの窓が割れたんだ?)
不安と疑問を背負いながら裏口へ小走りで向かう。
職員専用トイレ、ボイラー室、給湯室、休憩室、女子更衣室などを通り過ぎるとき、強烈な寒風が突き抜け、職員専用ロッカーの扉を乱暴に開けた。
“寒い”という思考に取り付かれるとおれの足がとまった。すきま風にしては破壊力がありすぎる。風が吹き込んでくる先に目を凝らすとドアの窓ガラスに中型犬が優に入ってこれそうな穴が開いていた。血痕らしき赤い斑点も見つけた。
外へ逃げたわけじゃないらしい。ガラスの破片と血痕が建物内にあるということは外から中へ入ってきたということだろう。犬は正面玄関から外へ出て、裏口からガラスを突き破ってまた保健所へ入ってくる意味不明な行動を取ったとしか思えない。
まず裏口付近の各部屋を探すのが順番として妥当だろう。職員専用トイレ、ボイラー室、給湯室は空振りに終わった。残りは休憩室と女子更衣室だけとなったが、ドアが僅かに開いている休憩室からブーンというモーター音が聞こえてきた。
肝心なことを忘れていた。保健所では民間の警備会社に夜警を委託している。確か名前は竹山さん。警察を退職して60歳を超えているわりにはがっしりした体格で真面目そうな人。廊下ですれ違うとき、必ず先に挨拶をしてくれる。犬を取り押さえるにはこのうえない味方がいた。
だが、休憩室は暗く、人の気配がない。
トイレ?もしかしたらどこかを見回りしているのか?所内にいるはずだから騒ぎに気づいていないのはおかしい。
電気を点けた。畳四帖半の休憩室には必要最低限の電化製品が揃えられている。テレビは調子が悪いらしく、前触れなく電源が切れることがあるので、警備員の竹山さんが総務課に修理をお願いしていたのを見かけた記憶がある。
テレビの画面が真っ暗なのはわかるとして、石油ストーブと電気コタツが点けっぱなし。飲み欠けのコーヒーが入ったマグカップがコタツの上に置かれている。休憩室に漂う生活感が竹山さんのものなのは明らか。
犬もいなければ警備員の竹山さんがいない休憩室にはもう用はない。しかし、あるモノを無視しようとしても視線が吸い寄せられてしまう。なぜならその白いドアに赤い斑点が付着しているからだ。
(まさか……)
冷蔵庫の中に身も凍るモノが入っているのではないか。警備員の竹山さんが殺人鬼の狂気によりぶつ切りの肉の塊となって保存されている……途方もなく恐ろしい妄想が浮かんだ。
おれは小心者だ。不安要素がすぐに頭を支配してしまう。カブトムシを冷蔵庫に入れたことを忘れ、一家団欒のひと時を台無しにした過去が冷蔵庫に対して嫌なイメージを植え付け、記憶の基礎となり根となって離れないでいる。
記憶は引きずる。
おれが現在一人暮らししているアパートに冷蔵庫はない。だから自分で料理して食べる習慣がなく、もっぱらコンビニの弁当かカップラーメンで空腹を満たし、夏場は近所の自動販売機で冷たいものを買って喉を潤す。
生活するうえで冷蔵庫は欠かせないと思っている人は多いかもしれないが、慣れとは恐ろしいものでいまでは不便さを感じない。無理をしているわけでも意地を張っているわけでもない。
冷蔵庫の存在を消して苦い記憶を掘り起こさないための策だが、100パーセント排除することは困難。テレビで冷蔵庫のCMが流れるたびに胃が重くなる。おれの生活空間に冷蔵庫があったらと思うとゾッとする。
きっとストレスで体が象のように重くなって床を抜け、奈落の底に落ちてしまうだろう。でも、いつかは克服しないといけない。
(冷蔵庫の扉を開けたらどうなる?)
“毒をもって毒を制す”ということもある。冷蔵庫に触れたら免疫ができて記憶の呪縛から解き放たれるかもしれない。
気づけば右手が伸び、取っ手を掴んで扉を開けようとしていた。同時に過去の忌まわしい記憶の扉を完全に開けてしまい、蘇った鮮明な映像に押し潰されやしないかと逆の発想も働く。
結局は躊躇してしまった。
「畳の部屋に土足で上がっていいのか?それにそんなところに犬はいないだろ」
突然背後から老人に声をかけられびっくりした。
「いや、ここに……」
冷蔵庫の赤い斑点を見せようとすると、扉は真っ白。てんとう虫でもとまっていたのだろうかと考えたが、いまは冬だ。さっき見たものは幻覚で片付けるしかない。
「あんた臨時職員だよな」
「ええ」
「机の上に臨時……狂犬病予防……なんとかいうプレートがあったんだが、あれがあんたの正式な職氏名か?」
「そうですが……」
「二つ質問していいかな」
「えっ?」
おれは不快な顔をしてわざと聞こえない振りをしたが、無下に断るわけにもいかない。
「ええ〜と臨時……」
「臨時狂犬病予防技術員です」
「そうそう、どうしてそんなに長い職氏名なんだ?」
「狂犬病が恐ろしい病気だということを保健所はアピールしたいんじゃないですか……それと……」
思わず本音が出そうになった。抑留した犬と猫の尿や糞の始末や遺体の処理をさせるために公務員以外で地元の人に大層な職氏名をつけ、汚くて面倒な仕事を押し付けるために日給で雇っている……それが真意じゃないだろうか。
「それと?」
「いいえ忘れてください。次の質問をどうぞ」
本音を喋ってもただの愚痴になってしまう。おれは二つ目の質問に移ることで本音を心の奥に押し戻した。
「どうして臨時職員の若い兄ちゃんが一人だけこんな時間になるまで残ってるんだ?」
浮かない顔をして老人が尋ねてくる。地方の保健所とはいえ頼りない若者が一人でいるのは不思議なのだろう。
「今日はクリスマス・イブだから皆さん急いで帰られたみたいです」
「あんたは?」
「キリスト教徒じゃないんで」
老人に馬鹿ウケした。尋常な笑い方じゃなかった。鋭利に口角を上げ、笑い声は甲高く、耳の鼓膜を不快に刺激した。
おれは両耳に手を当てたが効果なく、いつまでも下卑た笑いがもれてくる。
老人の唇が裂け、音量が倍増した。
耳、口、鼻、体の穴という穴、皮膚の毛穴までも栓でふさいで肌で感じる老人の声を拒絶したい。
おれは立っているのが不思議なくらい平静を失いつつあった。これは現実じゃないという確信めいたものがない。客観的な立場で見るしか平常心を保てそうにない。
さらに老人の頬骨が突き出て皮膚を破ると脈絡なく真っ白い光が射した。眩い光なのにどこか陰に染まっている気がした。老人から発せられたにしてはエネルギッシュすぎる白い光が不釣合いで陰の部分を感じるのかもしれない。
(知覚を疑え!)
と、強く念じたが信じられない超常現象はまだまだ続いた。
笑い声と比例して白い光が辺りを取り囲んだ。老人の影が白い光に引っ張られ流動線となり細長い渦巻き模様を形成した。気づけばトンネルのような空間におれがいる。トンネルの奥は段々と狭くなって出口がどうなっているのか不透明。目がチカチカする。上下左右の区別がつかなく平衡感覚が狂う。数秒で渦巻きの回転がおさまりトンネルから抜けられたが、おれの目に異変が起きた。周りが白黒に見える。色覚を見分けることができない。手で目を擦っても回復の兆しがない。
呆然としていると…。
「ちょっとなにしてるの?早く座りなさい」
聞き覚えのある声に急かされた。その声には幼い頃から当たり前のように注意され続けてきた。だから当たり前のように自然と椅子に座り、当たり前のように茶碗を持ち「お母さん」と言ってご飯を装ってもらう。
テーブルにはグツグツ煮えたぎる土鍋がガスコンロの上で踊っていた。唾で喉をゴクンと鳴らす仮想の食事では我慢ならず、牛肉に狙いを定めて鍋に箸を突入させた。
「ずるいぞ、ヤス」
兄貴はおれを非難したが口元は緩んでいたし、父親は微笑ましく二人のやりとりを見ていた。
いただきますを言う前に兄貴が対抗心を燃やして牛肉を食べたら母親からきつい教育的指導がおれたち兄弟に実行されていただろう。しかし兄貴は絶対にそんな下品なことをしない性格なのをおれは見抜いていた。だからフライングをして甘えた。
白いご飯が盛られた茶碗が行き渡ると「いただきます」を家族全員で言う儀式へ。そして、いざ鍋へ……と思ったら、母親に「ふざけないで!」と叱られた。おれの口にまだ肉が残っていたので「ひひゃだきます」と発音してしまったからだ。兄貴と父親は腹を抱えて笑う。
ゴングが鳴れば兄貴も肉食獣へと変貌する。冬の野球部の練習は夏場よりも厳しく、持久力をつけるために雪が積もったグラウンドを走らされ、体育館に戻ってからも体が悲鳴を上げる柔軟体操が延々と続く。兄弟は食べ盛り。従って肉はあっという間になくなる。
「野菜も食べなさい」
母親からの指摘をおれは無視したが、兄貴は素直に野菜に手をつけた。嫌そうな顔をしないで食べるところが兄貴のすごさだ。
「先週買った牛肉がまだあるはずなのよ」
母親の顔は計算づくだという自慢がみなぎっていた。
(どこかで……既視感だ)
どうしておれは過去の記憶の中に存在しているんだ?これは観念的なものが膨らんで画像的に表現されたものとは違う。鍋を食べ、味覚、嗅覚、触覚までも感じている。かなり深刻な精神疾患を抱え、受動感を伴った幻覚を見ているのか?
母親は冷凍室を開け、牛肉を探しはじめていた。
「ぼく、もう肉食べないよ」
「肉を食べるのはあんただけじゃないのよ」
おれは母親に肉を探させるのをやめさせようとしたが、あっさり失敗。「ぼく」と子供口調になっている自分にも驚いた。あとは力づくで、制止するしか道がない。
(過去を変えるんだ!)
「ねぇ、ぼくが探すよ」
小さくなったおれの体は母親と冷蔵庫の間に容易く入ることができた。
「どこにあるかわからないでしょう?」
意外なほどにこやかな顔で母親はおれの厚意を退けようとする。
「冷凍室でしょ、任せて」
おれは子供らしい笑顔で積極的な態度を意思表示した。冷凍室の扉の取っ手を背伸びして掴む。
横で母親が心配そうに見守る中、おれは扉を開けて隙間なく積み重なり冷凍保存されている食材に手を伸ばした。当てずっぽうで冷たい塊を引っ張り出すと、鮭の切り身や電気炊飯器に残った白いご飯をラップで包んだ非常食ばかり出てきてお目当てのものに行き着かない。
とにかく牛肉を見つけないと……牛肉よりも先に冷凍保存されたカブトムシを手にしてしまったらどうやって言い訳すればいいのかわからない。素直に謝れば許してくれるだろうか?母親の気性からすると望みは薄い。
冷凍室に手を突っ込んだまま静止していると、母親の険しくなっている顔を見てしまった。
「なにやってるの?」
怒りがふくまれた声に敏感になり考える余裕がなくなったおれは適当に選んで掴んでいた塊を床の上に滑り落としてしまった。
ゴツンと硬い物同士がぶつかる鈍い音がして塊は霜散し、ヒビが入り、カブトムシの特徴である叉状の角があらわになる。
(いつもこうだ……必死にがんばろうとしても結局は悪い方へ運命が向かってしまう)
光沢が失われた黒褐色の突起物を見た母親は悲鳴を上げ、おれは発作的に激しく首を左右に振る。自分のせいじゃないとアピールしたい黒い心が作用した。
「どうした?」
椅子を倒して父親が立ち上がる。
「げっ、カブトムシ」
兄貴の言葉が告げ口に聞こえ、父親の顔が鬼の形相に見え、胃袋を突き破る勢いで鉄球が2個、3個、4個と立て続けに落ちてくる。
体重は無限。足が床にめり込む。手を使ってもがいたが抵抗むなしく沈んでいく。遊泳禁止区域で誰にも気づかれず溺れていく愚か者の気持ちがよくわかった。
必死さが伝わらないもどかしさに苛立ち、意味不明な奇声を発しても家族3人の態度は冷酷で落ちていくおれを黙視している。
おれの目に涙がたまる。まるで抑留所で処分される寸前の犬や猫と同じだ。彼らは注射針を見て飼い主に見捨てられた事実を悟り涙目で訴える。
殺さないで……と。
その慈悲が救われることはない。
真っ暗で無味無臭。浮遊感さえ味わえない空間におれは引きずり込まれた。黒い空間を鷲掴みするとツルンとした感触で指の間から擦り抜ける。摩擦力がないのに体はゆっくり降下していく。安くて水っぽいコーヒー・ゼリーの中にいるみたいだ。
この穴はどこへ通じているんだ?出口はあるのか?底があるのか?おれは死ぬのか?それとももう死んでいるのか?ここは地獄へ通じる穴なのか?
ひどい仕打ちだ……カブトムシを冷蔵庫に入れただけなのに……石を投げれば当たりそうなごく有り触れたただのうっかりミスなのに神様は惨いことをする。カブトムシを生き返らせたい!ただその一心でしたことが人生の障害となって結局はこの有様だ。
諦めが死に直結することは感じていたが、おれは力を抜いた。悪い癖が出た。生きることを諦めてしまった。