第一章 よからぬ訪問者
悲しみは汚れる。
無意識に掘り起こされてくる過去の記憶は悲しいものばかり。なぜなんだと考える暇なく頭に浮かび上があがってくる映像は決まって後味が悪い。
嫌なことは忘れてしまえばいい。
頭を激しく振って効果を期待したが眩暈が襲ってくるだけ。嫌な思い出は工場から垂れ流され、川底に沈殿する不溶性物質のようになかなか浄化されない。
今日もその映像を見る条件が揃ってしまった。蛍光灯が点けられているのは『生活衛生課』のプレートがぶら下がっているところだけで、他の課は明かりもパソコンの電源も落されている。
事務所内に居るのはおれだけだ。
灰色の事務机の上にくっきり映っている頭の影が寂しさのあまり話しかけてきそうだった。窓の外を見ると重力を楽しんでゆらゆら舞い落ちてくる雪が情緒的な北国の冬景色を演出している。
寒い季節になるとどうしても忘れられない幼い頃の記憶が蘇る。
本日の総仕上げとなる大事な仕事をしているのに椅子の背もたれに体重をあずけて体を反らせた。体を楽な姿勢にして記憶をさかのぼらせても愉快な思い出は消滅したらしく辛い過去を受け止めるしかない。
とても幼い頃の記憶だ。
お祭りで買ったカブトムシが、翌朝仰向けになって死んでいるのを発見したとき、心臓が押し潰されそうな衝撃を受けた。
おれはカブトムシを生き返らせようと透明なビニール袋に入れて冷凍室の奥に隠した。
自分が大人になる頃には冷温生理学が拡大に進歩しているだろうと思ったからだ。凍ったカブトムが蘇生する……時が経てば叶うんだと、そのときは思った。
7月のお祭りから5ヵ月経ったある日、我が家の夕食は鍋。外の寒さとは無縁の暖かい湯気が立ち込め、会話も弾んでいた。
おれより2つ年上で運動神経がそれほどよくない兄貴が地元中学校野球部のレギュラーを奪取するぞと高らかに宣言し、家族の笑いを誘った。
「先週買った牛肉がまだ残っているはずなのよ」
鍋の肉が乏しくなったのを見て母親が席を立つ。
おれは思い出せなかった。母親がゴソゴソと冷凍室の中をかき回しているときも。
「あった!」
霜が付着して茶色が霞んでいるビニール袋を自慢げに電子レンジに入れたときも。
「ちょっと待ってね」
ピィーと解凍終了の合図をした電子レンジからそれを取り出したときも。
「変な臭いがするわ」
怪訝な顔でまな板の上に載せ、朽木を粉状に砕いたカブトムシ専用のマットを破けた穴から指で突いているときも少し鮮度の落ちた牛肉にしか見えなかった。
「きゃー」
母親が絶叫したときにようやく夏の思い出が解凍された。
素直に謝るか笑ってごまかそうかと迷っているうちに、父親と兄貴の冷たい視線が突き刺さる。虫に限らずお祭りの露店で売られている生き物なら一通り買ってすぐに殺してしまうおれを疑わないほうがおかしい。
それからのおれは家族の中で浮いた存在となり、奇人変人扱いされることとなった。
人生の汚点第1号の出来事。
カブトムシが死んだ悲しみの記憶は汚れてしまった。
おれの心も汚れた。犬や猫の死を何度も目の当たりにするようになってから死を悼み、嘆くことを忘れてしまった気がする。
2100円。それが彼らの値段。
病気や高齢、やむを得ない事情で飼えなくなった犬や猫を保健所に連れてきて処分するときにかかる手数料がその金額。
電話で処分をお願いしてきた飼い主に手数料がかかることを告げると大概の人は一瞬の沈黙の後「かまいません」と渋々OKする。どれだけの葛藤があったのか知る由もないが、電話した手前仕方なく了承したという心境が窺える。
今日も猫が息を引き取る瞬間を見た。思い出したくなくても思い出さなければいけない。はっきりと明確に……。
カチッとボールペンのペン先を出す。
弱い筆圧で波を打ち、漢字4文字の自分の名前さえも右下がりに傾く。我ながら下手くそな字に乾杯したくなる。見よう見まねで初めて漢字を書いた子供の頃から進歩がない。自覚しているがどうしようもない。
「あんたへそ曲がりだから字も曲がるのよ。もう少しまともな字が書けないと就職できないわよ」
誰かにそんなことを言われたことがあるけれど大きなお世話だ。書いた字が読めれば迷惑をかけることはないのだから。ただし、へそ曲がりは当たっているかもしれない。
ハローワークの求人カードを過剰な期待をしないで眺めていた。完全週休2日制でそれなりの給料が貰え、楽に働けそうな仕事場を探した。そんなのまずないだろうとファイルを捲ると手がとまった。
事業名は地元の保健所。職種は臨時狂犬病予防技術員。仕事の内容は不要犬、猫の殺処分補助。飼育管理、死体処理、抑留施設の清掃、飼い主の相談、狂犬病予防に関する広報及び事務。雇用期間は半年間。
まぁ、半年我慢すればいいか……。
窓口に行き、面接を受けてみたいと申し出た。
2週間後に『あなたを採用することに決定しました』と、面接試験の結果が通知されたが、他に受けた人がいないから合格できたんだろうとおれは思った。
朝は求人に明記されていないはずの正面玄関前と公用車の車庫と犬舎の周りの除雪。その後は事務机に座り犬や猫に関する苦情や相談の電話をじっと待つ。
一番多い相談内容は行方不明になった犬の届出。いなくなった時刻、種類、毛の色、首輪の色、体格と性別を聞いて保護したり見かけたりした人がどこに電話するかわからないので役場の住民課と警察の拾得物取扱係にも電話するように教える。
電話は三日に一度、犬や猫の処分は週に一度あれば多い方。資料を読んだり、古い型のパソコンで簡単な書類を作成して一日を過ごす。犬や猫の殺処分に目をつぶればそれほど辛くない仕事といえる。
保健所にある資料は解釈が難しい文書が羅列されていて睡魔に襲われることもあったが、狂犬病については興味が湧いた。
発病すれば100パーセント死亡するのが狂犬病。犬や猫などに咬まれ、唾液中のウィルスに感染し、すべての哺乳動物が罹患する。
世界で年間3〜5万人が犠牲になり潜伏期間は人間だと約30日。初期は風邪に似た症状で咬まれた箇所が知覚異常となり、後に不安感、水を飲めなくなる怖水症、麻痺、精神錯乱を起こして最期は呼吸麻痺で命を落とす。
犬の潜伏期間は3週間で、後肢の麻痺にはじまって流涎や目に映るもの、例えば石など食べたり咬みついたりと目に映るものすべてに攻撃的になる。
異常な声で吠え、やがて起立不能になると昏睡死する。ワクチン接種すれば予防は可能だが、いまだに有効な治療法がない恐ろしい病気だ。
保健所の臨時狂犬病予防技術員は一日の締めくくりとして必ず日誌を書くことが義務づけられ、黒い綴込表紙にはワープロの整った活字で『狂犬病予防業務日誌』とシールが貼ってある。
中身は書き込むためのたくさんの項目欄が存在する。一番上の日付から氏名、本日の業務、処分動物、処分に使用した薬物、抑留番号などの項目が並ぶ。
犬や猫の苦情と相談は『その他業務内容及び特記事項』のところに電話の内容と経緯を細かく記入する。なにもない日は本日の業務のところに『事務整理、その他』と書くことが通例となっている。
今日は『猫の処分』と記入しなければいけない嫌な日だった。
午前10時34分に電話が鳴り、女の声で飼い猫を処分してほしいとの相談が寄せられた。
猫アレルギーになり面倒を見てくれる人もいないので処分したいと言ってきた。
飼い主の判明しない野良猫や野良犬などは別にしておれが保健所に勤めてから飼っている元気な犬や猫を処分してくれと頼まれたのは初めてだ。
やむを得ない事由、回復の見込みがない重篤な疾病、あるいは老いて動けなくなり安楽死させてやりたいと処分を依頼してくるのが大方の理由。
今回はやむを得ない事由?により仕方なく猫の処分を了承することにした。飼い主がどうしてもというのならこちらに拒む理由はないのだ。
マスクをしてゴホゴホ咳をする弱々しい女の人を想像していたが、保健所にやって来たのはふくよかで笑顔の似合う病気とは無縁の若い女性だった。
彼女は苦笑いを浮かべながら言った。
「喘息がひどくって」
笑ってごまかせば全て許してもらえると思っている底の浅い言い訳におれは怒りを抑えて『犬又は猫の引取り申請書』を黙って突き出した。
なに、これ?という顔をして彼女は申請書をまじまじと見詰める。
通常なら電話口で2100円の手数料がかかること、簡単な書類を書いてもらうので印鑑が必要なことなど説明しておかなければいけないのだが、わざと教えなかった。
彼女に対して悪意ではなく善意の不親切で説明責任を放棄する権利を行使したことに悪意など感じない。
自分の飼っているペットが原因で病気になった腹癒せに処分を依頼してきたのか、それとも世話をするのが単純に嫌になったのか、どちらにしても粗雑な動機で一々処分をお願いされてはたまらない。
申請書を記入してから彼女の表情は曇りがちになる。手続きが意外に面倒なことがわかったからだろう。印鑑がないので証紙の割印はボールペンで名前を書いてから丸で囲んでくださいと指示した。
お金がかかることは予想の範囲内だったのか素直に支払ったが、バケット・キャリーに入れてきた猫を保健所の裏にある別棟の犬舎まで運んでくださいとお願いすると不服そうな顔をした。
別に意地悪をしたわけじゃない。飼い主にしか従わない犬や猫がいて逃げ出さないための予防策としていつもそうしてもらっている。
犬舎に向かう途中で彼女からひとつだけ質問された。
「いつ処分するんですか?」
彼女はこの期に及んで猫の身を案じている。
「申請書に記入してもらった時点であなたの飼っていた猫は不要猫となり即処分することになります」
おれが無表情で振り返ると彼女は視線を逸らせた。
保健所の裏手に周ると墓そっくりの『犬魂碑』がある。処分した犬や猫に安らかに眠ってもらうためのもので従順だった家族の一員のためにお参りにくる人もいる神聖な場所。
『犬魂碑』のすぐ横にベージュ色のコンクリート造りの平屋で一見すると少し大きめの物置小屋風の犬舎がある。
アルミ製のドアを開けると前室と呼ばれる四帖くらいの空間が待っている。
スイッチをONにして100ワットの裸電球を点けた。流し台に使い終わった注射器を入れる瓶型のプラスチック容器、棚には犬や猫のエサ、いままで処分されてきた犬の首輪とリードが無造作に置かれ、犬の首を押さえつけるためのペンチを大きくしたような器具などがぶら下がっている。
突き当たりに引き戸があり奥の部屋が抑留所となっている。引き戸は立て付けが悪く両手を使って踏ん張らないと動かない。開けた途端に埃のこもった臭いが鼻をつき、天井が前室より低くなっているせいで窮屈な感じがする。
抑留所には鉄格子付きの窓が備えてあるが、隣接する役場の建物が自然光の侵入を阻んで昼間でも電球を点けないと薄暗い。
おれが「どうぞ」と声をかけても猫の処分を申請した若い女の人は靴底に接着剤でもついているかのように足を動かさない。
コンクリート壁に等間隔に打ち込まれている係留用の錆びた鎖、爪や歯で引っ掻いた跡、青黒い染み、隅にひっそり置かれた子犬や子猫を閉じ込めるゲージの格子は所々色が剥げて曲がっている。抑留され、必死に逃げ出そうとする可哀相な姿を嫌でも連想させる。
彼女は抑留所の入口付近にバケット・キャリーを置いて一歩も入ってこない。
「猫を出してこっちのゲージに移してくれませんか」
おれがゲージを開けると彼女はもう使いませんからとバケット・キャリーを置き去りにしてそそくさと犬舎から退散した。
少しだけ胸がスゥーとした。
彼女が哺乳類のペットを飼うことはしばらくないだろう。
おれは日誌に視線を落とす。
抑留番号の欄に今回は記入が必要ない。役場や警察が拾得して首輪が付いて人間に飼われていた形跡がある犬は土日プラス三日間だけ公示し、抑留番号がつけられる。飼い主が現れれば返還するが、公示日が満了すれば処分するしかない。
彼女が連れてきた猫は当日処分することになるので抑留番号が不要。飼われていたときには名前がつけられていただろうが、最期は番号さえつけてもらえない。
種類の欄に雑種、毛色は黒、性別はオス、体格は中型、処分という欄には当日、そして処置には薬殺と書く。
犬や猫を薬殺するには細かい規定がある。薬品保管要領により危険薬品受払簿に管理状況を記録する。保管庫には『毒薬』の表示をして薬事法第四十八条により保管庫は施錠する。薬事法第四十四条により直接の容器又は直接の被包に黒地に白わく、白字をもってその品名及び『毒』の文字を記載する。
薬殺とは犬や猫を安楽死させるためネンブタール注射液を前投与して意識喪失状態にし、その間に筋弛緩剤の塩化スキサメトニウムでできるかぎり苦痛を与えずに致死させることをいう。
おれはあくまで臨時職員なので補助する役割。ナイロンの紐を引っ張ると口が締まる仕掛けの網にバケット・キャリーから猫を移す。猫は爪でしがみついて出ようとするが揺すって落とす。軍手で網を絞って猫の逃げ場をなくして動けなくする。
注射を打つ役目は獣医などの資格を持つ環境衛生係長。猫が元気なのでネンブタール注射液を普段の倍投与してやっと眠ってもらえた。塩化スキサメトニウムを打って7分後に係長が猫の死を宣告する。
臭いを防ぐため青いビニール袋を二重にして遺体を入れ、公用車で焼却場に運ぶ。山の麓にある焼却場まで片道30分でいける距離なのだが、あいにくの吹雪で視界が悪く、時々車を停めて吹雪が収まるのを待った。
おれが保健所に戻ってきたとき、ほとんどの職員が帰り支度をはじめていた。
人口15000人を支える総勢22人の小さな事務所に勤めて3ヶ月になるが、最後に一人だけ取り残されたことはいままでなかった。
クリスマス・イブの夜はさすがに皆の帰りが早い。予約していたケーキを買って家族が待っている家に飛んでいくのだろう。
羨ましいとは思わない一人のほうが気楽だ。誕生日、結婚記念日など家族がいればイベント事に付き合わなければいけない。しかもクリスマスはキリスト教徒のもので仏教徒のおれには無関係だ。
送信所から標準電波を受信して正確な時を刻む腕時計がピッと鳴り、7時になったことを告げると日誌の記入は一番下の業務内容及び特記事項の欄だけとなった。
それまでボイラーで暖められていた事務所内に冷たい空気が侵入し、おれの首筋を撫でた。背骨付近の神経が体毛を逆立てる。誰かに見られている気がしてしょうがない。
職員が出入りする裏口へと通じるドアが開けっ放しになっていた。外から隙間風が通り抜けて背中を擦ったようだ。おれは安堵のため息をもらす。
ドアを閉めるため椅子から腰を浮かせると、受付台のガラス戸を小突く音が所内に響いた。
えっ、と振り向く。
正面玄関の蛍光灯は消されているが、暗闇の中に僅かに人間らしき頭と肩口の輪郭が視認できた。
保健所は午後5時30分に受付を締め切る。正面玄関のドアはカギをかけて入ってこられないはず。
(閉め忘れかよ!)
総務課の係長の顔が頭に浮かぶ。
受付には専門員がいて特定疾患などの相談にくる人の対応をする。専門員が席を外していても総務課の人たちが代わりをしてくれる。
受付で接客するのは初体験。うまくできるだろうかと不安と焦りが胃袋に1キロ程度の鉄球を落とした。
「はい、なんでしょう?」
ガラス戸を横にスライドさせ、覗き込みながら尋ねた。
「い、犬が……死にそうで……かわいそうだから処分したいんだ」
消え入りそうな小さな声だった。顔の3分の2は闇に紛れていたが、喉仏の辺りが筋張っている。年老いた男性と推測した。
「そうなんですか……」
おれはいかにも残念そうな表情で対応する。別に老人が不憫に思えたからではなく、電話もせずに受付時間を終了した保健所に直接やって来た常識知らずを相手にしなければいけないおれが可哀相になってきたからだ。
「犬を連れてきているんですか?」
「自宅から歩いて運んできたんだ」
運が良いのか悪いのかおれが扱える案件なので「担当者がいません」「窓口はすでに終了していますので明日改めて来てください」などと冷たくあしらうわけにもいかず事務所から出て対応することにした。
玄関ロビーには食中毒の注意や献血を呼びかけるポスターと銀行の粗品のカレンダーが貼ってある。簡素な応接セットのテーブルには朱肉と老眼鏡が添えてあるだけで殺風景だ。
「どうぞ」
椅子に座るように促すとようやく老人の顔がはっきり認識できた。
向き合って座った老人はグレーのニット帽を被りボア付きの紺のジャンパーを着ていた。ひどい猫背で顔を亀みたいに出し、両サイドのポケットに手を突っ込んでこちらを凝視する。眼窩が凹んでいるから眼球が異様に突き出て、頬がこけ、針金のように細い血管が浮かんだ首筋の筋肉はそげ落ちている。
「飼い犬ですか?」
「んっ……」
首を横にも縦にも振らず『はい』なのか、『いいえ』なのか煮え切らない答え方をする老人におれは苛立ちを感じた。
飼い犬なのかそれとも野良犬なのかは重要な質問事項だ。もし飼い犬なら2100円の引き取り手数料が発生するし、拾得した犬や猫なら無料となり書いてもらう申請書の様式も違ってくる。
会話をして感触を探らなければいけない。
「飼い犬が病気なんですか?」
問いただしても老人はだんまり。
「飼っている犬が病気なんですね」
おれはイラッとする感情を押し殺しながら念を押した。
「はい」
老人からはっきりした返事をもらい、おれは椅子から立ち上がる。
「申請書に記入してもらうのでちょっと待ってください」
自分の机の引き出しから別記第19号様式『犬又は猫の引取り申請書』の用紙とボールペンを持ってロビーに戻ると老人は机の一点を見詰めたまま固まっていた。
「ええ〜と、まず日付から書いてください」
用紙の上にボールペンを置き、老人が動くのを待つ。
老人はポケットからゆっくりと右手を出した。骨に皮がぺったり張り付いた貧弱な手だった。ボールペンを持っただけでポキッと折れそうだ。
「今日は何日かな?」
(何月かな?と聞かれないだけマシか……)
「24日です」
おれが日付を教えても老人は申請書に記入できなかった。手が震え、ペン先を用紙につける寸前に取りやめた。カタカタカタと膝がテーブルに当たっている。小さな地震が老人の周りで起こっていた。
「外は寒かったですか?」
おれが気遣って訊くと、老人はぎこちない笑顔で答えを表現してきた。寒さは関係ないのかもしれない。慣れない役所での手続きに緊張しているのだろう。
名前と住所を書いてくれたのが4分後。手が覚束ないわりにはおれより字がうまかった。
中野源一郎……住所は町内。
犬や猫に関する手続きは免許証や保険証を提示する義務がなく、本当に本人なのか身分を証明する必要性がないので住所と名前の虚偽を再確認することはしない。あくまで飼い主を信用するしかないのだ。
名前を書いてから老人の手がまたとまった。犬の特徴を記入する欄で頭を悩ませている。
おれはやさしくボールペンを奪い取り、申請書を回転させた。
「犬の種類は?」
と訊く。
「ざ……雑種か……な」
おれは種類の欄に雑な字で『雑種』と記入して矢継ぎ早に質問した。
「毛の色は?」
「白……いや薄茶かな」
「どっちなんですか?」
「薄茶」
「性別は?」
「どっちだったかな」
オスかメスかはあとで調べればわかることだが、犬には無関心なようだ。身勝手な好奇心から野良犬を拾い、飽きて世話をしなくなり、飼育することを放棄して保健所に連れてきたことが容易に想像できた。
「不妊処置はしていますか?」
無駄な質問だと思いながら取敢えず訊いてみた。
「わからない」
「犬の年齢は?」
「九歳くらいじゃないかな」
「登録はしていますか?」
という質問をしたとき、老人は視線を斜め上に向けて考え込む。
「しているんですか?していないんですか?」
おれは訝った。老人の態度が気に食わない。記憶検索中のポーズを取っているのだが、はぐらかしているだけにしか見えない。
「役場の住民課で犬を登録した記憶はありますか?」
「わ、忘れました」
老人は明らかに動揺している。やはり野良犬を拾って登録もせずに飼っていた可能性大だ。
「登録しているのであれば明日にでも役場の住民課にいって犬の登録を抹消してもらってくださいね」
一応勧告した。
「わかった」
ようやく最後の質問を残すだけとなった。保健所では毎日たくさんの書類が上司の机を通過するが、申請理由の項目だけはチェックが厳しく、記入もれがあれば注意を受ける。
「犬が病気だから安楽死させたいんですね」
申請の理由をごり押し気味に『病気のため』を勧めた。
引き取り理由で27.2パーセントが無計画な繁殖によるもの。犬が問題行動を起こすが16.7パーセント。飼育者が高齢や病気で飼えなくなったが14.2パーセント。引越しが14.1パーセント。
動物の病気が13パーセント。飼育者のアレルギーが1.7パーセント。その他が13.1パーセントというデータがあるのだが申請理由の欄になんて記入したらいいのか迷うのは老人だけじゃない。迷える元飼い主たちには『病気のため』と無難な理由を選択させる。
(おまえが病気なんじゃないのか!)
申請書を書いてもらう度に何度口から出そうになったことか……。
『病気のため』を殴り書きした。
さっさと手続きを済ませたかった。老人と向き合って座っている時間がたまらなく嫌になってきた。
「2100円の手数料がかかるのですが、お金はお持ちでしょうか?」
老人は小刻みに頷きながらズボンのポケットから小銭を出して指で数え、500円玉4枚と50円玉2枚をジャラジャラとテーブルの上に散らす。
「犬はいまどこに?」
と訊くと老人は腕を水平に伸ばして人差し指で受付台の下を示した。
その方向を見て2キロ程度の鉄球がおれの胃袋に追加された。
受付台の下には異様な様相を呈した段ボール箱がひっそりと置かれていた。
ガムテープでぐるぐる巻きにして過剰なほどの目張りをして縦、横、斜めから荒縄でがんじがらめにされている。角が凹んでお歳暮で贈られてくるハムに似ていた。
段ボール箱に入っていた野良猫を拾い、飛び出して逃げられるおそれがあるので粘着テープで封をしてきた人はいるが、これほど厳重に梱包してきたのを見たことがない。
「随分と用心深いですね」
荒縄を解いてガムテープを剥がしていく手間を考えると嫌味を言わずにはいられなかった。
「歩いて運んでくる途中で落として穴を開けないためだ」
廃校に置き去りにされたピアノの鍵盤のようにほとんど抜けた歯を見せつけて老人が微かに笑う。
「犬舎まで運んでもらえますか?」
おれは事務的な口調で指示した。お年寄りに思いやりがないと言われそうだが、自宅からここまで運んできたわけで無理な注文とは思わなかった。
老人は驚いた表情で目を大きくする。ワシが運ぶのか?という心理がありありとわかる動揺ぶりだ。
「あっ、いいです。私が運びます」
前言を撤回した。おれは人として欠けているところがあるようだ。それがなんなのかをじっくり考えて反省しようなどとは思わないが……。
段ボール箱を間近で見ると空気穴さえないことがわかり、おれの眉は気遣わしげに寄った。
「死んでるんじゃないですか?」
犬が密閉された空間に閉じ込められているとなると窒息死しているかもしれない。そうなれば対応が変わってくる。
道路なのですでに死んでいる犬や猫の遺体は役場の住民課が処理することになっている。いわばゴミ扱いされ、町外れの焼却場へ直行する。死んだ犬や猫を保健所に持ち込むことはお門違い。
「そりゃない」
老人は早口で否定した。
「そ、そうですか」
老人が断言した言葉を半信半疑で受け止めた。
「いつ処分するんだ?」
本日二度聞かれることになってしまった質問。もう飽き飽きする。
元飼い主は同じことを訊く。往生際が悪い。覚悟を決めて犬や猫を保健所に連れてきたんじゃないのか?面倒見ることを諦めた元飼い主にいつ処分するかなんて質問はナンセンスだ。
「担当者がいませんので明日になると思います」
淡々とした冷たい言い方をして自らの感情を冷ました。
「あんたがしてくれないのか?」
「私は臨時職員なので規則でできないことになっています」
「そこをなんとか」
老人が頭を下げて懇願する。
「保健所としてはどうすることもできません」
電話でしつこく迫られたときに保健所が出向いて引き取りにいくことができないので保健所としてはどうすることもできませんと突き放す言葉をよく使う。
飼っている犬が凶暴で捕まえにきてほしいとか、団地やアパートに引っ越すので飼えなくなったから引き取りに来てほしいとか理不尽な相談を持ちかけられたときはきっぱり断るしかないのだ。
多くの飼い主は声のトーンを落として引き下がってくれるのだが、老人は新手の手法で攻めてきた。
「早く殺さないと大変なことになるぞ!」
なんと脅迫してきた。
老人の首筋が赤く染まると見る見る顔まで伝染して赤風船みたいになった。興奮の度合いが尋常じゃない。
老人をこれ以上刺激させるとややこしい事態に発展する危険がある。
「お、お、落ち着いてください。ど、どういうことですか?」
自分に落ち着きがなかった。申請書の記入が終わってから老人の態度が横柄になり臆病風に吹かれた。
「頼む!なんとかしてくれぇ〜」
怒っていたかと思うと今度はがっくりと膝をつき狼狽する老人。
「だ、大丈夫ですか?」
おれは老人の落胆ぶりに目を白黒させた。
「せっかく苦労して閉じ込めたのに……」
老人が悲哀を主張してよろめきながら自力で立った。両手に握り拳を作り、斜に構え、眼光鋭くおれを睨む。『怒り』を表現するにはあまりにもわかりやすいポーズ。その幼稚さゆえ、なにをしてくるかわからない恐怖がおれを襲う。
「あんた段ボールを開けるのが怖いんだろ。責めはしないさ、触れないのは賢明だ」
挑発するような発言をした老人は、それきり段ボール箱を直視したまま動かなくなった。
殺さないと大変なことになるぞと言っておきながら触れないのは賢明だと言う。この老人は相当もうろくしているようだ。
(開けるか……)
段ボール箱に入っている犬の生死を確かめないことには何も先に進まない。生きていれば置いて帰ってもらうし、死んでいれば持ち帰ってもらう。
だが、中身を確認することが急に困難な作業に思えてきた。もしかして犬が恐ろしい病気に感染しているのではという勘繰りが頭の中を駆け巡り、恐怖が増殖して行動を鈍らせた。
狂犬病の資料なんて読むんじゃなかった……。
「フラン犬って知ってるか?」
老人が重い口調で尋ねる。
「知ってますよ」
フラン犬が話題になって1年しか経っていないのに随分懐かしい過去の出来事のような気がする。
フラン犬の第一発見者は下校中の小学生で住宅街の一角を曲がると様々な模様で継接ぎの皮膚を移植された犬と出会った。
白地に黒い斑点がついたダルメシアンと思しき皮膚や茶色の長い毛の部分もあれば灰色、黒、焦げ茶などセンスの微塵も感じられない配色で縫い糸の痕も痛々しく、右と左の耳も不揃いで元々がどんな犬だったのかわからないくらいパッチワークのような小片だらけにされたその犬は吠えるなどの敵対行動を取らずに小学生の前を悠然と横切った。
家に着いた小学生はさっそく母親に報告した。
「本物の雑種を見たよ」
犬は町を徘徊して自分を宣伝して回った。
異常者が医者の真似ごとをして実験材料にされた犬ではないかと噂が広まり、報道されてフランケンシュタインからもじってフラン犬と命名された。
捕獲する場面が地元のテレビニュース番組で放送されると飼いたいという物好きたちから問い合わせが殺到した。
話題を利用して一儲けしようと映画まで製作される過熱ぶり。子供を使いフラン犬との触れ合いを描いたものだが、映画は2週間で打ち切りとなり子供と動物を起用すれば必ずヒットするという法則は通用しなかった。
物珍しさからわいたフラン犬の奇妙な人気は一気に冷め、フラン犬も誰が引き取ったのか不明で良い飼い主に巡り合えたとか、車に轢かれて死んだなんて噂も流れたが、事実は藪の中。
「見た目はフラン犬ほどじゃないが、そこに入っているのは……」
老人は意味ありげに言葉を切った。
そのとき、ガサ……ガサ……と段ボール箱が揺れた。
これで中身の犬を引き取る権利が成立した。犬が生きているのであれば保健所が最期の始末をする。
老人は視線を下に向け、眼球を動かして面白みのないリノリウムの床を探索している。これから不吉なことが起こることを助長する挙動不審な仕種だ。でも、念のために中身を確認しなければいけない。
平静を保ちつつ屈んで段ボール箱に触れると中からドンと音がした。段ボール箱が数センチ横にずれておれとの接触を嫌う。
悲鳴こそ上げなかったが、手をカメレオンの舌のように引っ込めてしまう失態を演じてしまった。思わず照れ笑いを浮かべたが、老人は目を床に落としたままなのでみっともないところは見られていない。
改めて気合を入れなおし、段ボール箱に括られている荒縄を解こうとした。指先の力だけでは結び目が固くて緩まない。
世間の人たちは浮かれ気分でクリスマスプレゼントの包装紙を破いている頃なのにおれは有難迷惑な箱を開けるのに四苦八苦している。
(あっ、そうだ!)
おれは尻ポケットから先端鋭く尖った千枚通しを取り出して荒縄の結び目に突き刺す。
どうしてそんなものを持ち歩いているんだ?
もしそんなことを尋ねられても答える義理はないし、正直に答えてしまったら老人はショック死してしまうのではないだろうか。
千枚通しで結び目をほじり、荒縄を解き、ぐるぐる巻きのガムテープを全て取り除くときつく縛られていた反動なのか段ボール箱は長時間雨ざらしにさらされたように型崩れしてふにゃふにゃ。
段ボール箱をいじくりまわしているとき、犬は一度もワンという擬声語を発しない。それどころか息遣いも聞こえてこない。
凶暴なうえに冷静さを持ち合わせているのかと犬の性格分析をしているとガサガサガサとさっきよりも速いテンポで動いた。無抵抗で貧弱な段ボールの壁を相手に爪を研いでいる。
いつか飽きるだろうと静観していたが、爪がむず痒いのか、外の世界に飛び出したいのか、かきむしる音は一向にやまない。
裂け目ができた。斜めに三本、カッターで切りつけたみたいに切り口はシャープ。中の様子が垣間見え、薄茶色の毛は申請書どおり。
犬独特の世話しない動き……後にストレスを爆発させるだろう。段ボール箱が破壊されるのは肯定的な事実。
次から語られた老人の話はできることなら否定したい。おれの胃袋にまたしても鉄球が1個追加されて負担となったのは少しでも信じてしまった証拠だ。
「気をつけろ!その犬の好物は血……血なんだ!」
フラン犬の話をしたあとにドラキュラ犬とは……。
「ワシは病気の妻を残して出稼ぎしているんだが、ことの始まりは3週間前の電話だった。“寂しいから犬を飼うことにした”と。ペットショップで犬を飼うお金なんてないはずだからおかしいなと思い、どうしたんだ?と訊くと妻は笑って言った。“拾ったのよ”って。2週間前の電話では“犬がエサを食べないの”と相談してきた。1週間前にも電話があった。“実は家に来てから水を飲んでいるところを見ていないの”と。妻はひどく落ち込んでいた。おまえが寝ている間に飲み食いしているんだろうと言うと不満そうに“そうかしら”と返事して電話を切った。5日前の電話では元気のない声で“水とエサの容器の重さを量って確かめたけれどどっちも減っていなかった”と訴えてきた。ワシは怒鳴った。そんな犬捨ててしまえ!とな。すると妻は黙って電話を切った。そして2日前にかかってきた電話で妻が言った。“やっと犬の好物がわかったの。血、私の血をおいしそうに飲んでくれたのよ”と喜んでいた。それが妻の声を聞いた最期になった」
拙速すぎるかもしれないが最期という言葉の裏に死が見え隠れしている。どこまで作り話なのか、聞いていて気分が悪くなった。
全部作り話だ。老人が犬を処分したがっている気持ち、人間の気分次第で処分されていく犬の気持ち、保健所では人間の醜い心は2100円で報われ、犬の純粋な心は踏み潰される。
「この段ボールに入っているのがお話の犬なんですか?」
黙っているとまだまだ鉄球が増えそうだった。胃の重たいものを排除するために思いついた質問を頭の中で整理しないでぶつけると、老人は当然だろうとでも言いたげに険しい顔でおれを見る。
段ボール箱に入っている犬を不要犬と完全に確認したわけではないが、これ以上老人からくだらない話を聞かされ暗い気持ちにさせられることはない。
「あっ、もういいですよ。どうぞお引取りください」
手続きを打ち切った。
最後に聞かなければいけないことがあるのだが今回は省いた。薬殺した後の遺体を持ち帰り民間のペット霊園などで手厚く葬るか、保健所に遺体の処理を任せてもらえるのか選択をしてもらうことになっている。老人は犬を厄介払いしたいのだからペット霊園に持っていくことは考えにくい。
「おい、見ろ!」
老人が後退りをはじめた。
段ボール箱を食い千切り、前肢で引き裂き、大きな穴をこしらえるとそこへ頭をねじ込み、頭を振りながら穴を広げて突き破る。段ボールの破片をくわえたままひどく痩せ細った犬が顔を上げた。
毛は白に近い薄茶、目が小さく鼻がピンク色。シンプルな容姿に滑稽ともいえる派手な色が顔の中心に配置されている。神々の悪戯によりデザインされたブサイクな犬。くたびれた革製の首輪をしていてロシア語らしき文字が刻まれていた。
老人が警戒するほど怖さは感じない。見れば見るほど哀れに思えてくる。
犬は全身を見せびらかすように180度回転した。向かって右側の毛がきれいに抜け落ち、赤い肌が露出されている。
犬は毛がなくなるとこうなっているんだと漠然とした感想をもった。
「どうして毛がないんですか?」
少しでも犬を刺激したくないとの配慮なのか、老人は囁くようにおれの問いに答えた。
「ストレスのせいだ」
「ストレス?」
聞き返したが老人は沈黙。
少しわかったことがある。老人は言いたいことだけ言うと黙ってしまう。熱しやすく冷めやすい。天気のように気分がころころ変わる。根本的に我がままな性格に違いない。
グルルル……。
犬が唸った。頭は低く、背中を波のように隆起させて屈伸運動をする。瞳孔を拡張させて跳びかかる準備を整える。
目が合ってしまった。ターゲットはおれらしい。
「よしよし」
警戒心を解くために屈んでやさしく声をかけたが、犬は尻尾を振らず、逆に高らかに吠えて自己防衛反応を覚醒させる。
「そんなことをしても無駄だ」
老人が嫌悪感を滲ませながら言った。
そして、おれの腕を掴む。
「逃げるぞ!」
老人の強制的な指示を即座に受け入れられず、屈んだままの姿勢で躊躇していたおれの隙を狙い、犬が突進してきた。避けきれずに犬の頭がまともに顎を直撃しておれは後頭部を強かに床に打ちつけた。
“痛い”という神経が作動したのは一瞬だけ。視界が白濁し、意識が遠のき、意外と気分は悪くない。視界が正常に機能していないのに恐怖心は不思議とわいてこなかった。