日誌3日目―昼休み ~悪魔と鬼~―
(食堂に行けばいいんだよな?)
昼休みになり、天寺は言われた通りに食堂へ向かっていた。悪魔と呼ばれる人間が、どんな人物なのかを想像しながら歩く。
(邪悪な笑顔を浮かべていて、目には絶対零度の光。取引をすれば、その後は…)
土下座をして頼んだ瞬間に、容赦なく頭を踏みつけられるイメージが浮かんでしまった。あまりにも退廃的すぎるので、頭を振って打ち消す。
「まあ、大丈夫だろ。うん」
(………大丈夫だよな?)
不安を打ち消そうとして言ったことに、疑問を持ってしまう。打ち消したつもりが、イメージが鮮明に焼きついてしまっていた。
不安に付き纏われながら食堂〈シャイニー〉に行くと、ドアの前に制服姿の嵐城が立っていた。
天寺に気がつくと元気に手を振り、飛び跳ねるかのような活発そうな表情になった。
「天寺さーん、こっちです!」
人目のあるところで、よく聞こえるように名前を呼ばれるのは目立つ。
あまりの気恥ずかしさに固まるが、これ以上の視線が集中するのはまずいと判断して足早に近づいていった。
「…バイトをサボらせて悪い」
約束していたとはいえ、バイトの時間を割いてもらうのは心苦しかったので謝罪する。
「いえいえ、食堂のバイトは朝だけですから」
顔の前で手をヒラヒラと振って苦笑する。
それを聞いて心の中でホッとし、すぐに別の疑問が浮かんできた。
「そうか。…じゃあ、昨日の昼休みは?」
「あれは、たまたまヘルプが入っただけです」
「そうだったのか。…雨堂が残念がりそうだな。アイツ、君のことを気に入ってみたいたから」
約二十四時間前のことを思い出して言い、教室に置いてきた友人のことを思い出した。
嵐城を目の保養にすることを目的で、昼休みに食堂に来て空振る。それから放課後に部室でグダグダ。
もし自分だけ知っていたことを言ったら、グラビア雑誌を部室で読みながら時間を潰し始める。アイドルの写真について意見を求められ、貴重な睡眠時間が失われていく。
(想像するだけでウザイな。後でメールしておくか)
自分の被害に直結する想像に、気がつかれないような小さいため息をついた。
「あははは、そんなことよりも行きましょうか。そろそろ、あの人の休憩時間ですから」
いよいよ、悪魔に会う時間が来た。案内されたのは食堂の入り口付近の席だ。
相変わらずの賑わいに緊張を削がれつつ待っていること数分。
「お待たせしました」
悪魔を呼びにいった嵐城が戻ってきた。彼女の隣には、絶世の美女と形容してもおかしくない女性が立っている。
感情の読み取れない瞳を向けられ、立ち上がろうとしていた天寺はイスに縫いとめられてしまった。
「あなたが依頼人?」
「…は、はい。天寺慧一です。文学部の二年生です」
墨汁を垂れ流したような黒髪を掻き揚げる姿に見惚れ、一瞬だけ返事が遅れてしまった。
「初めまして、私の名前は霧坂裕子。情報学部の三年生よ」
挨拶を済ませると彼女は正面、嵐城が天寺の隣に付き添う形で座った。
霧坂は近くを通ったウェイトレスを呼び止め、カプチーノを急いで持ってくるように頼んだ。
「それで、私は何をすればいいのかしら?」
今さら気がついたが、彼女はウェイトレスの衣装を着たままだ。本当に休憩時間を割いてもらっているのだと知り、できるだけ手短み済ませた方がいいと判断する。
「俺の写真が載っている記事を削除して欲しいんです。生徒会がウェブニュースから消去してくれたんですけど、他のページで取り上げられてしまって…」
用件を言うと、霧坂は眉間にしわを寄せた。
「一度流れた情報を止めようとしても、どこからか流れ出してしまうわ。そんな依頼を引き受けるのは、どんなに頼まれても嫌よ」
彼女の言うことは正論だ。一度流れた情報は、絶対に止めることができない。唯一の対処法は時間が経つのを待つこと。
天寺も、そのことに気がつかなかったわけではなかった。
「わかっています。だから、人気のあるページから削除してほしいんです。もちろん、できる範囲で構いません」
天寺の依頼を引き受けてもらうには、できるだけ条件を絞ってハードルを下げていかなければならない。
今朝から普通に授業を受けている時、女子生徒の何人かが噂していたぐらいだ。今なら人気のあるページから削除すれば、噂の広まる勢いが少しだけ弱まるかもしれない。
「……なるほどね。それなら、私も引き受けないこともないわ」
どうやら引き受けてもらえるらしい。そのことにホッとしたのもつかの間、
「それで、その依頼を引き受ける私のメリットはあるのかしら? 言っておくけど、それなりの対価を求めるわよ」
ニヤリと妖しい笑みを口元に浮かべて尋ねてきた。それまで人間らしい感情が無かったのが嘘のように、その表情は活き活きとしている。
(……なるほど、まさしく悪魔だな)
これは取引。相手に何かしてほしいなら、自分が何かをしなければならない。
「俺にできる範囲でなら何でもします」
「…言ったわね?」
「は?」
「今、何でもするって言ったわよね? 間違いなく言ったわよね?」
「は、はい、確かに言いましたけど…」
念を押すように聞いてくる霧坂に、何か嫌な予感がしかしない。天寺は思わず逃げ腰になるが、彼女の深まる笑みに縫いとめられてしまう。
「そんなことを言ったら、とんでもないことを頼みたくなるわね。何をしてもらおうかしら?」
その瞬間、天寺は自分の発言を遅ればせながら後悔した。彼女の妖しい笑顔に犯罪臭しか感じて慌てる。
「で、でも、俺にできる範囲でお願いします」
「ええ、わかってるわよ。白黒で言えば黒の方を頼みたいのが本音なのだけれど、本当の本当に残念だわ」
口調は残念そうなのに、表情は新しい玩具を与えられた子供のようだ。
ますます嫌な予感がして、天寺だけでなく嵐城まで額に大粒の汗が浮かぶ。
緊張が続く中、カプチーノが運ばれてきた。それを受け取り、霧坂は優雅な仕草で飲んで息を吐く。非常に絵になる光景だが、見惚れる余裕が今は無い。
「そうね、……また後でメールするわ。アドレスを教えてくれる?」
たっぷり焦らされた後、さらに待たされることを知った天寺は天ならぬ天井を仰いだ。
(……悪魔だな)
悪魔との取引を終えて食堂を出ると、昼休みが終わるまで残り二十分という時間。食券を買って昼食を取るのには充分な時間だが、急激に眠気が意識を侵食し始めたので図書館に向かうことにした。
だが、思ったよりも侵食が早かったのか十歩も歩かないうちに体が左右に揺れだしてしまう。
(……まず、いな…)
「あ、天寺君?」
フラフラと頼りない足取りで歩いている天寺に誰かが声をかけてきた。相手を確認しようと振り返ろうとしたところで、天寺の意識は沈没してしまう。
天寺には夜に眠ることができないという体質があった。二、三日は眠らなくても大丈夫なのだが、いきなり眠気に襲われてしまうことがあるのだ。
この体質が現れたのは小学校高学年の時。何がきっかけなのか思い当たることもなく、いきなり授業中に眠ってしまった。その日は放課後になっても起きず、心配した両親が迎えにきた。しかし、まったく起きる様子のない天寺を不審に思った両親は彼を病院へ連れて行った。
医師の診断では体に異常はなく、健康そのものだったらしい。そのことに納得できないまま両親に連れ帰られ、その日は真夜中に目を覚ました。ずっと傍にいた母親は泣きながら喜び、父親は黙ったまま二人を見守っていた記憶が今でも残っている。
その日以来、夜は寝つけず。昼は眠気に襲われるという事態が発生するようになった。
この体質がある限り、常に忙しい生徒会の仕事はできない。どちらかというと、適度にサボることができる部活の方が気楽なのだ。
人付き合いが最低限なのは、体質のせいで他人に迷惑をかけたくないからである。
「…本当に、そんなことでいいの?」
不意に声が聞こえてきた。
気がつくと真っ白な世界に、天寺は一人だけ浮かんでいた。体の自由は利かず、指一本さえ動かすことができない。
「…ケイは、あの時のことを気にしすぎだよ」
(誰、だ……)
声を聞いても相手がわからない。しかし、聞き覚えのある優しい声音だった。そんな不思議な感覚に戸惑いを覚える天寺に、誰かが後ろから抱きついてくる。
優しく包み込まれるような感覚に戸惑いながら、なぜか体を預けてしまう自分に驚いた。
「……ケイ、お別れの時間みたい」
これが、この夢で最後に聞いた言葉だった。
いきなり視界が暗転し、抱きつかれている感覚が消える。
「……君、……で…君」
誰かの声が聞こえてきた。途切れ途切れだが、天寺は自分を呼んでいることをなんとなく理解する。
うっすらと瞼を開けると、そこには大きな瞳があった。予想外の光景に眠気が吹き飛んでしまう。
「天寺君!」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、天寺は目の前にいる人物が誰なのか気がついた。
「…晴崎、か?」
確認の意味も含めて尋ねると、目の前にあった瞳が遠ざかって顔全体が見えるようになる。どこか幼さの残る瞳に、ゆるく巻かれたおさげが記憶と一致した。
さっきまで見ていた夢のこともあり、自分の記憶が正しかったことに安心する。
「……よかった。……フラフラしてて、いきなり倒れたから」
なぜか泣きそうになりながら言う日和を見て、天寺は慌てて起き上がった。
体質のことは、あまり他人に話したくないので伏せておきたい。それでも、倒れるところを目撃されて心配をかけたなら嘘もつけな
い。
「大丈夫だ。ただの寝不足だから」
中途半端な事実を伝え、納得させる以外に方法が無かった。
「昨日、面白い本を見つけて読んでたんだ。やっぱり夜更かしは体に悪いみたいだな」
苦笑を混ぜながら砕けた調子で嘘をつく。今までの経験上、そうでもしないと信じてもらえないことを彼は知っているからだ。
「晴崎も、寝不足を甘く見ると痛い目にあうから気をつけろよ」
また嘘をつくと、日和は溢れ出しそうになる涙を拭って睨みつけてきた。
「天寺君、なんで笑ってるの?」
普段の彼女からは想像できない迫力に、浮かべていた苦笑すら剥がれ落ちてしまう。
「寝不足だけで倒れるなんて、普段の健康管理をしっかりしてないからだよ。だから、しっかり食べないとダメ」
「あ、ああ…」
普段から料理に手間はかけず、スーパーで買った惣菜ですませているので心当たりはあったので頷いておく。
「もしかして、天寺君って一人暮らし?」
いきなり変化する質問の趣旨に追いつけないまま頷くと、
「じゃあ、今日の夕方にお邪魔してもいい?」
「……はっ?」
晴崎はとんでもないことを言い出した。
「男の子の一人暮らしなんだもん。私が栄養のあるものを作ってあげる」
何かの冗談だと思うには、彼女の目が真剣すぎて無理だった。
さすがに、一人暮らしの男の部屋に女が一人で来るのはまずい気がした。会って間もない相手に間違いを起こさない自信はあるが、天寺はいくら何でも唐突すぎると焦る。
「いや、そこまでしてもらわなくても…」
「目の前で倒れた人を放っておけない。授業が終わっても帰らずに待ってて」
「あっ、おい…」
断ろうとしても彼女は聞く耳を持たず、部屋から出て行ってしまう。
引きとめようとする体勢のまま固まってしまうが、状況を整理しよう頭はフル回転で稼動させた結果――
(…ああいうのを、お人好しって言うんだろうな)
という結論を出して、肺の中に溜めていた空気を吐き出した。
自分が言われることはあっても、他人を見なければ理解できないことがある。そんな教訓を得て、天寺は複雑な気分になった。
気を取り直して周囲を見回すと、ベッドのある部屋――保健室にいた。壁にかかっている時計で時間を確認すると、すでに六限目がそろそろ終わる時間だ。
天寺は目を閉じて状況整理を開始する。
彼が倒れたのは〈シャイニー〉の前。倒れる前に誰かに声をかけられたことが頭の隅に記憶として残っている。声をかけてきた相手は晴崎だと断定し――
――げしっ
たところで、脇腹を強い衝撃が襲った。あまりの痛みにのたうち周ってベッドから転げ落ちてしまう。
「そこは、病人とJKが横になる場所だ。気がついたんなら、さっさと出て行け」
声を聞いて脇腹を押さえながら起き上がると、ベッドの反対側に白衣を着た男性が立っていた。顎に髭を生やしているせいか、養護教諭というよりも白衣を着たヤクザにしか見えない。
「…わかりました。すぐに出て行くので二つだけ質問させてください」
「さっさと言え」
あまり関わりたくない外見だったので、下手に出ながら二本の指を立てて頼むと男性は睨みつけてきた。
「俺をここに運んできたのは誰ですか? 晴崎――さっきまでいた女子はいつからいたんですか?」
許しが出たので質問すると、男性は深々と息を吐いて天寺のネクタイを掴んで引き寄せた。なぜか殺気のこもった瞳で睨みつけられて目を白黒させる。
「……お前を運んできたのは、さっきまでいたJKだ。授業始まってんのに、お前のことを心配してここにいた。わかったら、とっとと失せろ」
「……そうですか。失礼しました」
ネクタイを解放されて早足で保健室を出ると、体から力が抜けたように壁にもたれかかる。
(…あれが、保健室の鬼か。雨堂から聞いていたけど、すごい迫力だったな……)
とてつもなく心臓に悪かったが、さっき聞いた話からだいたいの状況は把握できた。ますます複雑な気分になりながら、教室に戻ろうと一歩踏み出したところで考え直して行き先を変更する。
授業の終了を告げるチャイムを聞きながら、天寺は人気の無い廊下を歩いて行った。