プロローグ
地域保健所で処分される犬や猫の実態をまじえた作品になっています。
ミンナ…ミンナが不機嫌だ。
食べ物をくれない。物欲しそうな顔をしても無視される。
足場が不安定なのに文句ひとつ言わずに仕事していた屈強な男たちから笑顔と鋭気が消えた。ミンナはベッドに横になって背を向け、死んだように眠っている。
存在を忘れ去られているのだろうか?
少し前までぼくの頭を代わる代わる撫でにきて腹一杯になるまで食べさせてくれたのに…。
理由として考えられるのはじゃれたついでや手渡しで食べ物をくれたときに謝って歯を立ててしまうことくらいだ。
「コイツ、海に放り投げてやろうか!」
と、怖い顔をして怒る人もいるけれど尻尾を振ってあどけなく振舞うと周りの人は庇ってくれた。
反省を踏まえて不快を与えない程度に軽く咬んで怒る人と怒らない人を見極めた。触れ合った人たちは高い確率で元気がなくなり部屋に閉じこもってしまう。
からかわれているのか、本気なのか、どちらにしても仲間はずれにされるのは面白くない。とても不愉快だ。
海に浮かぶ鉄の塊も動かなくなった。
咬んでなにが悪い!せっかく仲間である印をつけてやったのに!
ステンレス製の食器に残っていた水をちょっとずつ飲んで生きながらえていたが、体から抜けた毛が大量にたまっていて飲むと咳き込み、渇きを癒すのに苦しみを伴った。
鉄の塊の上部から海を見詰めた。
真っ昼間だというのに海面は黒く、飛沫もなく、光の反射もない。巨大な黒い固形物が鉄の塊の動きを停めているように見えた。冬の海は静かで不気味だった。
とある港に停泊してから無意義な時間が浪費されていく。
ミンナ…死ぬ…。
直感的な閃きが体を震わせた。
巻き添えはごめんだった。動物的勘を信じてヒョイと鉄の塊から飛び降りた。
呼び止める奴は誰もいない。未練はなかった。広い大地に立つと自由を手に入れた気がした。
港は近代的で高い建物が目立ち、埠頭の道路も碁盤の目にきちんと整備されていた。
海上を走る鉄の塊の中で争うことなくいままで縄張りを確保できたが、異国の地ではそうはいかなかった。
よそ者を拒む同類同士との争いは牙を向いて威嚇すると相手はキャンキャン鳴いて退散した。ニャーと声を出し、臀部を盛り上げて歯向かってきた族も敵じゃなかった。空から黒い鳥と白い鳥に隙をつかれ、魚の腸などを横取りされたのは不覚だったが、全体的にここには手ごたえのある奴がいない。
久し振りに人を咬みたいと思った。無邪気な発想からくる軽いものじゃなく尖った犬歯で深く食い込ませて血を流して致命傷を負わせたいという病的なものだ。
いつものように港周辺を警備していると、獲物が目に入った。
襲うには造作もない年配の女性。
隙だらけだが策略を思いつき、噛むという欲求をひとまず抑えることにした。この人に甘えたら食べ物を恵んでくれて暖かい寝床を提供してくれるかもしれないと思ったからだ。
軽やかなステップで近寄り、女の人の脚に顔を密着させるとスッと細い手が伸びてきて頭を撫でられた。
異国の人間とのファースト・コンタクトは大成功に終わった。
この作品は完結しています。ぜひ、エピローグまで安心して読んでください。